三四年前の晩秋、石巻市北上町十三浜地区で、相川に沿った林道を下っていると
軽トラックとすれ違ったが、直ぐにご老人が降りて来て「どこから来たの ?」と聞かれた。
『白浜から峠を越えて来ましたが、倒木が多くて難儀しましたよ。』と応えると、
「峠から下ってくる途中に、昔の金山があったんだよ。ズリに気付かなかったか ?」
と聞かれ、『それらしき小山がありましたね、欅と藤の太蔓があった辺りで。』
ご老人の話では、そこから北西に入った小沢沿いに、たくさんのズリ山が連続して
いて、子供の頃はそこで遊んだのだという。「金色に光る石もあったよ。」
「金色に光る石」とは黄銅鉱か黄鉄鉱のことでしょうね。
なお、「ズリ」とは鉱山から出た廃石のことで、炭鉱ではボタ山と呼ばれていますね。
二枚とも2017.1.17撮影
今年は殆ど雪がないので、教えられた金山跡まで上ってみることにしました。
沢沿いの林道を上がり、藤の太蔓が絡んだ欅の木を過ぎると、北西から小沢が合わ
さるので、これを遡ることにしました。数分上って行くと斜面のあちこちにズリ山があり、
周囲を歩き回るとかつての道形も残されていました。
この金山を地元では「相川金山」と呼んでいたようですが、日本金山誌によると
「横倉鉱山」となっています。それは登記上の鉱区名かと思われます。
2017.1.17撮影
道形の下の斜面に、すり鉢状に陥没している箇所がありました。
かつての坑道とか、採掘部が落盤したのでしょうね。
すり鉢状、或いは窪地状に陥没した地形が何箇所かありました。
ひょっとして坑口もあるのでは ? と探しましたが、一つも見つからなかったので、
安全面に配慮して、閉山時に埋め戻されたのでしょう。
2017.1.17撮影
横倉鉱山沿革(要約)
藩政時代に稼行され、文化年間(1815年頃)には一時砂金の採取が行われたという。
明治42(1909)年、登米郡の菊地儀伝治より杉武一郎に鉱業権の移転があった。
杉の経営下で主要な3坑が開坑され、一時は従業員が100名を超えたという。
その後近間某に経営が移り、その下で大正坑が開坑され、機械や製錬設備の導入
も図られ鉱山の最盛期を迎えたが、具体的な産金量などの記録は残されていない。
その後藤岡芳蔵に経営が移り、富鉱帯下部の採掘に着手したが、湧水やその他の
悪条件が重なり、休山に至った。
年月の記載は無いが、大正から昭和戦前の稼行と推量される。
2017.1.17撮影
地質および鉱床(要約)
横倉鉱区一帯は中生代三畳紀の頁岩が広く分布し、一部に砂岩を挟在する。
これらに閃緑岩が貫入し、これに伴う熱水の上昇により鉱床が形成された。
鉱床は上記頁岩中に胚胎する含金銀石英脈で、本鉱脈、前鉱脈、奥鉱脈と三条
あり、本鉱脈と前鉱脈が稼行対象となっていて、脈幅は3~20cm、走向延長は
900~1000mである。金品位は一般に高く、肉眼で見える金も産出したといわれる。
富鉱部の金品位は30~100g/t、最高品位は150g/tを示した。
坑内平断面図によると、四坑、八坑、中切坑、大正坑と4本の水平坑道が開坑され、
さらに第一立坑、第二立坑、第三立坑を設けて鉱脈を採掘している。
軽トラックとすれ違ったが、直ぐにご老人が降りて来て「どこから来たの ?」と聞かれた。
『白浜から峠を越えて来ましたが、倒木が多くて難儀しましたよ。』と応えると、
「峠から下ってくる途中に、昔の金山があったんだよ。ズリに気付かなかったか ?」
と聞かれ、『それらしき小山がありましたね、欅と藤の太蔓があった辺りで。』
ご老人の話では、そこから北西に入った小沢沿いに、たくさんのズリ山が連続して
いて、子供の頃はそこで遊んだのだという。「金色に光る石もあったよ。」
「金色に光る石」とは黄銅鉱か黄鉄鉱のことでしょうね。
なお、「ズリ」とは鉱山から出た廃石のことで、炭鉱ではボタ山と呼ばれていますね。
二枚とも2017.1.17撮影
今年は殆ど雪がないので、教えられた金山跡まで上ってみることにしました。
沢沿いの林道を上がり、藤の太蔓が絡んだ欅の木を過ぎると、北西から小沢が合わ
さるので、これを遡ることにしました。数分上って行くと斜面のあちこちにズリ山があり、
周囲を歩き回るとかつての道形も残されていました。
この金山を地元では「相川金山」と呼んでいたようですが、日本金山誌によると
「横倉鉱山」となっています。それは登記上の鉱区名かと思われます。
2017.1.17撮影
道形の下の斜面に、すり鉢状に陥没している箇所がありました。
かつての坑道とか、採掘部が落盤したのでしょうね。
すり鉢状、或いは窪地状に陥没した地形が何箇所かありました。
ひょっとして坑口もあるのでは ? と探しましたが、一つも見つからなかったので、
安全面に配慮して、閉山時に埋め戻されたのでしょう。
2017.1.17撮影
横倉鉱山沿革(要約)
藩政時代に稼行され、文化年間(1815年頃)には一時砂金の採取が行われたという。
明治42(1909)年、登米郡の菊地儀伝治より杉武一郎に鉱業権の移転があった。
杉の経営下で主要な3坑が開坑され、一時は従業員が100名を超えたという。
その後近間某に経営が移り、その下で大正坑が開坑され、機械や製錬設備の導入
も図られ鉱山の最盛期を迎えたが、具体的な産金量などの記録は残されていない。
その後藤岡芳蔵に経営が移り、富鉱帯下部の採掘に着手したが、湧水やその他の
悪条件が重なり、休山に至った。
年月の記載は無いが、大正から昭和戦前の稼行と推量される。
2017.1.17撮影
地質および鉱床(要約)
横倉鉱区一帯は中生代三畳紀の頁岩が広く分布し、一部に砂岩を挟在する。
これらに閃緑岩が貫入し、これに伴う熱水の上昇により鉱床が形成された。
鉱床は上記頁岩中に胚胎する含金銀石英脈で、本鉱脈、前鉱脈、奥鉱脈と三条
あり、本鉱脈と前鉱脈が稼行対象となっていて、脈幅は3~20cm、走向延長は
900~1000mである。金品位は一般に高く、肉眼で見える金も産出したといわれる。
富鉱部の金品位は30~100g/t、最高品位は150g/tを示した。
坑内平断面図によると、四坑、八坑、中切坑、大正坑と4本の水平坑道が開坑され、
さらに第一立坑、第二立坑、第三立坑を設けて鉱脈を採掘している。
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