若い頃は平和教育をうけて、左翼・リベラルな考え方だった。
いつの頃からか、考え方が反転して右寄りになった。
渡辺昇一先生の「ドイツ参謀本部」という本を読んだのも、一つのきっかけだったかもしれない。
戦争というものは、戦闘員同士が戦うという定義がある、というような事が書いてあった。
中世においては、王様たちが雇った傭兵たちが王様たちのかわりに代理戦争を戦ったが、戦場となった地の住民にはなんの関係もないことで、淡々と日常生活を営んでいた。
絶対王政国家にとっても常備軍を備えることは財政的に非常な負担であったが、ナポレオンが徴兵制度を考え出したため、いくらでも軍団を編成できるようになった。これがナポレオン軍の強さの源泉。
このあたりの時代で国民国家が形成されはじめるが、戦争というものは、戦闘員同士が戦うという定義も同じ頃成立したのではないだろうか。もう覚えてないけど国民国家が暴走しないようにしなければいけないわけで、そんな気がする。
クラウゼヴィッツの「戦争とは政治の一形態である」という箴言もそのころだろう。鉄砲を撃ち合っていなくても戦争は知らないところで行われているのだ。
アメリカの戦略爆撃で都市に爆弾を落とされ、一般市民が大量虐殺された我が国は、戦争というのはなんと悲惨なものなのだろうか、というトラウマを背負ってしまった。
このような蛮行はかつてなかったことであるのに、我が国は敗戦国の悲しさでアメリカの言いなりになって、悪い日本軍が暴走して戦争を始め無謀な独裁の結果、悲惨な敗戦を迎えた、という理屈を飲み込んでしまった。
戦争に負けたんだから、何をされてもしょうがないよね、そういう考え方が世の中を覆ってしまった。
自分も右寄り思想になるまえから、強大なアメリカに勝つことは出来なかったのだから、しょうがないよねと、忸怩たる思いだったが、負けたから何でも受け入れなければならないわけではないし、もしかしたら勝てたかもしれないよ、という主張する本に出会って目の前の雲が晴れた気がした。
ちゃんとやっていたら、勝てたか、もしくは引き分けにもちこむことが出来た。
仮説だがリアリティがあるのだ。