しばらくニュースになってなかったが、チャイナ企業に買収されてた。
太ってきたので始めたが、下半身の関節があちこち痛い。
お勧めロードムービーで検索して面白そうだったので借りた。
中々面白かった。
末娘役が可愛い。
だが、ネット情報だとわざと不器量に、太ってるように見せるためボディスーツを着せられていたらしいが、なんか奇形っぽく見えて、そこが今一つ気に入らなかった。
コンテスト前夜に、末娘が父の影響を受けて、私負け犬になりたくない、と泣くのだが、祖父が、負け犬というのは負ける事を恐れてチャレンジしない人の事だよ、お前はそうじゃないだろ、明日は楽しもう、と慰めるシーンが良かった。
アメリカの男は基本的にマッチョイストだと思っていて、常に男伊達を誇示して競いあい、結果、優勝劣敗で常に勝者と敗者が明確になる厳しい社会ではないかと思うのだが、それだけではなく敗者だからといってそこで終わるのではなく、いつでも再挑戦できるし、勝てなければ別の戦場に移動して戦い続けられる、ような陽性の哲学のようなものを持っているのではないか。
祖父のセリフにそんな哲学を感じた。
以前に毎日新聞女性記者が夫の都合でアメリカに移住して息子が野球をする、という本で描かれていたアメリカの男たちと同じ感じだ。
コンテストでもドタバタになり末娘が演技を続けられなかったのは残念。
でも、観ているうちにだんだん面白くなってきて、最後は中々いい映画だな、と思った。
茂木誠先生のyoutubeを見ておもったが、キリスト教でずっと分からないのが三位一体と偶像崇拝禁止。
偶像崇拝禁止は単純に教会・神父の元に教徒をとどめおきたいからかな、とも思うのだが。
教徒たちが勝手に啓示を受けて、石像だとかその辺から拾ってきたシンボルを聖なるものとして崇め始めたら教会に来なくなるから。
でも、カトリックはマリア像とか拝んでいる。
昔のヨーロッパで、教徒がマリア像を彫って拝み始め、周りの者もそれに同調して教会にこなくなり、リーダーが独自の説教を始めたら、やはりこれは教会の権威に対する造反で、異端として攻撃され潰されたのではないのか。もしくはマリア信仰はさすがにゆるされたのかな。
三位一体というも分からない。
偶像崇拝禁止から推測すると、キリスト教では神様と言うのは形のあるもんではないと、言っているのではないか?と思うのだが。キリスト教の神様はあまねく偏在している、どこにでもいらっしゃる、という説を読んだことがある。
なのにイエスキリストという人の形をとって人の世に顕現したのは何だ?という疑問に対して、いや、あれは姿形のない神様の別形態であると、根っこをたどれば神様なんだ、父なる神様がその子供と言う具体的な姿かたちをまとって地上に降り立ったのがイエスキリストなんだ、という説明だったのだろうか?
残る精霊、というのも分からない。
日本語にするとなんか妖精とか幽霊とかそういうふわふわした存在を連想させる言葉だが、そうではないのだろう。
やはり神様を思わせる偶像的存在があって、それをイエスキリストと同じようにあれも根っこをたどれば神様なのですよ、と言いたいがために構築されたロジックの産物ではないか?
茂木先生のyoutubeでは精霊とはマリアの胎内に入ったヤハウェだとおっしゃっている。
マリアを祀るべきかどうかで公会議となり、ネストリウス派が異端とされたとか。
イエスキリストを生んだマリアは何者なのだ、マリアも神なのか?という疑問につじつまを合わせるために、精霊が彼女を懐胎させたのである、精霊も姿かたちのない神様の一形態であるのです、としたのだろうか。
要は、人間の自然な疑問と、キリスト教の教義のつじつまを合わせるために、生み出されたのが三位一体ではないのか?
つまり、人間がいて神様がいる。
ではその間におられるイエス・キリストは何者だ → 神が別形態をとったのである。人を導くため神の子として姿を現したのである。
ではマリアは何者だ → マリアは神が別形態をとった精霊によって懐胎した特別な女性である。
神は世に偏在しておられて姿かたちのない存在だが、人を導くためにイエス・キリストと言う形をとり、そのために精霊がマリアを懐胎させたのである。
と言う事なのだろうか?
まあまあ、面白かった。
今まで観たイーストウッドの映画の中で1番表情が豊かで自然な演技だと思った。
強面ではなくダメ男なのも珍しい。
イーストウッドの生歌が今一聴き所がないというか、素直ないい声ではあるけど、全く深みというか面白みがないのが欠点かな。