東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

秀吉の一夜城

2022-12-31 | 歴史散歩

小田原石垣山城




小田原市街を望む


2022年11月に原子核工学科の同期会があり箱根に集った。コロナ禍が気になる人がまだかなり存在し、3年越しの同期会で箱根に来たのは通常の半数だったが、懐かしい面々と楽しいひとときを過ごした。

当日、宿に入る前に皆さんと一緒に小田原城と石垣山を見物した。豊臣秀吉(1537年生1598年没)の小田原石垣山の一夜城は有名な話だ。

1590年(天正18年)、秀吉の小田原攻めでは小田原城に対面する石垣山に砦を築き、白紙を張って白壁のように見せかけ完成後一夜のうちにそれをはがし、小田原方の度肝を抜いたといわれる。実際には1590年4月から6月まで約80日間で築いたそうだ。豊臣秀吉は1537年生1598年没なので53歳の絶頂期にあった。この時、徳川家康の関東への転封を指示し、伊達政宗の恭順の参上を受けた。


墨俣城


墨俣一夜城

木曽川

墨俣流域



墨俣城


さて、秀吉の一夜城といえば、墨俣(すのまた)の一夜城がこれまた有名だ。大河ドラマの太閤記や戦国物で何度も放映されるので、歴史好きの方には食傷気味かも知れぬが、現地に行くとなるとなかなか機会には恵まれない。
 
今回はバイク旅行で深谷、箱根、十里木、浜岡、天竜川、南アルプス界隈を巡った流れで、岐阜と三河に行き、大垣の墨俣まで足を伸ばした。その後は予定通り、名古屋からフェリーで仙台へ戻った。

木下藤吉郎が指揮しこの地に墨俣一夜城といわれる砦を築いたのは1566年、29歳のとき、小田原一夜城の24年前のことだ。
織田信長の美濃攻めの折り29歳の藤吉郎は抜擢され、墨俣の一夜城を築き、出世街道を駆け上り53歳の小田原攻めで天下統一を果たすことになる。

現在、墨俣には城郭があるが、当時の藤吉郎の墨俣城は、城というより柵に囲まれた砦そのものであるが、砦の作成過程がなるほどと合点がいくもので、上流の木曽川から材木を流しておき、長良川沿いの墨俣付近に集結させ、兵は別ルートで墨俣へ行き、そこで3日間ほどで砦を築いたといわれる。

柵で囲まれた砦を造るポイントとなるのは、当時の木曽川と長良川の合流点付近は、現在のように河川の堤防が整備されておらず、氾濫原のように河川が入り交じって流れていたこと、6月の雨期で水量も多く、材木を下流の目的地へ流すことができたのだとやっと理解できた。


良いお年を!





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