日本映画が(いくつかの例外を除いて)政治的題材に距離を置くようになった気がする。労働者の権利とか労働環境の改善とかそういったものを描かなくなった気がする。
ストライキをしたという記事が出ればお客様に迷惑だろみたいな反応の方がたくさん出てくる
デモをしたというニュースに対してデモしてるひまあったら働いて納税しろとかいう著名人が、テレビに出てくる
芸能人の誰それが首相官邸に挨拶にきたとか、抑圧する側をヨイショしてばかり
そうかと思えば是枝裕和監督が「万引き家族」でカンヌパルムドールという、右翼的言い方すれば「日本人として誇りに思う素晴らしい快挙」をしたというのに、すごいぞ日本が大好きな右寄りの人たちがこの時は、反日映画と騒ぐのだ
貧困の未就学児など我が国にはいないという政治家もいた
是枝監督はインビジブルな人を描きたいといっていたから、まさにその意図は当たっていたのかもしれない
あいちトリエンナーレの件も含めて、日本のウヨクってのは何でこんなに了見の狭い奴ばっかりなのか
海外はもっと異なる意見に対して寛大だと聞くがな〜と思っていたのだが
ある日NHKのドキュメンタリーで是枝さんとケン・ローチの対談を見たら、ケン・ローチが言っていた。「私も補助金をもらって反英映画を作っていると批判されています」と。
あら、英国のウヨクもうちとそう変わらないんですね、とちょっと変な親近感を抱いた。同時に右傾化というのは世界的な傾向なのかなとも。
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そんな右傾化した世界に置いて、今時ケン・ローチくらい左翼っぽい映画を撮る人は世界でも珍しい。
きっとこの人は自分を映画作家というより社会活動家と認識しているのかもしれない。
80を超えたら山田洋次だってなんか丸くなってきてるのに、ケン・ローチはより尖ってきている。
残りの人生を社会の改善のために尽くそうとしているのかもしれない。
終身雇用が必ずしもいいこととは思わないけど、どこの会社も人件費を削るために福利厚生の責任のない非正規雇用を増やすことに一生懸命だ。
結果として国が弱体化していってるのに。
宅配業界のことは詳しくはないが、AMAZONがこれだけ隆盛なのは店舗がいらないからで、でもそのしわ寄せが宅配ドライバーに行ってるのは想像に難くない
実際共働きだと時間指定なしの荷物を再配達なしで受け取れることなどまずない。ドライバーの皆さん何度も何度も同じ家に回って、申し訳ないと思う。
「家族を想うとき」は宅配会社のドライバーの物語だ。宅配会社の正社員ではない。個人事業主として契約するということになる。聞こえはいいがノルマは課され、遅配欠配となればその損失は自分で補わなければならず、休めない、逆らえないという合法的な奴隷のようなものだ。
主人公の妻も介護士として多くの家の介護を担当しているが、こちらも個人契約なのか交通費も出ない。
「わたしは、ダニエル・ブレイク」では役所が話を聞いてくれない、制度がおかしい、そして仕事がないという話でいつか自分がそういう目にあうかもしれないといういわば警鐘の映画だった。
対して「家族を想うとき」は、仕事によってがんじがらめにされ、働いても働いても暮らしはよくならず、仕事のため家族が失われていく、現在の自分も似たようなものだと思わせ、身につまされる。こちらはいわば気づきの映画なのかもしれない。
ダニエルブレイクはまだラストで人間らしく生きていくためには私たちの決意が必要だと、政治的かもしれないけど、意識の持ち方と団結があれば世の中を変えていけるかもしれない、という希望が残る。
だが「家族を想うとき」は希望なく終わる。ストーリーはまるで連載打ち切りのようにして終わる。ケン・ローチはこの物語にふさわしいエンディングを見出せなかったのかもしれない。いや、この終わりのない地獄感こそが現代社会なのだと訴えているようにも感じた。
「ダニエルブレイク」はケン・ローチの最高傑作に違いないとは思いつつ「家族を想うとき」はダニエルブレイク以上に心に刺さるものがある。
この二作はもしかすると対になっているのかもしれない。
例えばスプレー缶。
「ダニエルブレイク」では社会的弱者から強者への強い武器として使われ、スプレー缶1つで大勢の人間を奮い立たせ、団結させ得ることを描いた。社会なんてスプレー缶1つで変わり得るのだと。
対して「家族を想うとき」ではスプレー缶が家族を崩壊させ、どん底に落とす凶器として使われた。社会がスプレーで変わり得るなら、家族もスプレーで壊し得るのだ。
他者との関わり合いという点でも対照的に思える
「ダニエルブレイク」では他者を思いやれ、人として向き合えというメッセージがあり、草の根ながらもお隣近所さんとの付き合いが社会と戦う武器となっていた。
対して「家族を想うとき」の宅配会社のフランチャイズシステムは他者と関わらせない、一人一人が自己責任で生きざるを得ないシステムだ。ユニオンなど作りようもなくきつい仕事で誰かが脱落したらまだ動ける奴がそいつの仕事と取り分を総取りしてしまう。これこそ新自由主義の求める社会の縮図だ。そしてそれを脱する糸口は提示されずに映画は終わるのだ。
などなどなんだかイーストウッドの硫黄島二部作のような2つで1つのような趣を感じた
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「わたしは、ダニエル・ブレイク」よりも見事だなと思った部分がある。
ストーリーテリングの妙だ。
車のキーをめぐる話の展開のさせ方。息子がスプレーを使ったその時の娘の行動がさりげない伏線として機能させる旨さ
殴るのはいけないが、殴りたくなる気持ちもわかるぜと心に抱いてしまった後で、主人公と同じくらい惨めな思いにさせるあのカミングアウト。
男性優位社会はいけないなどと偉そうに言っている自分にもその思想が心の底に染み付いていたのではと気付かされた気がして。
ケン・ローチは脚本の妙によって政治的な怒り喚起のみならず、見る人一人一人の心への問いかけもしてくる
80を超えてなおかつての自分を越えようとし、社会も人々の意識も変えようとする、本当に世界で一番強い映画作家ではないかと思う
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「家族を想うとき」
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:ロビー・ライアン
音楽:ジョージ・フェントン
出演:クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ケイティ・プロクター、ロス・ブリュースター
2019年12月 新宿武蔵野館にて鑑賞