目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

目黒健康ウォーキングマップA(駒場コース) 約5.4km

2022-08-01 11:04:20 | 東京都目黒区、世田谷区
距離が短いので夏のこの時期に採用していますが、日陰の無い道は結構つらい。来年は考え直さないといけないなぁと思って歩いていると、後半の東大構内、駒場公園などは木陰が多くほっとするコースでした。


セミの抜け殻

駒場野公園
駒場東大前駅で集合。駒場野公園に移動してストレッチをして出発します。蚊に刺されないよう虫よけ対策。


〆切地蔵

駒場野公園
目黒区と世田谷区の区境、かつては上目黒村と池尻村の村境でした。西から疫病が入り込まないよう、上目黒村側に立派な〆切地蔵があります。


御用屋敷跡
 江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地です。この辺りに建っていたと推定される建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩に来た際には食事や休息場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役が詰めていました。
 御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷になる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩場が整えられるに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷は建物を含めて幕府に差し出されて、御用屋敷になりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。
  平成22年12月
    目黒区教育委員会



栃木県東京学生寮
最近建て替えが行われ、大谷石が象徴的に使われています。飾り壁のように使われるようになったのはフランク・ロイド・ライトが帝国ホテルの内装に使ったのが始まりでしょうか。


警視庁大橋庁舎

三軒茶屋キャロットタワー
騎兵山の台地から西の景色がよく見えて時々富士山も見られるのですが、この日は山がうっすら見えているものの富士山は見えませんでした。


馬神碑

騎兵山の崖
駒場には将軍家の広大な鷹場がありました。明治になりその広大な土地は駒場農学校になったり帝国陸軍の施設となったり。秋山好古のフランス式騎兵隊が開設当初この地を演習地としていたので、騎兵山と呼ばれています。演習で命を落としたり日露戦争でコサック騎兵との戦いで犠牲となった馬を供養するため馬神碑が立てられています。



サルスベリ

キバナコスモス

カンナ



赤トンボ

シュウメイギク

カラフル
騎兵山と言っても山ではなく目黒川が削った台地の縁です。騎兵山を下り目黒川の緑道を下流へ向かいます。この緑道が終わるまでは日陰がないので、ピーカンではちょっと辛いウォーキングとなります。



目黒富士登山口

ギンナン

手水

形式はいとわず

大国主命?

浅間神社
富士登山口から上目黒氷川神社を訪れます。


淡島通りのボラーチョ

立派なミニトマト
淡島通りに出て松見坂交差点から駒場バラ園方向へ進んでゆきます。こんなに立派なミニトマトが出来たらうれしいですね。


東大構内のヤブミョウガ

駒場博物館

矢内原門跡
Wikipediaから引用します。
矢内原門(やないはらもん)とは、東京都目黒区駒場の東京大学駒場Iキャンパスにあった「門」。正規の門ではなく、大学を囲む柵の、駒場商店街方面へ行くのに至便な位置に開けられた幅1メートルほどの通用口の名であった。

概説
矢内原忠雄が東京大学教養学部長の時代に、学生の試験ボイコットの際に正門がピケットにより通行できなくなったおり、学部長が自ら生垣を押し分けて通り、以後公認の通路となったと伝えられた。また、以前よりの抜け道であったが、矢内原学部長がピケ対策として「特別に門以外の場所を通行してよい」旨の告知を行ったことから学生が公然と通行するに至ったものだとも言われる。東京大学教養学部の前身である旧制第一高等学校では正規の門以外は絶対に通らないという「正門主義」があったこと、矢内原がその後も学生のストライキ等には厳しい態度を貫き、ストライキを指導した学生を退学とする「矢内原三原則」を打ち出した人物であることなどもこのエピソードの背景となっている。
近年の駒場キャンパスの整備事業で、柵の位置が大きく移動し、矢内原門は消滅した。
現在、跡地付近は「矢内原公園」と呼ばれる小公園となり、「矢内原門跡」という石碑が設置されている。



駒場野公園
東大を北門から出て駒場公園を経由し駒場野公園へ戻ってきました。稲穂とスズメがレリーフになっているこの門は、かつての東京教育大学の門です。門扉は公園になった時に代えられたものでしょう。

BA.5が猛威を振るい、ストレッチ後は会食なく解散となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北沢川松蔭神社コース 約4km

2022-07-21 13:01:29 | 東京都目黒区、世田谷区
雨の予報ではあるけれど活動時間帯はどうにかもつかなという判断で活動有りのメールを発信しました。


東京燃料林産
集合は池尻大橋駅改札。目黒川緑道沿いのこちらに移動してストレッチしました。ピザ窯を持つ店が増えて、燃料屋さんも繁盛しているようです。


緑道おさんぽマップ

北沢川烏山川合流点
目黒川緑道をさかのぼり、この日は北沢川へ進みます。


雨に濡れたデイジー

ミソハギ

キキョウ


ヒメヒオウギズイセン

オニユリ

ハンゲショウ

健康はウォーキングから!
まさに「健康はウォーキングから!」ですね!緑道は花の手入れが行き届き楽しいウォーキングコースです。



環状6.5号線
タモリ倶楽部で環状6.5号線として紹介されるずっと前から道路用地になっていましたが、ようやく形になってきました。笹塚方面から山手通りを経由しないルートなので、便利になるといいですね。


ヒマワリ

雨の波紋
歩きはじめて20分くらいすると雨が降り始め傘をさしてのウォーキングです。


ジュズタマ

代沢小学校脇のカエル

円乗院

横光利一文学顕彰碑
微笑といふものは人の心を殺す光線だ   横光利一
 新感覚という未踏の境地を切り開いたのは小説家、横光利一(1891-1947)である。彼は、1928年11月、ここ北沢川左岸の丘に居を構えた。小田急線開通によって開けた地である。『雨過山房(うかさんぼう)』と名づけられた邸からは近代郊外風景が望めた。木々の間に赤い屋根が見え隠れし、眼下には緑の傾斜が川まで続いていた。
 代表作『旅愁』をはじめとする数々の作品がここで書き上げられた。当地、北沢に想を得たものも少なくない。その愛着の深い地で彼は終馬を迎える。1947年12月30日、49歳の若さだった。彼こそは下北沢文士町、先駈けの作家である。
 冒頭の一節は、遺作となった『微笑』から抜き出したものだ。数文字で現象の本質を巧みに衝く新感覚表現の結晶の一つだと言ってよい。この『微笑』には、「家の門から 玄関までの石畳が靴を響かせ」てくるとき、その「靴音の加減で」、用向きの判定をつけていたとある。碑の下に据えられているのは横光家から寄贈されたその石畳である。
 ゆかりの石を用いての碑を、彼が慣れ親しんだ散歩道沿いに建立した。ここを踏み渡っていく足音が想像できるように・・・・。
二〇一三年 十一月二十三日 北沢川文化遺産保存の会



三好達治文学顕彰碑
 三好達治(1900~1964)は、詩界の開拓者だ。和洋の詩風を織り込んで新しい詩の可能性を切り拓いた。昭和期を代表する第一級の持情詩人だ。処女詩集『測量船』は、言葉の響きを重んじて創られた名編だ。この発刊以降も語の音楽性にこだわり、生涯で千篇を越える詩を詠んでいる。
 達治は、世田谷区代田一丁目一番(当碑の南約四百メートル)に十六年間住んだ。静かな路地裏で詩集『百たびののち』は編まれた。その一篇を刻み記す。

 開窓一盞
憐れむべし糊口に穢れたれば
一盞はまづわが腹わたにそそぐべし
よき友らおほく地下に在り
時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし
わが心つめたき石に似たれども
世に憤りなきにしもあらず
また一盞をそそぐべし
霜消えて天晴る
わが庭の破れし甕にこの朝来りて水浴ぶは
黄金褐の小雨鶲
小さき紅もたつならし
雨の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし
また一盞をそそぐべし
信あるかな爾
十歳わが寒庭を訪ふを替へず
われは東西南北の客
流寓に疲れたれども
一日汝によりて自ら支ふ
如何にために又々一盞をそそがざらでやは

 詩人は諸国をさすらった末、この代田に「流寓独居」し、独り酒を飲み、寒庭を訪れる小島に語りかけた、風狂の詩人、終穏の地での秀作である。
 達治が歩いたこの北沢川べりに詩碑を建て、これに一枚の写真を添える。庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像である
二〇一四年 十一月二十九日 北沢川文化遺産保存の会



斎藤茂吉歌碑
代田川のほとりにわれをいこはしむ 柳の花もほほけそめつつ
茂吉



萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔
 ここ鶴ヶ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926)に建ったものだ。当時緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。
 この塔のすぐ下に昭和八年、自らの設計による家を建て、居住したのは萩原朔太郎(1886-1942)だ。鋭く尖った三角屋根の家は、鉄塔を意識して設計されたものだろう。
 詩人は、故郷前橋で電線の青い閃光を眺めては東京を恋い慕った。
 『定本青猫』の「自序」にはこうある。
 都会の空に映る電線の青白いスパークを、
 大きな青猫のイメーヂに見てゐる
  萩原朔太郎
 かつては当地の高圧線の碍子も青く仄めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語である。父はポエヂイを子は怖れを感じた。娘葉子(1920-2005)は、自伝小説『蕁麻(いらくさ)の家』で「あの高い鉄塔」と描写し、「暗い予感」をこれに持ったという。
 今となっては詩人と小説家とを偲ばせるたった一つの風景だ。このことから丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定された。日本では他に類例を見ない文学モニュメントだといえる。
二〇一二年 十月六日 北沢川文化遺産保存の会



梅が丘のブドウ棚

東京都道423号渋谷経堂線
若林小学校前の道、拡幅に向けて準備が進んでいるようです。これは何の通りだろうと調べてみると淡島通りでした。現在環七以西がこのような状態の拡幅待ちです。

若林公園で休憩後ストレッチをして解散しました。ほとんどの人は松陰神社にお参りし、バスで帰ったようです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑ヶ丘コース 約4km

2022-05-03 10:59:24 | 東京都目黒区、世田谷区
暖かくなり人出も多くなってきて、花盛りのウォーキングとなりました。




中根ねむの木公園
スタートはいつもの呑川緑道なのですが、人出が多くお弁当を食べている方もいてストレッチ場所としてお借りするのはためらわれる雰囲気です。坂の途中にあるこちらの公園はいつもすいているのでと向かうと、遊んでいる子供はいなかったのでストレッチ場所として利用させていただきました。


立源寺のハス
葉が少し出てきたくらい。水玉がキラキラしてきれいです。


ヤエザクラと大井町線

九品仏川緑道のヤエザクラ
訳あって本隊から後れを取り、大井町線が九品仏川を越えるあたりでゆっくり撮影。


モッコウバラ

東京工業大学

呑川緑道
本隊に追いつくために緑ヶ丘駅付近をショートカットしたら、普段は目にしない東工大の入口がありました。普通東工大へ行こうとすると大岡山駅から行きますが、緑ヶ丘駅近くにも校門があるのですね。


オオムラサキツツジ

イチゴ

ハナミズキ

藤棚
緑ヶ丘駅からは呑川緑道を北上します。ソメイヨシノは終わっても花盛りです。


桜森稲荷神社
こちらでようやく本隊に追いつき、桜森児童遊園でストレッチをして解散となりました。

すこやか歩こう会は11月から4月まで午後の活動を行い、5月から10月までは午前中に活動を行っています。ということで午後の活動はしばらくお休みです。
4月24日は総会を行い、5月初めの活動は八ヶ岳への旅行です。15日午前中から通常の活動を行い、21日以降はしばらくめぐろウォーキング塾に関連した活動を行います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呑川、化坂、秋山の森コース 約7.1km

2022-04-03 13:08:54 | 東京都目黒区、世田谷区
伝統的な呑川コースに少し変化を持たせ距離を短くした新しいコースです。先週は花見ウォーキングでしたが、今週は花吹雪ウォーキングでこちらも風情あり。



呑川本流緑道のソメイヨシノ
都立大学駅近くの集合場所。COVID-19以前は座り込んでお花見している人たちも見ましたが、今年はいないようです。近所住民しか来ない場所で、今の時期宴会していると悪目立ちするからでしょうね。それでも歩きながらサクラを見る人は多いので、我々もここでストレッチは出来ずスタートしました。




八雲一丁目の呑川緑道
目黒通りを横断すると八雲一丁目。二子道と呼ばれた旧道八雲通りではなく、呑川でもなく目黒通りが町境になっています。南側が中根一丁目、北側が八雲一丁目。衾村の総鎮守氷川神社や八雲小学校は八雲二丁目です。


八雲氷川神社



金蔵院
氷川神社にお参りした後境内をお借りしてストレッチをしました。金蔵院は氷川神社の別当寺です。
慶長の頃(1600年頃)頼栄上人により開かれた。不動明王像は区指定文化財。明治4年、この寺に区で初めて学校が開かれた(後の八雲小学校)。目黒区で一番古い小学校の誕生だった。


呑川駒沢支流緑道のソメイヨシノ

八雲茶寮

化坂
呑川駒沢支流から始まる緩い上り坂が化坂。標識がある場所の標高が34.8mで呑川からの標高差が6メートル。もとは小さな崖があった場所を耕地整理で緩い段々畑にした畔の坂です。


住宅地のソメイヨシノ

住宅地のヤマザクラ
大きなお宅が多く残っていて、ソメイヨシノもそこそこ古木。


住宅地のベニシダレザクラ

深沢1丁目綠地のソメイヨシノ


個人宅の竹林
マンションも多いけれどまだ広い敷地の個人邸宅が残っています。この竹林は生産緑地になっているようです。



呑川本流緑道のソメイヨシノ

ヤマブキ

タンポポ
ちょっと肌寒い気温でしたが、日なたはぽかぽかで気持ちの良いウォーキング日和でした。



深沢神社
呑川コースでは隣りの三島公園で休憩するだけなので、今回のコースでは神社にお参りすることにしました。神社のサイトから一部抜粋します。
御祭神

天照大神(あまてらすおおみかみ)
高天原の主神にして皇室の祖神、太陽のような大御神です。伊勢神宮の内宮に祀られています。天照大神、天照皇大神、天照御魂神、天照大日?貴、神明様、お伊勢様とも呼ばれます。
大山都見尊(おおやまづみのかみ)
須佐之男命(スサノオ)と瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の義父にして神武天皇の曾祖父となる神です。大山祇神と記されることも多く、他にはオオヤマヅミ、おおやまつみのかみ、大山積神、和多志大神、酒解神などと記されます。
日本武尊(やまとたけるのみこと)
父である景行天皇に疎まれ、漂白を続けた悲劇の英雄です。日本各地に伝説が残っています。倭建命、日本武、日本武尊、小碓命、倭男具那命、日本童男命、ヤマトタケルノミコト、などと称されます。
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
代表的な食物神とされています。食物の主役は穀物、そのなかでも「稲」はその中心であり、主食を保証する神の名前が倉稲魂(ウカノミタマ)と表記されるのもそういう理由からなんだそうです。
八幡大神(はちまんおおかみ)
八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。


御由緒

 永禄七年(1564年)伊豆の三島神社のご分霊を奉斎し、昔は三島神社と呼ばれていました。
 その後明治42年(1909年)6月に、深沢村の各地域に奉祀されておりました、神明神社・稲荷神社・山際神社・八幡神社(以上深沢村の東地域)と、御嶽神社・天祖神社・稲荷神社・三島神社(以上深沢西地域)の八社を三島神社に合祀して社名を深沢神社と御改称しました。
 御祭神は、大山都見命・天照大神・倉稲魂命・日本武尊・八幡大神を祀り、その他弁財天を境内神池にお祀りしてあります。
 現在の社殿は昭和42年(1967年)に新築されました。



深沢不動

かすかに新芽

秋山の森
駒沢通りを横断し、深沢不動の先を左折して秋山邸・秋山の森へ。ウグイスがいい声で鳴いていました。うっそうとしたお屋敷はいいねぇ。


カイドウ

駒沢公園うま公園

駒沢オリンピック公園 オリンピック記念塔(管制塔)

駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場

マラソンゲート
駒沢公園内も従来の呑川コースでは歩かないところを選びました。記念塔脇の池は上段と下段があり、カルガモのヒナが行き来できるようスロープが設けられています。カルガモがいなかったのでスロープの写真も撮り忘れました。


衾町公園児童交通施設

個人宅

めぐろ区民キャンパス
区民キャンパスでストレッチをして解散しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【下見】呑川、化坂、秋山の森コース 約7.1km

2022-03-06 12:53:45 | 東京都目黒区、世田谷区
2月23日に下見で歩いたコースです。会員さんから「区内の道はすべて知っているじゃないですか」と言われることがあり、「そうでもないです」と言いながら結構知っている気になっています。すこやか歩こう会では最も古いコースの一つである呑川コースのブログを書きながら確認のために地図を見ているとき、「化坂」を見つけて興味をそそられました。台地の縁から湧水が出る「はけ」が語源ということです。まだまだ知らない場所があるなぁと感じました。


ロウバイ
都立大学駅近くの呑川本流緑道から呑川コースと同じルートをたどります。この時期まだロウバイが目立っていて、今年は梅が遅いですね。二月も寒い日が多かったから。


八雲氷川神社

とろけ地蔵

欅の気根
氷川神社にお参りします。表参道からの参拝はこれまでなかったかも。欅の気根は河童の手のミイラのようで面白い。


拝殿


神楽殿脇に展示された資料
資料はこれまで暗くて撮れなかったのですが、新導入のミラーレスで撮影可能となりました。



金蔵院

塔頭


金蔵院の梅
八雲氷川神社の別当寺。安土桃山時代の創建ということなので、氷川神社とどちらが古いかわかりませんが、個人の勝手な印象では氷川神社の方が古いかな。目黒区で一番古い、当時衾村で最初の小学校、八雲小学校の前身が明治四年に金蔵院の境内に設けられました。
目黒区で二番目の古い菅刈小学校は上目黒村寿福寺に明治八年に設けられました。寿福寺が管理していた神社は烏森稲荷神社。寿福寺の建立は江戸初期となっているけど鎌倉街道沿いにあり鎌倉時代にはあったと思われます。烏森稲荷神社と寿福寺では寿福寺の方が古い印象です。


呑川駒沢支流緑道から始まるなだらかな坂


八雲茶寮


化坂の解説標柱

深沢一丁目
整地されなだらかな坂になっていますが、ハケだったのでしょう。「分け坂」が語源ともありますが、この標柱が立っている場所は衾村と深沢村の境ではなく、1ブロック先が村境になります。この標柱には気づかなかったけど、この道は歩いた記憶がありました。


深沢一丁目の邸宅

生産緑地

お向かいの邸宅
深沢に入ると大きなお宅が増えてきました。


東深沢中学校
何の旗日だったっけと一瞬考えてしまいますが、この日は天皇誕生日でした。浩宮徳仁親王ご生誕後の我々世代には「浩」の字を名前に持つ同級生がたくさんいます。その中でも「浩裕」という「ひろ」と読める字を二つ持っている彼は別格で「団長」と呼ばれていました。


呑川親水公園

まあまあ屋
車でよく通る駒沢通りにあるお弁当屋さんのようですが、インパクトはあるけど好印象ではないですね。


深沢小学校発祥の地
醫王寺の境内、駒沢通り沿いにありました。明治十一年に荏原分校として開校とありますが、まず荏原学校が現在の何小学校なのかわかりません。このあたりで一番古そうなのは駒沢小学校だけど、「宗円寺境内に就学所」というのがキーワードかな?江戸時代井伊家の管理地だった世田谷区と、増上寺の管理地だった目黒区では明治初期の文化も人口密度も異なっているのでしょう。小学校のホームページを見ても沿革がない小学校も多くて、難しいです。


秋山家

指定保存樹木

秋山の森?

邸宅


旧秋山邸?
深沢六丁目にあるこの場所は初めて訪れたので、まだまだ理解不足です。説明看板もないし、これから徐々に解明してゆきましょう。


カワヅザクラ

ミモザ

駒沢公園うま公園

1964東京オリンピック聖火台
都立大学駅に戻らず駒沢公園から歩いて帰ってきました。世田谷区はお隣だけど知らないことが多い場所。ちょっとは楽しめるコースになるでしょうか。本番は4月2日。呑川緑道以外でもちらちらと舞い散るソメイヨシノを楽しめることでしょう。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする