夏の暑い時期にこのコースだけはずっと歩けているようで、このブログを始めた2014年から毎年様子を報告しています。2014年は歩き始めたとたんに激しい雨に見舞われ、いまだに語り草になるようなウォーキングでした。2016年はデジタル一眼レフカメラを持って行っているので、写真のクオリティーは高いですね。よろしければこちらも読み返してみてください。
最高気温の予報は31度で実際その程度だったようですが、歩いてみると蒸し暑く汗だくになりました。ただしコース内の浄真寺や等々力渓谷は比較的涼しくホッとできる場所でした。
写真:自由が丘駅前
写真:商店街のバナー
駅前は8月3日から6日まで行われている自由が丘盆踊りのやぐらが立っていました。通勤でここを通過しているときは、電車から賑やかな盆踊りの様子が見えました。商店街のバナーには「自由が丘駅88周年」とあります。何気なく写真に撮ったものの、この写真を見るとツッコミどころ満載です。
東横線が開通し、この場所に駅ができたのは90年前です。駅の開業は90年前なのに商店街のバナーが「88周年」となっているのは、開業当時この駅は「九品仏前駅」という名前だったのです。二年後現在の大井町線が開通し九品仏参道前に「九品仏駅」を開設した際、「自由ヶ丘駅」となったのですが、「衾駅」になる可能性もあったようです。このあたりの話は面白いのでWikipediaから引用してみましょう。
目黒区成立前は荏原郡碑衾町大字衾字谷畑中(やばたなか)で、近郊農村であった。1927年(昭和2年)8月28日に東京横浜電鉄東横線(現:東急東横線)が開通し、九品仏前駅を設置。同年に手塚岸衛により、自由ヶ丘学園が開校する。
1929年(昭和4年)になると目黒蒲田電鉄二子玉川線(現在の東急大井町線。東京横浜電鉄を傘下に入れた)開通により九品仏の門前に駅が開設されることになり、この新駅が九品仏駅を名乗ることになったことから、九品仏前駅は、地名より衾駅に改称することとなったが、新しい地名を採り「自由ヶ丘駅」と改称した。
自由ヶ丘学園の名称は駅名として取り入れられるだけでなく当地の通称としても定着し、1932年(昭和7年)6月に碑衾町は大字衾字谷畑中・谷畑西・谷灰野良・谷山野・谷向下・谷権現前・谷鷺草の7字を統廃合して大字自由ヶ丘を新設。同年10月1日の東京市域拡張による目黒区成立時(目黒町と碑衾町が合併)に東京市目黒区自由ヶ丘となった。また、1965年(昭和40年)の住居表示施行時には「自由が丘」となった。翌年1966年(昭和41年)には、駅名も「自由が丘駅」に改称されている。
自由が丘は東急東横線が開通するまでは竹やぶだったが、鉄道開通後は急速に発展し、文化人や芸能人が住居を構えた。1933年に創業されたモンブラン(日本初の、モンブランを提供する洋菓子店)に文化人が集まったことで、「高級志向」の街といった認識をされるようになった。駅前ははじめ20軒ほどの商店街があるのみであったが、第二次世界大戦後の復興にあたって駅前広場を設置し、1956年(昭和31年)には537軒もの店が構えられるようになり、1963年には自由が丘商店街振興組合(後述)が設立された。1970年ごろには町の形がほぼ整ったが、住宅街には木が多く、また、熊野神社に竹やぶの一部が残っている。1974年に九品仏川は暗渠化され、九品仏川緑道として整備された。2000年ごろからは雑誌の取り上げられ方にも変化が見え、親しみやすさや庶民派というフレーズも見られる街となってきている。
駅名も衾、町名も衾では今のようにおしゃれな街として発展しなかったように思います。そのことが駅開設90周年の年に90周年を祝うのではなく「自由が丘駅誕生88周年」を祝いたい地元商店街の気持ちなのでしょう。バナーひとつでここまで話が広がるのも面白いです。
写真:九品仏川緑道
写真:おしゃれなお店
写真:ストレッチでお借りした場所
写真:ムクゲ
今はなき橋の名前が「鶯谷橋」です。かつてはウグイスが谷渡りしてゆくような田園風景が広がっていたのでしょう。さきほどWikipediaから引用した記述の中に「谷鷺草(やのさぎそう)」という字名が出てきましたが、そんな字名が町名に残っていたら素敵ですね。
写真:城向橋
写真:浄真寺の住所
浄真寺が奥沢七丁目となっていることに以前から違和感を感じていたのですが、「城向橋」の表示を見て一気に納得しました。
奥沢のイメージは目黒線の奥沢駅と、その近くにある奥沢神社。そのイメージからすると「ずいぶん広いんじゃない」というのが違和感の根底にありました。橋の名にある「城」でつながったのです。浄真寺はかつて奥沢城があった場所に建てられているので、ここの町名は「奥沢」でなければならないのです。ただまだ疑問が残ります。城は集落の中心と考えると浄真寺のあたりが奥沢一丁目であれば納得できるのですが、この場所は奥沢七丁目なのです。奥沢神社がある場所が一丁目なのかと調べてみるとそこは五丁目。ちなみに駅がある場所は三丁目でした。どこが集落の中心なのやら。
奥沢の地名の由来は、呑川の支流九品仏川の湿地ということで「奥の沢」とのこと。
写真:九品仏浄真寺東門
九品仏の由来は下品下生から上品上生まで九体の釈迦如来像にあります。その釈迦如来像の修復が20年かけて行われている最中です。「おめんかぶり」というお祭りは有名ですが、毎年行われるものではないようです。
写真:仁王門
写真:枯山水の庭
写真:サギソウ(もう終わりでした)
写真:銀杏の実
写真:下品上生
手すりがおしゃれですね。
写真:上品上生
写真:本堂
写真:阿育(あしょか)王塔
写真:中品上生
こちらの釈迦如来像は修復中ということです。
写真:本堂
写真:本堂から
九品仏浄真寺は涼しくてこの時期過ごしやすい場所です。このコースの魅力の西の横綱といったところでしょうか。
写真:ノウゼンカズラのトンネル
写真:スイカズラ
写真:?
写真:ねこじゃらし公園
公園からネコジャラシがなくなっていました。なんでだろ?
写真:体験農園
写真:サルスベリ
写真:ぶどう棚
写真:農家の無人販売
駒八通りを渡ると住所は奥沢から等々力に変わります。この無人販売所、人気なんだかやる気がないんだか、野菜が並んでいるところを見たことがありません。
写真:玉川神社
写真:等々力駅
玉川神社は等々力の鎮守です。
写真:等々力渓谷
このコースの東の横綱はなんといっても等々力渓谷。ゴルフ橋上の気温は28度で渓谷内は25度。湿度は高いけれど、やはり涼しい。写真が少しぶれてしまいましたが、赤茶けたところは鉄分の多い水が湧き出ているのでしょう。沸かせば温泉になるかも。
写真:等々力不動
ストレッチをし、解散の後それぞれ等々力不動様にお参りしました。
私はこの後の用事があったので失礼しましたが、皆さんどこかで反省会と称し、大量の汗を流した後の美味しいビールを飲んで帰られたことでしょう。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
最高気温の予報は31度で実際その程度だったようですが、歩いてみると蒸し暑く汗だくになりました。ただしコース内の浄真寺や等々力渓谷は比較的涼しくホッとできる場所でした。
写真:自由が丘駅前
写真:商店街のバナー
駅前は8月3日から6日まで行われている自由が丘盆踊りのやぐらが立っていました。通勤でここを通過しているときは、電車から賑やかな盆踊りの様子が見えました。商店街のバナーには「自由が丘駅88周年」とあります。何気なく写真に撮ったものの、この写真を見るとツッコミどころ満載です。
東横線が開通し、この場所に駅ができたのは90年前です。駅の開業は90年前なのに商店街のバナーが「88周年」となっているのは、開業当時この駅は「九品仏前駅」という名前だったのです。二年後現在の大井町線が開通し九品仏参道前に「九品仏駅」を開設した際、「自由ヶ丘駅」となったのですが、「衾駅」になる可能性もあったようです。このあたりの話は面白いのでWikipediaから引用してみましょう。
目黒区成立前は荏原郡碑衾町大字衾字谷畑中(やばたなか)で、近郊農村であった。1927年(昭和2年)8月28日に東京横浜電鉄東横線(現:東急東横線)が開通し、九品仏前駅を設置。同年に手塚岸衛により、自由ヶ丘学園が開校する。
1929年(昭和4年)になると目黒蒲田電鉄二子玉川線(現在の東急大井町線。東京横浜電鉄を傘下に入れた)開通により九品仏の門前に駅が開設されることになり、この新駅が九品仏駅を名乗ることになったことから、九品仏前駅は、地名より衾駅に改称することとなったが、新しい地名を採り「自由ヶ丘駅」と改称した。
自由ヶ丘学園の名称は駅名として取り入れられるだけでなく当地の通称としても定着し、1932年(昭和7年)6月に碑衾町は大字衾字谷畑中・谷畑西・谷灰野良・谷山野・谷向下・谷権現前・谷鷺草の7字を統廃合して大字自由ヶ丘を新設。同年10月1日の東京市域拡張による目黒区成立時(目黒町と碑衾町が合併)に東京市目黒区自由ヶ丘となった。また、1965年(昭和40年)の住居表示施行時には「自由が丘」となった。翌年1966年(昭和41年)には、駅名も「自由が丘駅」に改称されている。
自由が丘は東急東横線が開通するまでは竹やぶだったが、鉄道開通後は急速に発展し、文化人や芸能人が住居を構えた。1933年に創業されたモンブラン(日本初の、モンブランを提供する洋菓子店)に文化人が集まったことで、「高級志向」の街といった認識をされるようになった。駅前ははじめ20軒ほどの商店街があるのみであったが、第二次世界大戦後の復興にあたって駅前広場を設置し、1956年(昭和31年)には537軒もの店が構えられるようになり、1963年には自由が丘商店街振興組合(後述)が設立された。1970年ごろには町の形がほぼ整ったが、住宅街には木が多く、また、熊野神社に竹やぶの一部が残っている。1974年に九品仏川は暗渠化され、九品仏川緑道として整備された。2000年ごろからは雑誌の取り上げられ方にも変化が見え、親しみやすさや庶民派というフレーズも見られる街となってきている。
駅名も衾、町名も衾では今のようにおしゃれな街として発展しなかったように思います。そのことが駅開設90周年の年に90周年を祝うのではなく「自由が丘駅誕生88周年」を祝いたい地元商店街の気持ちなのでしょう。バナーひとつでここまで話が広がるのも面白いです。
写真:九品仏川緑道
写真:おしゃれなお店
写真:ストレッチでお借りした場所
写真:ムクゲ
今はなき橋の名前が「鶯谷橋」です。かつてはウグイスが谷渡りしてゆくような田園風景が広がっていたのでしょう。さきほどWikipediaから引用した記述の中に「谷鷺草(やのさぎそう)」という字名が出てきましたが、そんな字名が町名に残っていたら素敵ですね。
写真:城向橋
写真:浄真寺の住所
浄真寺が奥沢七丁目となっていることに以前から違和感を感じていたのですが、「城向橋」の表示を見て一気に納得しました。
奥沢のイメージは目黒線の奥沢駅と、その近くにある奥沢神社。そのイメージからすると「ずいぶん広いんじゃない」というのが違和感の根底にありました。橋の名にある「城」でつながったのです。浄真寺はかつて奥沢城があった場所に建てられているので、ここの町名は「奥沢」でなければならないのです。ただまだ疑問が残ります。城は集落の中心と考えると浄真寺のあたりが奥沢一丁目であれば納得できるのですが、この場所は奥沢七丁目なのです。奥沢神社がある場所が一丁目なのかと調べてみるとそこは五丁目。ちなみに駅がある場所は三丁目でした。どこが集落の中心なのやら。
奥沢の地名の由来は、呑川の支流九品仏川の湿地ということで「奥の沢」とのこと。
写真:九品仏浄真寺東門
九品仏の由来は下品下生から上品上生まで九体の釈迦如来像にあります。その釈迦如来像の修復が20年かけて行われている最中です。「おめんかぶり」というお祭りは有名ですが、毎年行われるものではないようです。
写真:仁王門
写真:枯山水の庭
写真:サギソウ(もう終わりでした)
写真:銀杏の実
写真:下品上生
手すりがおしゃれですね。
写真:上品上生
写真:本堂
写真:阿育(あしょか)王塔
写真:中品上生
こちらの釈迦如来像は修復中ということです。
写真:本堂
写真:本堂から
九品仏浄真寺は涼しくてこの時期過ごしやすい場所です。このコースの魅力の西の横綱といったところでしょうか。
写真:ノウゼンカズラのトンネル
写真:スイカズラ
写真:?
写真:ねこじゃらし公園
公園からネコジャラシがなくなっていました。なんでだろ?
写真:体験農園
写真:サルスベリ
写真:ぶどう棚
写真:農家の無人販売
駒八通りを渡ると住所は奥沢から等々力に変わります。この無人販売所、人気なんだかやる気がないんだか、野菜が並んでいるところを見たことがありません。
写真:玉川神社
写真:等々力駅
玉川神社は等々力の鎮守です。
写真:等々力渓谷
このコースの東の横綱はなんといっても等々力渓谷。ゴルフ橋上の気温は28度で渓谷内は25度。湿度は高いけれど、やはり涼しい。写真が少しぶれてしまいましたが、赤茶けたところは鉄分の多い水が湧き出ているのでしょう。沸かせば温泉になるかも。
写真:等々力不動
ストレッチをし、解散の後それぞれ等々力不動様にお参りしました。
私はこの後の用事があったので失礼しましたが、皆さんどこかで反省会と称し、大量の汗を流した後の美味しいビールを飲んで帰られたことでしょう。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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すこやか歩こう会活動スケジュール