毎年四月に実施している目黒ウォーキング協会のバスハイクのため、埼玉県へ下見に行ってきました。
写真:武蔵水路
中目黒から練馬ICへ一般道で40分と想定していたのですが、通勤通学時間帯とも重なり60分かかってしまいました。本番のバスハイクではスタートは目黒区役所ですが、何カ所かピックアップを重ね最終的な出発地は都立大学となるため、首都高速も使いづらく、環八経由の練馬ICまで90分の想定でしょう。
東松山ICで関越自動車道を下りて、北鴻巣駅近くの赤見台近隣公園に車を停めました。
武蔵水路についてWikipediaから引用します。
武蔵水路(むさしすいろ)は、利根川の水を荒川に導くための導水路。利根川水系に属する。埼玉県行田市の利根大堰で利根川から取水され、鴻巣市で荒川に注ぐ。全長14.5 kmで全体が開水路である。管理者は水資源機構。東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っている。また、周辺地域の洪水や出水を取り込む役割(内水排除機能)を果たしている。1965年、見沼代用水路の一部を使用して緊急送水を開始、1967年、武蔵水路の工事が完成した。2015年度までに改築工事を実施し、これに伴い、一部区間で治水機能を新たに有したことから、2016年に利根川水系に属する一級河川に指定された。
写真:さきたま緑道
武蔵水路沿いにさきたま緑道が整備され分離した遊歩道と自転車道があり、歩くにはよい環境です。特に見どころがないのが残念ですが、緑道に設置された彫刻作品を見ながら歩くことになります。
写真:さきたま古墳公園
さきたま緑道を少し歩き、だいたいの様子をつかんだら車へ戻りさきたま古墳公園へ向かいます。入場料も駐車料金も無料で、公園事務所のようなものが見当たりません。博物館で資料をもらってきました。
写真:行田のウォーキングマップ
この時点では行田をよくわかっていなかったのでこのマップの通り歩くイメージが湧きません。テレビドラマ「陸王」が人気となり、行田市を訪れる人は増えているようです。Wikipediaの陸王のページから反響をピックアップします。
撮影に協力した行田市では、放送開始から徐々に『こはぜ屋』の外観撮影地などロケ地を回る観光客が増加し、煎餅店に注文が殺到するなど地元のドラマ関連商品の売り上げが伸びたり、足袋製造の技術指導も行っている『きねや足袋』はランニング足袋『きねや無敵』の注文が増えた。 行田市は、『陸王』のドラマ化や田んぼアート事業10周年を記念して古代蓮の里南側の水田に役所広司の似顔絵による陸王の田んぼアートを製作した。なお、この田んぼアートは十万石まんじゅうと陸王のコラボレーションの際に発売された「陸王まんじゅう」のパッケージのデザインにも使用された。
このドラマを見ていれば、こちらのウォーキングマップに沿ったコースも面白いのかもしれませんが、今回はウォーキングの安全を重視して、さきたま緑道を歩くことにします。
写真:愛宕山古墳
県立さきたま史跡の博物館のページから引用します。
愛宕山古墳は、中央駐車場のすぐ東にあり、車を降りたお客さんを出迎える位置にたたずんでいます。長さ53mで、埼玉古墳群の前方後円墳としては最小です。墳丘はやや変形しているためわかりにくくなっていますが、他の前方後円墳と同じく、前方部が南側になります。
周囲に建物が接していることもあり、あまり目立たず、周囲の古墳の大きさに気をとられると見落としてしまうかもしれません。しかし、よく見ると墳丘に石仏があり、まばらに生い茂る木立とともに、心落ち着く静かな空間となっています。また、駐車場側の堀にはハナショウブが植えられており、二子山古墳同様、初夏には花を楽しめます。「愛宕山」の名は、かつて墳丘の上に愛宕神社がまつられていたことによるものです。
最小ではありますが、墳丘は、他の大型前方後円墳と同じく二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。
また、その際、武人などの人物埴輪、大刀・盾・きぬがさ(貴人の傘)などの器財埴輪、馬形埴輪や円筒埴輪が出土しました。円筒埴輪は高さ40cmほどで、古墳の大きさに比例するように、100m級の大型前方後円墳に立てられた円筒埴輪に比べ小さいものです。それらの特徴から、この古墳は、二子山古墳に近い時期の、6世紀前半に造られたと推定されています。
写真:はにわの館
写真:埼玉県名発祥の地
「足袋蔵のまち行田」と足袋やその材料を収蔵した蔵が残っていることを前面に押し出しています。
埼玉県名の由来
明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書新亀三年(726)の山城国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和六十二年四月
埼玉県
写真:奥の山古墳
写真:さきたま緑道
北鴻巣駅から武蔵水路に沿って、「さきたま緑道」を歩いてくると、最初に見えてくる古墳が奥の山古墳です。埼玉(さきたま)古墳群の多くの古墳が大字埼玉に分布していますが、奥の山古墳や中の山古墳は大字渡柳(わたりやなぎ)にあります。渡柳地区にある古墳は、東から戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることからこの名前が付けられました。
1968(昭43)年に周堀の一部の発掘調査が行なわれ、埼玉古墳群では唯一、一重で盾形周堀と考えられていましたが、2007年度から2009年度まで行った発掘調査で、台形で二重周堀の前方後円墳であることや、墳丘の全長がこれまで考えられていた長さより4m短い66mであることが分かりました。また、周堀については埋まっていた土を分析したところ、水のない空堀(からぼり)であったことも分かりました。
写真:中の山古墳
写真:梅林
中の山古墳は、奥の山古墳と並んで埼玉(さきたま)古墳群の南端に位置しています。東側には、壊されてしまいましたが方墳(ほうふん)の戸場口山古墳が隣接しており、3つの古墳の真ん中にあたることからその名がつきました。全長は79mです。墳丘は、前方部の保存状態が良い一方、後円部はかつて畑となっていたため、細長く変形しています。今は完全に埋まっていますが、発掘調査により、周囲は二重の堀で囲まれていることが確認されています。後円部の頂上には掘り返されたとみられるくぼみがあり、かつて石棺が出土したという言い伝えがあることから、埋葬施設は盗掘された可能性が高いようです。またこのことから、中の山古墳は「唐櫃山(かろうとやま)」という別名を持っています。駐車場からも博物館からも離れているため訪れる人は多くないようで、古墳西側の芝生は、日中でも静かな空間になっています。静かな散策を楽しむには絶好と言えるでしょう。
発掘調査では、他の古墳のような埴輪ではなく、変わった土器が出土しました。須恵器(すえき)と同じく灰色に焼きしまり、形は、口がラッパのように広がり、胴体はやや細長く、底は穴があいています。頭の大きな「銚子」のようですが、これを「須恵質埴輪壺(すえしつはにわつぼ)」と呼んでいます。九州北部のいくつかの古墳で似たものが出土していますが、関東の古墳では他に例がありません。近年、西に約30km離れた寄居町末野遺跡で、中の山古墳と同じ須恵質埴輪壺を焼いたとみられる須恵器の窯跡が発見されました。その年代は、須恵器の特徴から、6世紀末から7世紀初めと考えられます。この頃は前方後円墳が造られなくなる時期にあたり、中の山古墳は埼玉古墳群最後の前方後円墳です。
写真:鉄砲山古墳
鉄砲山古墳は、県道を挟んで二子山古墳の南側、埼玉(さきたま)古墳群では南に寄った位置にあります。長さ109m、埼玉古墳群の前方後円墳では3番目の大きさです。「鉄砲山」という、古墳としてはめずらしい名前は、江戸時代、古墳の周辺が忍藩の砲術練習場になっていたことから名付けられました。70年ほど前からその名が見られますが、それ以前は「御風呂山」と呼ばれていました。今は完全に埋まっていますが、墳丘は二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。ただ部分的な調査であるため、正確な形態はまだわかっていません。埋葬施設も発掘調査されていないため、形態は不明です。墳丘の西側は中央付近がえぐれてやや変形してますが、東側は保存状態が良く、隣接する芝生からは、古墳本来の形が美しく眺められます。墳丘に登ることはできませんが、夏のオニユリなど季節ごとに野草の花が咲き、古代の遺跡とはまた別の顔を楽しむことができます。ただ、周囲には民間地が接しているため、見学の時は注意してください。
これまでの発掘調査では、円筒埴輪の破片や土器が出土しました。それらの特徴から、この古墳は6世紀の後半に造られたと推定されています。鉄砲山古墳の東側は、中の山古墳、前玉神社の森に囲まれた緑ゆたかな空間になっています。埼玉古墳群を見学にこられても、ここまで足をのばす方は多くないようで、人でにぎわう稲荷山古墳南側の広場とは対照的な、埼玉古墳群の隠れた奥座敷と言えるでしょう。
写真:マラソン大会
「陸王杯」の名を冠したのは昨年からのようです。「鉄剣」はさきたま古墳から出土した国宝です。鉄剣についてWikipediaから引用します。
稲荷山古墳出土鉄剣
稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。
現在は埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。
銘文発見の経緯
1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。
当初、古墳の発掘は愛宕山古墳で行われる予定であったが、崩壊の危険があるため稲荷山古墳に変更された。
銘文の内容
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
写真:瓦塚古墳
博物館に一番近い古墳で、移築民家の裏山のように見えます。全長73mの前方後円墳で、6世紀前半ころに造られたと考えられています。埼玉古墳群の特徴である、長方形で二重の周堀が巡り、前方部の西側には造出しが見られます。また、外堀には通路となるような掘り残した部分が1ヶ所あります。瓦塚古墳からは、整備にともなう発掘調査で多くの埴輪や土器などの遺物が出土しています。出土した埴輪を調べると、墳丘や中堤には多くの種類の埴輪が並べられていたことが分かりました。筒のような円筒埴輪だけではなく、家形の埴輪や、水鳥の形をした埴輪のほかに、琴を弾く男・首飾りを付けた女・盾を持つ男・馬を引く男など多くの人物埴輪も並んでいたようです。特に、円柱状の太い柱を表現した家形埴輪は全国的にも珍しいものです。これらの埴輪からは当時の住居や服装だけではなく、葬送のまつりの様子をうかがうことができます。現在、瓦塚古墳には登られませんが、内堀と外堀の一部が砂利敷きによって復原されています。外堀の通路を通り、墳丘の近くまで行くことができますので、古墳の大きさを間近に見ることができます。
写真:移築民家
羽生から移築されたものですが、船は洪水の多い場所だったことを物語っています。埼玉県のこのあたりは利根川、荒川など大きな河川があるので洪水から自力で脱出するための船が必要不可欠だったのでしょう。奇しくも今回のバスハイクで歩くことになる武蔵水路は、その水害対策の一環です。
写真:駐車場入り口のオブジェ
写真:二子山古墳
二子山古墳は、稲荷山古墳の南側、埼玉古墳群のほぼ中央にあたります。長さ138m、埼玉古墳群の中で、そしてかつての武蔵国の中でも最大の前方後円墳です。名前は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山」とも呼ばれていました。「二(双)子山」という名の古墳は全国各地にみられます。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になります。墳丘に登ることはできませんが、堀に挟まれた中堤は遊歩道になっており、ぐるり四方から墳丘を間近に見ることができます。側面から見ると、古墳は大きな船が港にいるように見え、その大きさが実感されます。でも気分は、史跡の中にいるというより、のどかな散歩道を歩いているようです。春にはその周囲でポピー、花菖蒲などの花が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれます。南側の県道からは、前方部の前面を直接見渡せます。この道路は古墳群の中央を横切っていますが、沿道の建物に視界をさえぎられて、自分が古墳群の中にいるとはほとんどわかりません。例外は二子山古墳で、家並みがとぎれたかと思うと緑の大きな墳丘が突然目の前にあらわれ、何か不思議な世界の入り口に来たように思えます。思わず引き込まれてしまいます。
埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明ですが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、6世紀初頭前後に造られたと推定されています。稲荷山古墳に続く時期にあたりますが、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点があります。位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれます。また相前後して日本最大の円墳である丸墓山古墳が造られたとみられ、両者の関係は埼玉古墳群の大きな謎となっています。
写真:丸墓山古墳
忍城が見えました。
丸墓山古墳は、直径105m、日本最大の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、まさに山のようです。頂上に立つと、隣に稲荷山古墳、その向こうに将軍山古墳の、復原整備を終えた墳丘がよく見えます。また、近年では昔地元の方が植えたソメイヨシノが成長し、桜の名所として親しまれています。振り返って北西には、行田の市街地が遠望されます。下から見上げても、上に上ってもその大きさ、高さが実感されます。「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。埋葬施設は発掘されていないため詳しいことはわかりませんが、出土した埴輪から6世紀前半ころに造られたと推定されています。とすれば、稲荷山古墳のあと、二子山古墳と同じころに造られたことになります。二子山古墳は埼玉古墳群中最大の前方後円墳ですが、相前後して日本最大の円墳が造られたわけです。丸墓山古墳に盛り上げられた土の量は二子山古墳より多いという試算もあります。このように、最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、そして二子山古墳との関係は。謎のむこうに歴史のドラマが秘められているかもしれません。
その後、丸墓山古墳は思わぬ形で歴史の舞台となります。豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにします。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったのです。現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。いわゆる「石田堤」です。水攻めは結局失敗しましたが、三成はどのような光景を見つめていたのか、古墳の上でそんな想像をしてみてはいかがでしょう。
写真:稲荷山古墳
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。前方部は1937年に土取で壊されてしまいましたが、1997年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のカタチを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には2重の堀が巡っています。堀の整備などはこれからも続けていきますが、墳丘の頂上(ちょうじょう)には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感して下さい。さきたま風土記の丘を整備するために、1968年に稲荷山古墳の後円部を発掘調査したところ、頂上から2基の主体部(人を埋葬した施設)が発見されました。ここからは、表面に57・裏面に58の文字が刻まれた金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)や甲冑・馬具などの副葬品が出土しました。115の文字には、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えたヲワケの功績などが記されており、我国の古代史を考える上で貴重な資料となっています。これらの遺物は1983年に国宝に指定され、さきたま史跡の博物館の国宝展示室に常時展示されています。実物資料の輝きをご覧になって下さい。
写真:将軍山古墳
埼玉古墳群の北東部にある将軍山古墳は、6世紀後半に築かれた全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部にあった横穴式石室が発掘され、馬具や環頭太刀など豊富な副葬品が出土しました。しかし、墳丘東側が削平されており、石室の一部が露出するなど崩壊の危険が迫っていました。そこで、埼玉県では1991年から墳丘と周堀の復原や墳丘に埴輪の複製品を並べるなどの整備を進めてきました。崩落した墳丘部分をドームで覆い、古墳の内部に入って複製の石室や遺物の出土状況を見学できるガイダンス施設を建設し、1997年に将軍山古墳展示館としてオープンしました。
古墳の頂上部と中段の平坦な部分には埴輪が並べられ、墳丘のまわりには二重の堀が巡っており、外堀には通路のような土橋が見つかっています。将軍山古墳は、主体部の発掘調査が行われ出土遺物も豊富なことから、埼玉古墳群の中では古墳の構造や時代が最もよく分かる古墳でもあります。展示館には出土した埴輪や土層断面が展示してあり、薄暗い2階に上がると石室の中を再現した空間を見ることができます。石室の内部を見学した後には、隣の稲荷山古墳の頂上から将軍山古墳を見てください。古墳が造られた時代の姿を想像することができます。
写真:丸墓山古墳の階段と石田堤
階段を下った先が石田堤の一部となります。Wikipediaから引用します。
天正18年(1590年)の関東平定において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現・丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し、そこを起点に忍城周囲に総延長28 km、比高1.8-3.6 m、基底(幅)約11 mにも及ぶ堤を築いた。
総延長28 kmに及ぶ堤を6月9日に着手され、わずか1週間(一説には5日間)で作り上げたと言われるが、実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われる。堤が完成した後、利根川・荒川の水を引き入れたが、城にはあまり水が溜まらなかった。
その後、増水したため、現在の堀切橋付近(袋 - 堤根間)で堤が決壊して石田方に多数の溺死者が出て、水攻めは失敗に終わった。その後は開墾などにより次第に取り壊されたが、1866年(慶応2年)名主増田五左衛門らにより石田堤の保存活動が行なわれた。
うどん大地
事前調べではさきたま古墳公園で行田ゼリーフライなどを食べることが出来るとなっていたのですが、オフシーズンの平日のためなのか焼きそば店が一軒あるものの食事する場所がなく、車で訪れたのがこのうどん店です。意外といっては失礼ですが美味しくてラッキーでした。
写真:浮き城の径
写真:忍城
映画「のぼうの城」で有名な忍城。
忍城は文明10年(1478)頃、成田顕泰[あきやす]により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。
寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋[ただあき]が入城し忍城大改築に着手。孫の正武[まさたけ]の代にいたり忍城御三階櫓の建設、城門、土塀の修築などが完成し面目を一新したという。文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠堯[ただたか]が移封し忠誠[ただざね]のとき明治維新を迎えた。行田市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった
平成三年三月
行田市
この後滑川町へ移動し「なめがわ温泉 花和楽の湯」で日帰り温泉に浸かって帰途に就きました。関越自動車道、環八を経由して目黒区役所まで二時間といったところでしょう。久しぶりの遠出で、リフレッシュできる下見となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
写真:武蔵水路
中目黒から練馬ICへ一般道で40分と想定していたのですが、通勤通学時間帯とも重なり60分かかってしまいました。本番のバスハイクではスタートは目黒区役所ですが、何カ所かピックアップを重ね最終的な出発地は都立大学となるため、首都高速も使いづらく、環八経由の練馬ICまで90分の想定でしょう。
東松山ICで関越自動車道を下りて、北鴻巣駅近くの赤見台近隣公園に車を停めました。
武蔵水路についてWikipediaから引用します。
武蔵水路(むさしすいろ)は、利根川の水を荒川に導くための導水路。利根川水系に属する。埼玉県行田市の利根大堰で利根川から取水され、鴻巣市で荒川に注ぐ。全長14.5 kmで全体が開水路である。管理者は水資源機構。東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っている。また、周辺地域の洪水や出水を取り込む役割(内水排除機能)を果たしている。1965年、見沼代用水路の一部を使用して緊急送水を開始、1967年、武蔵水路の工事が完成した。2015年度までに改築工事を実施し、これに伴い、一部区間で治水機能を新たに有したことから、2016年に利根川水系に属する一級河川に指定された。
写真:さきたま緑道
武蔵水路沿いにさきたま緑道が整備され分離した遊歩道と自転車道があり、歩くにはよい環境です。特に見どころがないのが残念ですが、緑道に設置された彫刻作品を見ながら歩くことになります。
写真:さきたま古墳公園
さきたま緑道を少し歩き、だいたいの様子をつかんだら車へ戻りさきたま古墳公園へ向かいます。入場料も駐車料金も無料で、公園事務所のようなものが見当たりません。博物館で資料をもらってきました。
写真:行田のウォーキングマップ
この時点では行田をよくわかっていなかったのでこのマップの通り歩くイメージが湧きません。テレビドラマ「陸王」が人気となり、行田市を訪れる人は増えているようです。Wikipediaの陸王のページから反響をピックアップします。
撮影に協力した行田市では、放送開始から徐々に『こはぜ屋』の外観撮影地などロケ地を回る観光客が増加し、煎餅店に注文が殺到するなど地元のドラマ関連商品の売り上げが伸びたり、足袋製造の技術指導も行っている『きねや足袋』はランニング足袋『きねや無敵』の注文が増えた。 行田市は、『陸王』のドラマ化や田んぼアート事業10周年を記念して古代蓮の里南側の水田に役所広司の似顔絵による陸王の田んぼアートを製作した。なお、この田んぼアートは十万石まんじゅうと陸王のコラボレーションの際に発売された「陸王まんじゅう」のパッケージのデザインにも使用された。
このドラマを見ていれば、こちらのウォーキングマップに沿ったコースも面白いのかもしれませんが、今回はウォーキングの安全を重視して、さきたま緑道を歩くことにします。
写真:愛宕山古墳
県立さきたま史跡の博物館のページから引用します。
愛宕山古墳は、中央駐車場のすぐ東にあり、車を降りたお客さんを出迎える位置にたたずんでいます。長さ53mで、埼玉古墳群の前方後円墳としては最小です。墳丘はやや変形しているためわかりにくくなっていますが、他の前方後円墳と同じく、前方部が南側になります。
周囲に建物が接していることもあり、あまり目立たず、周囲の古墳の大きさに気をとられると見落としてしまうかもしれません。しかし、よく見ると墳丘に石仏があり、まばらに生い茂る木立とともに、心落ち着く静かな空間となっています。また、駐車場側の堀にはハナショウブが植えられており、二子山古墳同様、初夏には花を楽しめます。「愛宕山」の名は、かつて墳丘の上に愛宕神社がまつられていたことによるものです。
最小ではありますが、墳丘は、他の大型前方後円墳と同じく二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。
また、その際、武人などの人物埴輪、大刀・盾・きぬがさ(貴人の傘)などの器財埴輪、馬形埴輪や円筒埴輪が出土しました。円筒埴輪は高さ40cmほどで、古墳の大きさに比例するように、100m級の大型前方後円墳に立てられた円筒埴輪に比べ小さいものです。それらの特徴から、この古墳は、二子山古墳に近い時期の、6世紀前半に造られたと推定されています。
写真:はにわの館
写真:埼玉県名発祥の地
「足袋蔵のまち行田」と足袋やその材料を収蔵した蔵が残っていることを前面に押し出しています。
埼玉県名の由来
明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書新亀三年(726)の山城国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和六十二年四月
埼玉県
写真:奥の山古墳
写真:さきたま緑道
北鴻巣駅から武蔵水路に沿って、「さきたま緑道」を歩いてくると、最初に見えてくる古墳が奥の山古墳です。埼玉(さきたま)古墳群の多くの古墳が大字埼玉に分布していますが、奥の山古墳や中の山古墳は大字渡柳(わたりやなぎ)にあります。渡柳地区にある古墳は、東から戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることからこの名前が付けられました。
1968(昭43)年に周堀の一部の発掘調査が行なわれ、埼玉古墳群では唯一、一重で盾形周堀と考えられていましたが、2007年度から2009年度まで行った発掘調査で、台形で二重周堀の前方後円墳であることや、墳丘の全長がこれまで考えられていた長さより4m短い66mであることが分かりました。また、周堀については埋まっていた土を分析したところ、水のない空堀(からぼり)であったことも分かりました。
写真:中の山古墳
写真:梅林
中の山古墳は、奥の山古墳と並んで埼玉(さきたま)古墳群の南端に位置しています。東側には、壊されてしまいましたが方墳(ほうふん)の戸場口山古墳が隣接しており、3つの古墳の真ん中にあたることからその名がつきました。全長は79mです。墳丘は、前方部の保存状態が良い一方、後円部はかつて畑となっていたため、細長く変形しています。今は完全に埋まっていますが、発掘調査により、周囲は二重の堀で囲まれていることが確認されています。後円部の頂上には掘り返されたとみられるくぼみがあり、かつて石棺が出土したという言い伝えがあることから、埋葬施設は盗掘された可能性が高いようです。またこのことから、中の山古墳は「唐櫃山(かろうとやま)」という別名を持っています。駐車場からも博物館からも離れているため訪れる人は多くないようで、古墳西側の芝生は、日中でも静かな空間になっています。静かな散策を楽しむには絶好と言えるでしょう。
発掘調査では、他の古墳のような埴輪ではなく、変わった土器が出土しました。須恵器(すえき)と同じく灰色に焼きしまり、形は、口がラッパのように広がり、胴体はやや細長く、底は穴があいています。頭の大きな「銚子」のようですが、これを「須恵質埴輪壺(すえしつはにわつぼ)」と呼んでいます。九州北部のいくつかの古墳で似たものが出土していますが、関東の古墳では他に例がありません。近年、西に約30km離れた寄居町末野遺跡で、中の山古墳と同じ須恵質埴輪壺を焼いたとみられる須恵器の窯跡が発見されました。その年代は、須恵器の特徴から、6世紀末から7世紀初めと考えられます。この頃は前方後円墳が造られなくなる時期にあたり、中の山古墳は埼玉古墳群最後の前方後円墳です。
写真:鉄砲山古墳
鉄砲山古墳は、県道を挟んで二子山古墳の南側、埼玉(さきたま)古墳群では南に寄った位置にあります。長さ109m、埼玉古墳群の前方後円墳では3番目の大きさです。「鉄砲山」という、古墳としてはめずらしい名前は、江戸時代、古墳の周辺が忍藩の砲術練習場になっていたことから名付けられました。70年ほど前からその名が見られますが、それ以前は「御風呂山」と呼ばれていました。今は完全に埋まっていますが、墳丘は二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。ただ部分的な調査であるため、正確な形態はまだわかっていません。埋葬施設も発掘調査されていないため、形態は不明です。墳丘の西側は中央付近がえぐれてやや変形してますが、東側は保存状態が良く、隣接する芝生からは、古墳本来の形が美しく眺められます。墳丘に登ることはできませんが、夏のオニユリなど季節ごとに野草の花が咲き、古代の遺跡とはまた別の顔を楽しむことができます。ただ、周囲には民間地が接しているため、見学の時は注意してください。
これまでの発掘調査では、円筒埴輪の破片や土器が出土しました。それらの特徴から、この古墳は6世紀の後半に造られたと推定されています。鉄砲山古墳の東側は、中の山古墳、前玉神社の森に囲まれた緑ゆたかな空間になっています。埼玉古墳群を見学にこられても、ここまで足をのばす方は多くないようで、人でにぎわう稲荷山古墳南側の広場とは対照的な、埼玉古墳群の隠れた奥座敷と言えるでしょう。
写真:マラソン大会
「陸王杯」の名を冠したのは昨年からのようです。「鉄剣」はさきたま古墳から出土した国宝です。鉄剣についてWikipediaから引用します。
稲荷山古墳出土鉄剣
稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。
現在は埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。
銘文発見の経緯
1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。
当初、古墳の発掘は愛宕山古墳で行われる予定であったが、崩壊の危険があるため稲荷山古墳に変更された。
銘文の内容
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
写真:瓦塚古墳
博物館に一番近い古墳で、移築民家の裏山のように見えます。全長73mの前方後円墳で、6世紀前半ころに造られたと考えられています。埼玉古墳群の特徴である、長方形で二重の周堀が巡り、前方部の西側には造出しが見られます。また、外堀には通路となるような掘り残した部分が1ヶ所あります。瓦塚古墳からは、整備にともなう発掘調査で多くの埴輪や土器などの遺物が出土しています。出土した埴輪を調べると、墳丘や中堤には多くの種類の埴輪が並べられていたことが分かりました。筒のような円筒埴輪だけではなく、家形の埴輪や、水鳥の形をした埴輪のほかに、琴を弾く男・首飾りを付けた女・盾を持つ男・馬を引く男など多くの人物埴輪も並んでいたようです。特に、円柱状の太い柱を表現した家形埴輪は全国的にも珍しいものです。これらの埴輪からは当時の住居や服装だけではなく、葬送のまつりの様子をうかがうことができます。現在、瓦塚古墳には登られませんが、内堀と外堀の一部が砂利敷きによって復原されています。外堀の通路を通り、墳丘の近くまで行くことができますので、古墳の大きさを間近に見ることができます。
写真:移築民家
羽生から移築されたものですが、船は洪水の多い場所だったことを物語っています。埼玉県のこのあたりは利根川、荒川など大きな河川があるので洪水から自力で脱出するための船が必要不可欠だったのでしょう。奇しくも今回のバスハイクで歩くことになる武蔵水路は、その水害対策の一環です。
写真:駐車場入り口のオブジェ
写真:二子山古墳
二子山古墳は、稲荷山古墳の南側、埼玉古墳群のほぼ中央にあたります。長さ138m、埼玉古墳群の中で、そしてかつての武蔵国の中でも最大の前方後円墳です。名前は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山」とも呼ばれていました。「二(双)子山」という名の古墳は全国各地にみられます。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になります。墳丘に登ることはできませんが、堀に挟まれた中堤は遊歩道になっており、ぐるり四方から墳丘を間近に見ることができます。側面から見ると、古墳は大きな船が港にいるように見え、その大きさが実感されます。でも気分は、史跡の中にいるというより、のどかな散歩道を歩いているようです。春にはその周囲でポピー、花菖蒲などの花が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれます。南側の県道からは、前方部の前面を直接見渡せます。この道路は古墳群の中央を横切っていますが、沿道の建物に視界をさえぎられて、自分が古墳群の中にいるとはほとんどわかりません。例外は二子山古墳で、家並みがとぎれたかと思うと緑の大きな墳丘が突然目の前にあらわれ、何か不思議な世界の入り口に来たように思えます。思わず引き込まれてしまいます。
埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明ですが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、6世紀初頭前後に造られたと推定されています。稲荷山古墳に続く時期にあたりますが、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点があります。位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれます。また相前後して日本最大の円墳である丸墓山古墳が造られたとみられ、両者の関係は埼玉古墳群の大きな謎となっています。
写真:丸墓山古墳
忍城が見えました。
丸墓山古墳は、直径105m、日本最大の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、まさに山のようです。頂上に立つと、隣に稲荷山古墳、その向こうに将軍山古墳の、復原整備を終えた墳丘がよく見えます。また、近年では昔地元の方が植えたソメイヨシノが成長し、桜の名所として親しまれています。振り返って北西には、行田の市街地が遠望されます。下から見上げても、上に上ってもその大きさ、高さが実感されます。「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。埋葬施設は発掘されていないため詳しいことはわかりませんが、出土した埴輪から6世紀前半ころに造られたと推定されています。とすれば、稲荷山古墳のあと、二子山古墳と同じころに造られたことになります。二子山古墳は埼玉古墳群中最大の前方後円墳ですが、相前後して日本最大の円墳が造られたわけです。丸墓山古墳に盛り上げられた土の量は二子山古墳より多いという試算もあります。このように、最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、そして二子山古墳との関係は。謎のむこうに歴史のドラマが秘められているかもしれません。
その後、丸墓山古墳は思わぬ形で歴史の舞台となります。豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにします。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったのです。現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。いわゆる「石田堤」です。水攻めは結局失敗しましたが、三成はどのような光景を見つめていたのか、古墳の上でそんな想像をしてみてはいかがでしょう。
写真:稲荷山古墳
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。前方部は1937年に土取で壊されてしまいましたが、1997年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のカタチを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には2重の堀が巡っています。堀の整備などはこれからも続けていきますが、墳丘の頂上(ちょうじょう)には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感して下さい。さきたま風土記の丘を整備するために、1968年に稲荷山古墳の後円部を発掘調査したところ、頂上から2基の主体部(人を埋葬した施設)が発見されました。ここからは、表面に57・裏面に58の文字が刻まれた金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)や甲冑・馬具などの副葬品が出土しました。115の文字には、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えたヲワケの功績などが記されており、我国の古代史を考える上で貴重な資料となっています。これらの遺物は1983年に国宝に指定され、さきたま史跡の博物館の国宝展示室に常時展示されています。実物資料の輝きをご覧になって下さい。
写真:将軍山古墳
埼玉古墳群の北東部にある将軍山古墳は、6世紀後半に築かれた全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部にあった横穴式石室が発掘され、馬具や環頭太刀など豊富な副葬品が出土しました。しかし、墳丘東側が削平されており、石室の一部が露出するなど崩壊の危険が迫っていました。そこで、埼玉県では1991年から墳丘と周堀の復原や墳丘に埴輪の複製品を並べるなどの整備を進めてきました。崩落した墳丘部分をドームで覆い、古墳の内部に入って複製の石室や遺物の出土状況を見学できるガイダンス施設を建設し、1997年に将軍山古墳展示館としてオープンしました。
古墳の頂上部と中段の平坦な部分には埴輪が並べられ、墳丘のまわりには二重の堀が巡っており、外堀には通路のような土橋が見つかっています。将軍山古墳は、主体部の発掘調査が行われ出土遺物も豊富なことから、埼玉古墳群の中では古墳の構造や時代が最もよく分かる古墳でもあります。展示館には出土した埴輪や土層断面が展示してあり、薄暗い2階に上がると石室の中を再現した空間を見ることができます。石室の内部を見学した後には、隣の稲荷山古墳の頂上から将軍山古墳を見てください。古墳が造られた時代の姿を想像することができます。
写真:丸墓山古墳の階段と石田堤
階段を下った先が石田堤の一部となります。Wikipediaから引用します。
天正18年(1590年)の関東平定において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現・丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し、そこを起点に忍城周囲に総延長28 km、比高1.8-3.6 m、基底(幅)約11 mにも及ぶ堤を築いた。
総延長28 kmに及ぶ堤を6月9日に着手され、わずか1週間(一説には5日間)で作り上げたと言われるが、実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われる。堤が完成した後、利根川・荒川の水を引き入れたが、城にはあまり水が溜まらなかった。
その後、増水したため、現在の堀切橋付近(袋 - 堤根間)で堤が決壊して石田方に多数の溺死者が出て、水攻めは失敗に終わった。その後は開墾などにより次第に取り壊されたが、1866年(慶応2年)名主増田五左衛門らにより石田堤の保存活動が行なわれた。
うどん大地
事前調べではさきたま古墳公園で行田ゼリーフライなどを食べることが出来るとなっていたのですが、オフシーズンの平日のためなのか焼きそば店が一軒あるものの食事する場所がなく、車で訪れたのがこのうどん店です。意外といっては失礼ですが美味しくてラッキーでした。
写真:浮き城の径
写真:忍城
映画「のぼうの城」で有名な忍城。
忍城は文明10年(1478)頃、成田顕泰[あきやす]により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。
寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋[ただあき]が入城し忍城大改築に着手。孫の正武[まさたけ]の代にいたり忍城御三階櫓の建設、城門、土塀の修築などが完成し面目を一新したという。文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠堯[ただたか]が移封し忠誠[ただざね]のとき明治維新を迎えた。行田市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった
平成三年三月
行田市
この後滑川町へ移動し「なめがわ温泉 花和楽の湯」で日帰り温泉に浸かって帰途に就きました。関越自動車道、環八を経由して目黒区役所まで二時間といったところでしょう。久しぶりの遠出で、リフレッシュできる下見となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール