仙川下見二回目です。野川を多摩川との合流地点まで歩ききり、その支流である仙川を歩こうという企画です。初回は仙川上流端から武蔵境駅付近までを下見しました。その部分のウォークを九月の計画に盛り込むかどうか迷ったのですが、暑かったこと、会員の皆さんが喜んでくれるのか自信が持てなかったことなどから、九月にこのコースを歩きませんでした。
仙川の特徴、上流部に言えることですが、川沿いを歩けるところが少ないのです。ときどき仙川に架かる橋をめぐりながら、住宅地を歩くことが仙川ウォーキングといえるのか疑問でした。一回目は上流端を見るので意味があるものと考えましたが、武蔵境を過ぎても相変わらず川を見ることが出来ない状況は地図で確認できます。二回目のウォーキングは川沿いを歩くことが出来る三鷹市下連雀八丁目の東八道路から下流に設定することになるだろうと想定し、歩かない予定の武蔵境駅から東八道路までを含めて今回下見をしています。
武蔵境駅付近の家
駅南口を出て日本獣医畜産大の北側の道で見つけた朝顔の日よけ。ここまで徹底していると見事です。花の最盛期はもっと華やかでしょう。
境南町一丁目付近の仙川
仙川といっても水は流れていませんが、両側ぎりぎりまで家が建っている状況が続きます。川というより用水路跡といったほうがその姿にあっているように思います。境南町をどのように読みますか?さかいみなみまちではなく「きょうなんちょう」だそうです。
武蔵境という地名を考察してみましょう。正確には武蔵境は駅名であり、地名は武蔵野市境ということになります。信濃境という駅が中央本線小淵沢駅の西側にありますが、こちらは甲斐の国と信濃の国の境になります。しかし武蔵境は武蔵の国の中央部にあり、国境とは考えられません。Wikipediaから引用します。
地名の由来
(以下の文章は断りのない限り、全て「武蔵野史」(藤原音松著/武蔵野市役所版)より抜粋して記載している)
境本村では古く住んだものを「六人衆といい、秋元、猿渡、清本、平野、小林、新倉」を苗字とする六軒の家があった」と里老が言い伝えているが、この六人衆のうちに開祖境本絺馬太夫(さかもとちまだゆう)の分家がある。境本=清本がそれであろう。これ等の衆は保谷寳晃院(ほうこういん)の檀家であることから見て、恐らく、保谷からの出百姓で境本の同志となり、共に開発に従事した人の子孫であろう。
要するに境村の境本村は、村の発祥地であること、村名も開発者の名字境本から来ており、後に本の字を脱したものであること、杵築神社は出雲松江城主松平出羽守直政が直接、出雲大社を完成したこと、および開発者は境本絺馬太夫であることが明らかになった。六人衆の一人、清本は境本の子孫である。
境本村の開墾は古いが、検地を受けたのは保谷地区と共に延寳年間のことで、そして全村改めて元禄年間に検地を受けたと推定される。貞享二十年中の検地は、境本が杵築及び稲荷の両社地を除地として貰ったときのことを記したのである。
境村は二地区に分けて開墾され、わずか二十年の間に検地を三回受け、享保年中に境新田が出来て、以来この地は新田の二字を脱し、単に境村と称することとなった(安永三年境村同新田村鏡帳の研究項551頁参照)。
八幡大神社
三鷹市下連雀四丁目、三鷹通りと連雀通りの角にある大きな神社です。トイレもあったので休憩場所に良いかもしれません。「連雀」という町名の歴史が書いてある解説板がありました。吉祥寺と同じようなパターンでしたが、千代田区のページから引用することにします。
神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道(なかせんどう)に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負う道ときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子(しょいこ)をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
明暦(めいれき)三年(1657年)の大火「振袖(ふりそで)火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地(ひよけち)として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野(むさしの)に代地(だいち)を与えられ移住させられました。現在の三鷹(みたか)市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
一方、安政(あんせい)三年の地図には、この界隈(かいわい)に土井能登守(どいのとのかみ)、青山下野守(あおやましもつけのかみ)などの上屋敷(かみやしき)がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町(さえきちょう)に編入され、連雀町から遷座(せんざ)された出世稲荷(しゅっせいなり)神社は、土井家屋敷内にあった延寿稲荷(えんじゅいなり)神社とともに町内の鎮守(ちんじゅ)となりました。
明治四十五年(1912年)、甲武(こうぶ)鉄道(のちの中央線)万世橋(まんせいばし)駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐(ひろせちゅうさ)の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝(ようしょう)として栄えました。また、寄席(よせ)の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉(ひぐちいちよう)がその著「別れ霜(じも)」において、「神田連雀町とかや、友囀り(ともさえずり)の喧しき(かしましき)ならで客足しげき……」と、その賑わい(にぎわい)を記しています。
大正十二年(1923年)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。
下連雀七丁目付近の仙川
仙川の特徴として両側に家が迫っていることのほかに、流れが追えなくなることが挙げられます。写真も右側(南側)に欄干代わりの柵がありますが、左側は工場となっていて暗渠にすらなっていません。
下連雀七丁目付近
その先、地図では郵政寮、神戸製鋼とありかつての社宅跡に大きなマンションが建てられ、前の道は拡幅されているのですが、仙川に架かる橋は元の広さのままです。
都営住宅わきの仙川
このあたりの仙川はほぼ直角のコーナーと直線の繰り返しで人工的に作られた印象だし、谷も感じられません。自然に発生した川というより、玉川上水から取水した水を流す水路なのかもしれません。
新川六丁目付近
人見街道を過ぎると一転して川らしくなりました。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真上部からどこどこ水が湧きだしています。川幅も広くなり、水が流れ、やっと川沿いを歩くことが出来ます。
地図で確認し、井の頭公園をぬけてこのあたりから川沿いを歩き始めようと思っていました。つまり武蔵境駅からここまでは「川沿いを歩けないので割愛するルート」の確認でした。しかし八幡大神社の手前あたりから考えが変わっていました。三鷹あたりの農地が残る風景は魅力的で、目黒にはない、そして地方の里山にもない風情が感じられました。ここまでを含めて川のない川下りも「仙川コースの魅力」となるだろうと思います。
東大宿舎
東八道路沿いにありました。
新川丸池公園
稲刈りは終わった田圃を案山子が守っています。このあたりでは多くの湧水が湧いていたため「千釜」と呼ばれており、それが仙川の名前の由来という説があります。
虫食いキャベツ
蝶にも優しい畑のようです。栃木の親せきが「自分たちで食べるキャベツや白菜は、農薬を使わず箸で青虫をとっている」と聞いたことを思い出しました。
昼食の関係でこの日は京王線仙川駅で下見終了しました。下見で魅力を感じられたので、11月に仙川ウォークの一回目、上流端から亜細亜大学を企画することにします。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
仙川の特徴、上流部に言えることですが、川沿いを歩けるところが少ないのです。ときどき仙川に架かる橋をめぐりながら、住宅地を歩くことが仙川ウォーキングといえるのか疑問でした。一回目は上流端を見るので意味があるものと考えましたが、武蔵境を過ぎても相変わらず川を見ることが出来ない状況は地図で確認できます。二回目のウォーキングは川沿いを歩くことが出来る三鷹市下連雀八丁目の東八道路から下流に設定することになるだろうと想定し、歩かない予定の武蔵境駅から東八道路までを含めて今回下見をしています。
武蔵境駅付近の家
駅南口を出て日本獣医畜産大の北側の道で見つけた朝顔の日よけ。ここまで徹底していると見事です。花の最盛期はもっと華やかでしょう。
境南町一丁目付近の仙川
仙川といっても水は流れていませんが、両側ぎりぎりまで家が建っている状況が続きます。川というより用水路跡といったほうがその姿にあっているように思います。境南町をどのように読みますか?さかいみなみまちではなく「きょうなんちょう」だそうです。
武蔵境という地名を考察してみましょう。正確には武蔵境は駅名であり、地名は武蔵野市境ということになります。信濃境という駅が中央本線小淵沢駅の西側にありますが、こちらは甲斐の国と信濃の国の境になります。しかし武蔵境は武蔵の国の中央部にあり、国境とは考えられません。Wikipediaから引用します。
地名の由来
(以下の文章は断りのない限り、全て「武蔵野史」(藤原音松著/武蔵野市役所版)より抜粋して記載している)
境本村では古く住んだものを「六人衆といい、秋元、猿渡、清本、平野、小林、新倉」を苗字とする六軒の家があった」と里老が言い伝えているが、この六人衆のうちに開祖境本絺馬太夫(さかもとちまだゆう)の分家がある。境本=清本がそれであろう。これ等の衆は保谷寳晃院(ほうこういん)の檀家であることから見て、恐らく、保谷からの出百姓で境本の同志となり、共に開発に従事した人の子孫であろう。
要するに境村の境本村は、村の発祥地であること、村名も開発者の名字境本から来ており、後に本の字を脱したものであること、杵築神社は出雲松江城主松平出羽守直政が直接、出雲大社を完成したこと、および開発者は境本絺馬太夫であることが明らかになった。六人衆の一人、清本は境本の子孫である。
境本村の開墾は古いが、検地を受けたのは保谷地区と共に延寳年間のことで、そして全村改めて元禄年間に検地を受けたと推定される。貞享二十年中の検地は、境本が杵築及び稲荷の両社地を除地として貰ったときのことを記したのである。
境村は二地区に分けて開墾され、わずか二十年の間に検地を三回受け、享保年中に境新田が出来て、以来この地は新田の二字を脱し、単に境村と称することとなった(安永三年境村同新田村鏡帳の研究項551頁参照)。
八幡大神社
三鷹市下連雀四丁目、三鷹通りと連雀通りの角にある大きな神社です。トイレもあったので休憩場所に良いかもしれません。「連雀」という町名の歴史が書いてある解説板がありました。吉祥寺と同じようなパターンでしたが、千代田区のページから引用することにします。
神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道(なかせんどう)に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負う道ときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子(しょいこ)をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
明暦(めいれき)三年(1657年)の大火「振袖(ふりそで)火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地(ひよけち)として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野(むさしの)に代地(だいち)を与えられ移住させられました。現在の三鷹(みたか)市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
一方、安政(あんせい)三年の地図には、この界隈(かいわい)に土井能登守(どいのとのかみ)、青山下野守(あおやましもつけのかみ)などの上屋敷(かみやしき)がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町(さえきちょう)に編入され、連雀町から遷座(せんざ)された出世稲荷(しゅっせいなり)神社は、土井家屋敷内にあった延寿稲荷(えんじゅいなり)神社とともに町内の鎮守(ちんじゅ)となりました。
明治四十五年(1912年)、甲武(こうぶ)鉄道(のちの中央線)万世橋(まんせいばし)駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐(ひろせちゅうさ)の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝(ようしょう)として栄えました。また、寄席(よせ)の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉(ひぐちいちよう)がその著「別れ霜(じも)」において、「神田連雀町とかや、友囀り(ともさえずり)の喧しき(かしましき)ならで客足しげき……」と、その賑わい(にぎわい)を記しています。
大正十二年(1923年)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。
下連雀七丁目付近の仙川
仙川の特徴として両側に家が迫っていることのほかに、流れが追えなくなることが挙げられます。写真も右側(南側)に欄干代わりの柵がありますが、左側は工場となっていて暗渠にすらなっていません。
下連雀七丁目付近
その先、地図では郵政寮、神戸製鋼とありかつての社宅跡に大きなマンションが建てられ、前の道は拡幅されているのですが、仙川に架かる橋は元の広さのままです。
都営住宅わきの仙川
このあたりの仙川はほぼ直角のコーナーと直線の繰り返しで人工的に作られた印象だし、谷も感じられません。自然に発生した川というより、玉川上水から取水した水を流す水路なのかもしれません。
新川六丁目付近
人見街道を過ぎると一転して川らしくなりました。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真上部からどこどこ水が湧きだしています。川幅も広くなり、水が流れ、やっと川沿いを歩くことが出来ます。
地図で確認し、井の頭公園をぬけてこのあたりから川沿いを歩き始めようと思っていました。つまり武蔵境駅からここまでは「川沿いを歩けないので割愛するルート」の確認でした。しかし八幡大神社の手前あたりから考えが変わっていました。三鷹あたりの農地が残る風景は魅力的で、目黒にはない、そして地方の里山にもない風情が感じられました。ここまでを含めて川のない川下りも「仙川コースの魅力」となるだろうと思います。
東大宿舎
東八道路沿いにありました。
新川丸池公園
稲刈りは終わった田圃を案山子が守っています。このあたりでは多くの湧水が湧いていたため「千釜」と呼ばれており、それが仙川の名前の由来という説があります。
虫食いキャベツ
蝶にも優しい畑のようです。栃木の親せきが「自分たちで食べるキャベツや白菜は、農薬を使わず箸で青虫をとっている」と聞いたことを思い出しました。
昼食の関係でこの日は京王線仙川駅で下見終了しました。下見で魅力を感じられたので、11月に仙川ウォークの一回目、上流端から亜細亜大学を企画することにします。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール