11月12日、駒場体育館主催によるこまエコ散歩が行われました。このイベントは春と秋の二回行われ、すこやか歩こう会は第一回からお手伝いをしています。コースに変化を持たせようという話はあるのですが、目黒区の北のはずれにある駒場体育館を出発し、目黒区内を歩き、駒場体育館へ戻るコースではおのずと限界があり春は目黒北部の見所を巡り、秋はいちょう並木を歩くコースで固定しています。
写真:駒場野公園の紅葉
駒場体育館に10時に集合し、「エコ活動の事例紹介」、「ウォーキング講座」のあと、実際にウォーキングを行います。
写真:馬神碑
駒場野公園を出発して南へ向かい、筑波大学付属駒場高・中の西側を歩くのでこの部分は世田谷区。馬神碑は池尻四丁目の崖の上に設置されています。この場所は明治期に帝国陸軍騎兵第一大隊がおかれ、現在の筑駒の正門の場所に大隊の門がありました。騎兵の訓練や、日露戦争で犠牲になった馬を供養するため建てられた碑です。南側を目黒川が削った崖になっており、かつては騎兵山と呼ばれていました。
写真:目黒川緑道のツワブキ
騎兵山の階段を下りると目黒川です。池尻と三宿の境で北沢川と烏山川が合流して目黒川になります。支流を含めこの辺りは暗渠となっており、私が子供の頃は緑道はなく立ち入りもできませんでしたが暗渠だった記憶があります。正確な経緯はわかりませんが、東京都による1995年の「城南三河川清流復活事業」をきっかけに緑道が整備されたのかもしれません。世田谷区のHPから引用してみましょう。
「北沢川緑道」と「烏山川緑道」の2つの緑道が合流する地点から、遊歩道は「目黒川緑道」と名前が変わり、2つの緑道を流れる「せせらぎ」もここで合流し、「目黒川緑道」のせせらぎとして流下していきます。せせらぎの流れに沿って下流に歩くと、間もなく、緑道は目黒区に入り、せせらぎと共に目黒区の緑道に引き継がれていきます。国道246号線まで続く目黒区の区間は、平成21年3月に完成しました。
「北沢川緑道」から続く「せせらぎ」には、護岸に水生植物が育ち、昔、ここが川であった頃を偲ばせる水辺の環境が形作られています。
また、緑道には、樹木の他に数々の草花が植えられ、遊歩道を含め、地域の皆さんによる熱心な手入れが行われており、四季を感じさせる緑道として、ここを通る人々を和ませています。
写真:建設工事中の東山小学校
玉川通りを渡ると目黒川は開渠になり、春に桜の名所となります。ここで大山街道、鮎飛脚、大橋の由来、大坂の由来と首都高速大橋ジャンクションの話をして、東山貝塚公園へ向かいます。目黒区のHPを引用してみましょう。
◆海から遠く離れた貝塚跡
区内の遺跡の中で最も有名なのは、目黒川をのぞむ台地縁辺から斜面にかけて集落のあった東山貝塚遺跡(東山二丁目・三丁目一帯)である。この遺跡は、縄文時代後・晩期を主体とする集落跡であるが、近年の発掘調査により縄文時代中期や弥生時代後期の集落跡も発見されている。この斜面地部分に貝殻や、魚、動物の骨などを捨てた貝塚が存在する。
北区の西が原貝塚や港区の丸山貝塚と並んで東京市三大貝塚といわれた東山貝塚は、わが国人類学の祖、坪井正五郎博士によって、明治の中ごろに発掘された。この貝塚からは、ハマグリ・アサリ・ツメタガイ・ヤマトシジミなどの貝殻や、クロダイ・アジ・フグ・コイなどの魚の骨、イノシシ・シカなど動物の骨も発見されている。
海から遠く離れた東山に、なぜ海水産の貝や魚が残されていたのだろうか。そのわけは、縄文時代には、今の目黒川の低地が入江となっていて、海水が東山のすぐそばまで入り込んでいたからである。このことから、狩猟と同時に漁猟も行われていたのである。
◆住居跡は区画整理中に発見
時代は移り、大正12年の関東大震災後、東山辺りにも、移り住む人びとが増えてきた。同15年、区画整理作業中に、13軒の竪穴式住居跡が発見され、鳥居龍蔵博士を中心とする考古学者の手によって発掘されたのである。このことは当時の新聞や考古学誌に発表され、東山の名は一層有名になった。
発掘された竪穴式住居は、7本から10本程度の柱穴をもつ直径6メートル、深さ30センチメートルから40センチメートルの円形状を呈するものであり、床の中央部分には石を囲って作られた炉も存在したとの記録がある。
◆昔をしのぶ東山貝塚公園
今日、これらの貴重な遺跡は、都市化の進む中で住宅や工場・道路に代わり、その面影を残すものはほとんどなくなってしまったが、東山貝塚遺跡の出土品は、めぐろ歴史資料館(旧守屋教育会館郷土資料室)や國學院大学考古学資料室などに保存展示されている。
区では、貝塚の近くに、区立東山貝塚公園(東山三丁目16番7号)を造成する際、國學院大学名誉教授、樋口清之氏の指導を受けて、同公園入口横に、縄文時代の竪穴式住居を擬製復元した。内部には、古代生活の様子が伺えるよう、炉を囲んで夫婦と子どもの3人が座り、石おの・土器・ヤジリ・鹿皮などが展示されている。また、今なお、こんこんとわき出る水を利用して造ったせせらぎは、訪れる人びとに安らぎを与えている。
今から約5,000年以上もの昔、私たちの祖先は、わき水など地の利を得て、この地に生活を展開していたのである。
公園を出発すると区界を南へ進み、加藤家の墓地と帝国陸軍の馬糧庫を見て、国土地理院跡地にできた東山公園へ。加藤家についての記事が見つからないので、ゆかりのある上目黒氷川神社の記事を「東京近郊ぶらり散歩日記」のHPから引用します。
旧武蔵国荏原郡上目黒村の鎮守神「上目黒氷川神社」。
創建は天正年間(室町後期・安土桃山時代)。武田信玄の家臣だった加藤家が現在の山梨・上野原より産土神をこの地にむかえいれたと言われています。
この地域を流れる目黒川は、支流も含め古くから水害をもたらしていたそう。そういう意味でも、この地に「氷川神社」(素戔嗚信仰)はぴったりだったのでしょう。
その昔この氏子は疫病知らずと言われ、今では「厄除けの神様」として親しまれています。
現在の御祭神は素戔嗚尊、天照大神、菅原道真。
表参道にあたる石段は、もともとはもっとなだらかだったそうですが、前を走る大山街道(国道246号線)の拡張に伴い傾斜がきつくなったそう。江戸時代の絵図にもこの(改修前の)石段が描かれています。
写真:菅刈公園
東山小学校、東山中学校経由で菅刈公園へ。東山は宿山の東にあることに由来します。宿山についての記事が見つからないので、目黒区のHPから小川坂についての記事を引用します。
中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差点から西へ斜めに入る道がある。東山一丁目と上目黒三丁目の境を、烏森小学校のほうへと上るこの道が小川坂。弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのが、名前の由来ときく。
小川坂上の寿福寺辺りは、小高い丘陵地帯で、旧小字名を宿山と呼んだ。鎌倉街道のひとつがここを通過していたから、その宿駅という意味であろうか。
小川坂も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路である。
菅刈についても目黒区のHPを引用してみます。
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。
写真:西郷山公園からの景色
菅刈公園でトイレ休憩を取り、坂を上って西郷山公園。三田用水跡の道を西へ向かい松見坂。
写真:東大正門前のバラの小径
松見坂から細い道に入り、駒場バラ園の前を通ります。「バラの小径」をはじめとする駒場地区の公園などに点在するバラは駒場バラ会の方がお世話をして、奇麗な花を見せてくれています。
写真:旧制一高の本館
写真:東大キャンパス内の紅葉
最後に東大キャンパス内のいちょう並木を見て、駒場野公園へ戻りました。ゴールでは駒場体育館の方々が準備してくれた焼き芋をいただき、こまエコ散歩(秋)は解散となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
写真:駒場野公園の紅葉
駒場体育館に10時に集合し、「エコ活動の事例紹介」、「ウォーキング講座」のあと、実際にウォーキングを行います。
写真:馬神碑
駒場野公園を出発して南へ向かい、筑波大学付属駒場高・中の西側を歩くのでこの部分は世田谷区。馬神碑は池尻四丁目の崖の上に設置されています。この場所は明治期に帝国陸軍騎兵第一大隊がおかれ、現在の筑駒の正門の場所に大隊の門がありました。騎兵の訓練や、日露戦争で犠牲になった馬を供養するため建てられた碑です。南側を目黒川が削った崖になっており、かつては騎兵山と呼ばれていました。
写真:目黒川緑道のツワブキ
騎兵山の階段を下りると目黒川です。池尻と三宿の境で北沢川と烏山川が合流して目黒川になります。支流を含めこの辺りは暗渠となっており、私が子供の頃は緑道はなく立ち入りもできませんでしたが暗渠だった記憶があります。正確な経緯はわかりませんが、東京都による1995年の「城南三河川清流復活事業」をきっかけに緑道が整備されたのかもしれません。世田谷区のHPから引用してみましょう。
「北沢川緑道」と「烏山川緑道」の2つの緑道が合流する地点から、遊歩道は「目黒川緑道」と名前が変わり、2つの緑道を流れる「せせらぎ」もここで合流し、「目黒川緑道」のせせらぎとして流下していきます。せせらぎの流れに沿って下流に歩くと、間もなく、緑道は目黒区に入り、せせらぎと共に目黒区の緑道に引き継がれていきます。国道246号線まで続く目黒区の区間は、平成21年3月に完成しました。
「北沢川緑道」から続く「せせらぎ」には、護岸に水生植物が育ち、昔、ここが川であった頃を偲ばせる水辺の環境が形作られています。
また、緑道には、樹木の他に数々の草花が植えられ、遊歩道を含め、地域の皆さんによる熱心な手入れが行われており、四季を感じさせる緑道として、ここを通る人々を和ませています。
写真:建設工事中の東山小学校
玉川通りを渡ると目黒川は開渠になり、春に桜の名所となります。ここで大山街道、鮎飛脚、大橋の由来、大坂の由来と首都高速大橋ジャンクションの話をして、東山貝塚公園へ向かいます。目黒区のHPを引用してみましょう。
◆海から遠く離れた貝塚跡
区内の遺跡の中で最も有名なのは、目黒川をのぞむ台地縁辺から斜面にかけて集落のあった東山貝塚遺跡(東山二丁目・三丁目一帯)である。この遺跡は、縄文時代後・晩期を主体とする集落跡であるが、近年の発掘調査により縄文時代中期や弥生時代後期の集落跡も発見されている。この斜面地部分に貝殻や、魚、動物の骨などを捨てた貝塚が存在する。
北区の西が原貝塚や港区の丸山貝塚と並んで東京市三大貝塚といわれた東山貝塚は、わが国人類学の祖、坪井正五郎博士によって、明治の中ごろに発掘された。この貝塚からは、ハマグリ・アサリ・ツメタガイ・ヤマトシジミなどの貝殻や、クロダイ・アジ・フグ・コイなどの魚の骨、イノシシ・シカなど動物の骨も発見されている。
海から遠く離れた東山に、なぜ海水産の貝や魚が残されていたのだろうか。そのわけは、縄文時代には、今の目黒川の低地が入江となっていて、海水が東山のすぐそばまで入り込んでいたからである。このことから、狩猟と同時に漁猟も行われていたのである。
◆住居跡は区画整理中に発見
時代は移り、大正12年の関東大震災後、東山辺りにも、移り住む人びとが増えてきた。同15年、区画整理作業中に、13軒の竪穴式住居跡が発見され、鳥居龍蔵博士を中心とする考古学者の手によって発掘されたのである。このことは当時の新聞や考古学誌に発表され、東山の名は一層有名になった。
発掘された竪穴式住居は、7本から10本程度の柱穴をもつ直径6メートル、深さ30センチメートルから40センチメートルの円形状を呈するものであり、床の中央部分には石を囲って作られた炉も存在したとの記録がある。
◆昔をしのぶ東山貝塚公園
今日、これらの貴重な遺跡は、都市化の進む中で住宅や工場・道路に代わり、その面影を残すものはほとんどなくなってしまったが、東山貝塚遺跡の出土品は、めぐろ歴史資料館(旧守屋教育会館郷土資料室)や國學院大学考古学資料室などに保存展示されている。
区では、貝塚の近くに、区立東山貝塚公園(東山三丁目16番7号)を造成する際、國學院大学名誉教授、樋口清之氏の指導を受けて、同公園入口横に、縄文時代の竪穴式住居を擬製復元した。内部には、古代生活の様子が伺えるよう、炉を囲んで夫婦と子どもの3人が座り、石おの・土器・ヤジリ・鹿皮などが展示されている。また、今なお、こんこんとわき出る水を利用して造ったせせらぎは、訪れる人びとに安らぎを与えている。
今から約5,000年以上もの昔、私たちの祖先は、わき水など地の利を得て、この地に生活を展開していたのである。
公園を出発すると区界を南へ進み、加藤家の墓地と帝国陸軍の馬糧庫を見て、国土地理院跡地にできた東山公園へ。加藤家についての記事が見つからないので、ゆかりのある上目黒氷川神社の記事を「東京近郊ぶらり散歩日記」のHPから引用します。
旧武蔵国荏原郡上目黒村の鎮守神「上目黒氷川神社」。
創建は天正年間(室町後期・安土桃山時代)。武田信玄の家臣だった加藤家が現在の山梨・上野原より産土神をこの地にむかえいれたと言われています。
この地域を流れる目黒川は、支流も含め古くから水害をもたらしていたそう。そういう意味でも、この地に「氷川神社」(素戔嗚信仰)はぴったりだったのでしょう。
その昔この氏子は疫病知らずと言われ、今では「厄除けの神様」として親しまれています。
現在の御祭神は素戔嗚尊、天照大神、菅原道真。
表参道にあたる石段は、もともとはもっとなだらかだったそうですが、前を走る大山街道(国道246号線)の拡張に伴い傾斜がきつくなったそう。江戸時代の絵図にもこの(改修前の)石段が描かれています。
写真:菅刈公園
東山小学校、東山中学校経由で菅刈公園へ。東山は宿山の東にあることに由来します。宿山についての記事が見つからないので、目黒区のHPから小川坂についての記事を引用します。
中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差点から西へ斜めに入る道がある。東山一丁目と上目黒三丁目の境を、烏森小学校のほうへと上るこの道が小川坂。弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのが、名前の由来ときく。
小川坂上の寿福寺辺りは、小高い丘陵地帯で、旧小字名を宿山と呼んだ。鎌倉街道のひとつがここを通過していたから、その宿駅という意味であろうか。
小川坂も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路である。
菅刈についても目黒区のHPを引用してみます。
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。
写真:西郷山公園からの景色
菅刈公園でトイレ休憩を取り、坂を上って西郷山公園。三田用水跡の道を西へ向かい松見坂。
写真:東大正門前のバラの小径
松見坂から細い道に入り、駒場バラ園の前を通ります。「バラの小径」をはじめとする駒場地区の公園などに点在するバラは駒場バラ会の方がお世話をして、奇麗な花を見せてくれています。
写真:旧制一高の本館
写真:東大キャンパス内の紅葉
最後に東大キャンパス内のいちょう並木を見て、駒場野公園へ戻りました。ゴールでは駒場体育館の方々が準備してくれた焼き芋をいただき、こまエコ散歩(秋)は解散となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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