文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

占領軍は公職追放令以外にも、日本の内政にさまざまな政策を行なった。そのなかに、財閥解体と土地改革がある。この二つの政策をアメリカで行なうこと、ができるだろうか?できるわけがない

2019年05月27日 22時01分29秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
以下は前章の続きである。
財閥解体は日本弱体化政策 
占領軍は公職追放令以外にも、日本の内政にさまざまな政策を行なった。 
そのなかに、財閥解体と土地改革がある。
この二つの政策をアメリカで行なうこと、ができるだろうか? 
できるわけ、がない。
アメリカのテキサスあたりに行って「農地改革だ」などと演説したら、三日以内に死体になって転がっているだろう。
自分の国では絶対にできないことを日本国で行なったのである。 
財閥は左翼にとって目の敵だったが、おそらくアメリカの左翼でない人々も日本の財閥の解体を支持したはずである。
それは、天然資源が何もなく、国土の八割が山である小さな島国が、アメリカを相手に大戦争をしたからだ。
少なくとも最初の一年半くらいは、どちらが勝つかわからないような状態だった。
これをアメリカは日本に財力があったからだと受け取った。
だから、財閥解体は日本に二度と戦争をさせない防波堤になると考え、それを支持したのであろう。
これに関しては、アメリカの右も左も一致してやりたかったのだと私は考えている。 
ただ、さすがに経済界から戦犯は出さなかった。
財閥から戦犯を出すことはさまざまな理由からやめたようだ。
たしかに、満洲などに進んで出ていったのは新しい財閥であって、旧財閥ではなかった。
しかしもちろん、公職追放はされている。 
近代国家として発展するためには財閥的なものがなければならないということを一番よくわかっていたのは、韓国の朴正熈(注1)大統領だったと思う。 
近代国家というのは、「富国」でなければ「強兵」は実現しない。
いくら武士を鍛えても、鉄砲には負ける。
鉄砲も、三百メートルの射程距離のものよりも五百メートルの射程距離があるものが勝るのは明らかだ。 
李王朝がそれをやらなかったということを、戦前の心ある韓国人は骨身にしみてわかっていたと思う。
だから朴正熈は財閥を作らせた。
そして彼は明治維新の真似をして、「維新革命」というものを行なった。
日本が羨ましかったのだ。
そして「漢江の奇跡」とのちに呼ばれる経済成長を成し遂げ、韓国を富国に向けて発進させた。  
(注1)朴正煕(1917~1979)韓国の軍人・政治家。日本統治下の韓国に生まれ、日本の陸軍士官学校を卒業。終戦時は満洲国軍中尉。61年、クーデターにより軍事政権を樹立、63年に韓国大統領に就任。目韓基本条約を締結し、高度経済成長政策を推進したが、79年、側近のKCIA部長、金載圭によって暗殺された。 
この稿続く。


以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年05月27日 17時32分53秒 | 日記

1

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。

2

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

3

戦後に東大の総長になる。戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。

4

天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。

5

しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。公職追放令の中心になった人は誰だろうか…それで起用されたのがハーバート・ノーマンである

6

そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。

7

カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった

8

この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。

9

荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる

10

少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた


リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。

2019年05月27日 15時13分55秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 

 


特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった

2019年05月27日 15時12分19秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 

 


先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。

2019年05月27日 15時09分40秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 

 


彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。

2019年05月27日 15時05分49秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた

2019年05月27日 15時03分56秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる

2019年05月27日 15時01分46秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。

2019年05月27日 14時59分50秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。

2019年05月27日 14時55分59秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


戦後に東大の総長になる。戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。

2019年05月27日 14時54分27秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。

2019年05月27日 14時45分13秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。

2019年05月27日 14時43分39秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった

2019年05月27日 14時41分59秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。公職追放令の中心になった人は誰だろうか…それで起用されたのがハーバート・ノーマンである

2019年05月27日 14時40分52秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた大だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、玉要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争、が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分か正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。