文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です

2019年05月18日 22時52分12秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 
私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立たない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているMHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 
それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 

 


残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。

2019年05月18日 22時50分44秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 
私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立たない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているMHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 
それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 

 


大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと

2019年05月18日 22時49分09秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 
私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立たない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているMHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 
それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 

 


教科書問題でも徹底的にやりました。1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、

2019年05月18日 22時46分06秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 
私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立だない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているMHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 
それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 

 


社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は

2019年05月18日 22時44分09秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 
私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立だない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているMHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 
それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 

 


こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。

2019年05月18日 22時39分41秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立だない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているMHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 


東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。

2019年05月18日 22時37分42秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立だない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
*NHKのクローズアップ現代を司会しているMHKのアナウンサー代表らしい「へのへのもへじ」達が保阪正康を重用している点にもNHKが朝日新聞と全く変わらない売国的、国賊的な国営放送局!であることを証明しているのである。*
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 


それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした…私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきた

2019年05月18日 21時56分23秒 | 日記

全ての章が、以下の本が戦後の世界で最も重要な本である事を証明していると購読者の人たちは皆痛感したはずである。
朝日との「40年戦争」に勝利した
高山 
それにしても、朝日新聞との戦いを、長い間ひとりで、先鞭をつけてこられたのは渡部先生でした。
渡部 
私はもともと、朝日を批判する気はなかったんです。
向こうが勝手に個人攻撃を仕掛けてきたのが始まりでした。 
まだ朝日が非常に大きな権威をもっていて、叩かれた人は社会的地位を失うような時代でしたが、私は絶対に謝らず、やり返しました。 
学内でも朝日の権威を嵩にきて「なぜ渡部のような思想の持ち主を大学に置くのか」と言い出すやつがいたり、それに乗って授業妨害にやってくる団体もあり、大変でした。
高山 
大西巨人との論争自体、朝日新聞がねつ造したものですね。
あたかも紙上対談のようにレイアウトしていました。 
1980年10月15日付朝刊の「大西巨人氏vs渡部昇一氏」、見出しは[劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆 まるでヒトラー礼替 大西氏激怒」。
あれはひどかった。
渡部 
そうです。
会ったこともないし、読んだこともない人と紙面で対談しているんです。
あんなひどいことをやるとは知らなかった。 
社会面のたっぷり4分の1以上のスペースに6段抜きで報道されたこと自体が、まったくの虚構で、大西氏が紙面で私に反論したわけでもない。
虚構記事で悪質な紙面を作り上げ、朝日が気にくわない思想の持ち主として糾弾されたのです。
私の言っていることがねじ曲げられ、5段抜きで「ヒトラーの優生思想の礼賛者だ」と、に」反対にされてね。 
私は週刊文春の連載で「ヒトラーとは逆の立場の人であるが」とわざわざ断って、アレキシス・カレル(1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)を引用しました。 
カレルはカトリック的立場で国家権力の介入を断乎否定した人ですから、「国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある」、個人の倫理的判断にゆだねるべきと書いた。
当然、ヒトラーと反対の立場なのに、朝日新聞の記者はわざと気付かなかったふりをして、この一文をヒトラー礼賛記事の如く取り上げました。 
個人の意見に圧力をかけるために、新聞報道で叩くのは恐ろしいことです。 
事実のはずの報道が虚報でゆがめられ、言論の自由の機関であるはずの新聞が、気に食わない意見を検閲する機関になっているわけですから。 
検閲の基準は左翼、反日、親中、親韓で、これに反する言論は容赦なく摘発される。
目指すところは言論界からの追放と、社会的抹殺です。 
でっち上げで私立大学の一教師を葬り去ろうとした所業は凶悪としか言いようがありません。
社会的に殺されかけた私は「これからは本当のことをズバズバ言って、徹底的に朝日を批判しよう」と決心しました。 
朝日が火をつけた後、悪罵の限りを尽くして私を批判した連中は、「『既に』生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一文を必ず無視して、他の部分を検閲官的に取り扱ったのも全体主義的でしたね。 私は昔の子供ですから、当時、楠木正成の千早城のことを思い出していました。
絶対の権威があった北条氏の幕府が大軍を出しているのに、なかなか千早城が落ちない時期が続くと、情勢は一気にひっくり返ることがある。
「私は千早城になる」と思ったのです。 
私が受け持っている、すべての授業が妨害されたことが二度ありました。
夏休みを入れてだいたい半年くらいの間、授業の教室に入れないようにブロックされていました。 
妨害する連中を押し分けて入るのですが、手を使うと「突いた」と言われるから、手を使わずに体だけで押し分けて入ってね。
そのうち学生たちが「出ていけ!」と言ってくれるようになって、彼らは授業中、廊下で待っているようになりました。 
私はその頃、一週間に六コマ授業を受け持っていましたが、一つも休んだことはありません。 
帰るときは気分が悪くてね。昔習った漢文に、「雁寒潭を度る、雁去って潭は影を留めず。故に君子は、事来たって心始めて現われ、事去って心随って空し」というのがありました(菜根譚)。
雁が澄んだ池の上を渡っていった。
雁が去ると影は映っていない。
君子とはこのように、何か事が起きれば心を動かすが、終われば心を空虚に戻し、いつまでも執着しないのだという意味です。
だから「雁寒潭、雁寒潭……」と繰り返し唱えながら家に帰ったものです。
おかげで私は半年間も授業妨害を受けていたのに、寝室を共にする家内が、私が吊るし上げられていることに気づかなかった。
高山 
ごく平静を保てたと。
渡部 
家に来たら警察沙汰になります。
向こうはそれを知っているから、家には来ません。
学校は警察に訴えないので、授業妨害に来るわけです。
高山 
どんな連中が来ましたか。
渡部 
学生でない左翼団体も来て、教室に勝手に入ってくるわけです。 
車いすに乗っている人たちは、私の論文なんか読んでいるわけがない。
だから私は、壇上から降りていって、車いすの人たちの手を握って話をすると、二コニコして喜ぶんです。
「あなたのこの車いすを押している人は悪い人ですよ」というと、障害を持つ人が私を批判するためにやって来たという建て前ですから、車いすを押している活動家は何も反論できなくなる。
そんなことを繰り返しているうちに、来なくなりました(笑)。 
この時は『月刊文勢春秋』の安藤満編集長が「“検閲機関”としての朝日新聞」という巻頭論文を書かせてくれましたので、反論できたのです。
この編集長は古いタイプで、「文勢春秋は、朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という伝統を知る人だったから、私に反論を書かせてくれた。 
教科書問題でも徹底的にやりました。
1982年、マスコミが歴史教科書検定で、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという、事実無根の嘘を一斉に報じたので、「萬犬虚に吠えた教科書問題」という論文を『諸君!』に書いて誤報を追及すると、朝日はこれ以降、沈黙します。 
名指しで二度、公開質問状を『諸君!』に載せても反応がない。
いくら私をヒトラーのような思想の持ち主と印象操作しても、根拠のないインチキだということが、時が経つほど明らかになっていきました。 
結局、思想検閲者という私の批判に対して、朝日側からの返答や反論はなかった。
私を大学から追う彼らの企図は不成功に終わり、朝日がトップ記事で個人攻撃をしても役に立だない実例ができたわけです。 
大新聞に悪意ある記事を出されると、自殺したり辞職したりする例が続いていたのに、朝日がいくら叩いても平気な教員が出たことは、やはり戦後マスコミの中で画期的なことであったと思います。 
残念なのは、文藝春秋は近年「朝日新聞とNHKとは別のことを言う」という、かつてのジャーナリスティックな伝統をなくしてしまったことです。
日本は悪いことをしたという意識を植え付けられた人たちが中心になり、リベラルになってしまいました。
元文春の花田紀凱『月刊Hanada』編集長によると、社長がある会合で「極右の塊である現政権をこれ以上、暴走させてはならない」とあいさつしたといいますから、朝日と見紛うような状態です。 
東京裁判史観に取り込まれ、マッカーサーを賛美する半藤一利(元専務)や保坂正康といった人たちが歴史観の基調を握っているのは危ない。
彼らは一所懸命、東京裁判の対象になった人たちに話を聞いて回ったけれども、それでは日本側の動きしか分かりません。 
個々の戦闘で、日本軍がどうやられたかという話を集成すれば、東京裁判をなぞる結論になってしまう。
その前に連合国側が何をしていたか、日本がそういう限られた条件での戦争や戦闘に、そもそもなぜ追いつめられたのか、という情報はシャットアウトしているわけです。
高山 
そう、国際性がないんです。
日本と米国の動きを上から俯瞰して、それぞれがどうやって動いたのか、その結果として戦争を見ないといけない。
渡部 
相手が何を徂って、どう動いていたかという視点がない。
特徴的なのは、東京裁判の宣誓供述書で「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」と主張した東篠さんの証言を、彼らがほとんど使わないことです。 
ドイツ近代史を研究しようとする人が、もし、ヒトラーが日記や裁判記録を残していたなら、それを使わないはずがないんですね。
しかも束篠さんの記録は裁判所の証言ですから、嘘はないんです。
嘘をついて事実をまげれば検事にやられますから。
あれを使わない以上、いかに一方的な見方しかしていないかが分かります。 
後になって、マッカーサー本人が東篠さんの見方を追認しています。1951年、アメリカ上院軍事外交合同委員会で、日本が戦争をしたのは「主として安全保障のためだった」と証言しました。 
日本には近代工業を支えるための資源は(絹糸をつくる)蚕しかなかった。その他の資源、石油やゴム、タングステンなどはすべて東南アジア地域にあった。しかし我々は日本へのこれら原料の供給を断ち切った。そこで日本は、突如として1200万人ぐらいの失業者を生ずる恐れが出てきたので、「セキュリティ(安全保障)のため」開戦に踏み切った。 
これは日本の息の根を止めるようなことをされたから、自衛のために立ち上がり、戦ったという歴史観です。
そのマッカーサー証言の大部分は、朝日新聞の縮刷版に載っていますが、肝心の「安全保障」のところだけ入っていない。
やはり、日本人に真実を知らせないようにしているわけです。 
当事者への聞き書きに嘘はないはずですが、では真実かといえば、そうでもない。
例えばノモンハン事件を日本側当事者の証言だけで振り返れば、日本側の惨敗のように見えます。
しかし、ソ連側の損害を考え合わせなければ本当のことは分からないんです。 
ノモンハンでの日本の戦車の損害は30両でしたが、ソ連は400両やられている。
800両という説もあります。
飛行機の損害は180機、向こうは1600機。
死傷者は日本が1万7000人、向こうは2万6000人、ソ連側の損害は、日本よりはるかに大きかっか。 
でも、日本側の損害しか見ないならば、一個師団が消えるほどですから、大敗北ともいえるわけです。
高山 
事実、ノモンハンの結果、司令官だったジューコフは日本軍の強さに恐れをなして、その後、日本軍には戦いを挑んできませんでした。
ドイツと日本の敗北が決まり、関東軍の4倍の戦力を動員できる準備が整うまで待ってから、一挙に侵攻してきた。 
こういうジューコフの臆病ぶりを、我々は書かないといけません。 それから占守(しゅむ)島の戦いが大事です。
日本降伏後の8月18日にソ連軍が奇襲上陸を開始すると、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将の命令でいったん武装解除した軍隊が直ちに反撃を開始して、ソ連軍をはね返しました。 
戦争が終わっても祖国を守るために戦い、勝利した日本軍の実像がほとんど語られてこなかった。
こういう朝日が封印してきた歴史を掘り返していけば、日本はさらに変わっていくでしょう。 
朝日新聞が歴史の真実に逆襲される時代が到来しているのです。
渡部 
最近では朝日新聞を批判する人が山ほど出てきて、いい傾向だと思っています。

 

 


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2019年05月18日 20時53分49秒 | 日記

1

TBSが反日的報道をする理由を知っていますか?

 

2

金丸信氏の訪朝団の時代、金丸氏の自宅の金庫から見つかった金塊に対して「北朝鮮製ではないか」と言わ

 

3

NHK、TBS、テレビ朝日、朝日新聞などの偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを完璧に明らかに

 

4

国民に対して説明責任のあるA級戦犯記者どもは以下の3名。①読売新聞 越前谷知子

 

5

韓国人に歴史の真実という「パンドラの箱」を開けさせないのである。だから韓国人は歴史の真実を知らな

 

6

鳩山由紀夫が韓国で何を行っているのかを初めて知った人達は、呆れ果てるだけではなく心からの怒りを

 

7

合計して8億ドルである。この金額は当時のものであるので、貨幣価値を今の時代に換算してみる。

 

8

NYT記者の田淵広子といえば、慰安婦問題で狂信的に日本を断罪したことで悪名高い。

 

9

これは李氏朝鮮時代に行われた「周牢(チュリ)」という拷問であり、

 

10

小泉には心を開いて話せる盟友やブレーンは一人もいません。異常なほどの孤独癖に森(喜朗前首相)も、

 

11

私と同様に、日韓議員連盟って一体なんなんだ、と思っていた人たち全員が、目から鱗が落ちる論文である

 

12

すなわち、在日韓国朝鮮人に各TV局は、乗っ取られていると云う事です。

 

13

問題は、こういう「歴史の真実」を韓国人が知らないことだ。慰安婦問題も同じだ。

 

14

歴史の真実を直視しない韓国人に未来はない。まずは大本を正すべきだ。話はそれからだ。

 

15

スクープ!金正恩暗殺未遂事件、なぜ韓国駆逐艦はレーダー照射したのか…西岡力氏の論文からである

 

16

ドイツ人は日本が嫌いだ。ロシア人は準白人だから日露戦争で日本に負けてもそう気にはしなかった。

 

17

NHKは、なぜ韓国人ディレクターを使ったのか、と放送当時から疑問が呈されたようである。

 

18

重信房子支援者が勤務していた高槻市の光愛病院の創設者は日本赤軍の前身である共産主義同盟(ブンド

 

19

さらに、日本は戦前韓国に残した資産を放棄している。これはインドが英国から独立したとき、イギリス人

 

20

それを日本の警察当局が「コーカク(行動確認)」対象にしていることは、知る人ぞ知る。 

 

21

デーブ・スペクター「韓国は何がしたいんでしょうね。(ボロクソに言う)」 ワイ「今後絶対に韓国には

 

22

半導体製造大手JHlCC(福建省晋華集成電路)は、台湾のマイクロン支社のすぐ側にシャドー会社を設

 

23

彼は実態は北朝鮮の工作員であると言っても全く過言ではない人間である。

 

24

日本人は世界最貧国だった朝鮮半島を、たった35年間で、一気に近代国家にした国民なのである。

 

25

立命館大学の教授をしていた事には驚いたが、この男の一番弟子が箱田哲也である事には更に驚き呆れた

 

26

浅海一男は貴重な嘘を支える支柱だった。だから、浅海を中国は抱え込んだ。

 

27

韓国に対し現在の貸付金残高が国家として貸し出し中の67兆5800億円(本来、1982年に完済予定

 

28

It is a popular page yesterday.

 

29

NY.Timesやワシントンポストなどは反日プロパガンダの工作下にあるといっても全く過言ではない

 

30

辻元清美や福島瑞穂は典型的な在日朝鮮人の反日思想です。

 

31

ノルウェー人はひたすら無知が過ぎ、同時に日本人への侮蔑が過ぎた。 

 

32

ハリウッドが中国資本に籠絡され出したという報道が伝えられた頃から殆ど観なくなった。

 

33

台湾人の人権を守るために弁護士として東奔西走する徳章が遭遇したのが、この228事件だったのである

 

34

数十兆円という人類史上最大のお金を援助という名目で日本からむしり取る事に成功し続けて来たわけだが

 

35

NHK、TBS、テレビ朝日の偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを完璧に明らかにしている。

 

36

「少数派である左翼系の弁護士が日弁連や単位弁護士会を事実上仕切っている」

 

37

その証拠に、韓流ブーム捏造と韓流ゴリ推しTVが、繰り広げられてきました。

 

38

日韓関係、石破茂らの綺麗事 なぜだろうか。秘密は、彼ら自民党有力議員たちの「韓国利権」にある。

 

39

筆者が住んでいた米首都ワシントンの海軍基地周辺では決してあり得ない光景が、そこには広がっていた。

 

40

この男は東北人の風上にも置けない、東北人の恥さらしの…本当の下種野郎である。

 

41

伊丹空港の騒音が問題だと大騒ぎし続けて国から超多額の騒音防止対策費をせしめていながら…、

8

 

42

ところが第二次安倍政権では有権者にそれが見抜かれ、しかもいくら世論操作しても負け続けている。

 

43

They urged Korean troops to release the truth

 

44

来日目的を虚偽申請し、保険料をまったく払ったことがないのに高額医療を安く受けているというケースも

 

45

大陸との交流であったが、その清の時代に運んだ銀の大半は薩摩・島津氏から下賜されたものだったのだ

 

46

「毒ガスではなかった」と訂正せず、「作戦の場所が違っていた」というはぐらかし訂正で逃げた。

 

47

反日無罪を唱えるためだけに存在している、おかしな新聞です。こういう誰もが嘘と分かる記事を書き、

 

48

中国では携帯電話が完全に盗聴され、私がどこにいるか、という情報も常時簡単に把握されています。

 

49

以下は今日の公式ハッシュタグランクイン記事一覧である。

 

50

二紙に沖縄県を支配させたままにしておく態様、これが民主主義の陥穽であり民主主義の脆弱性なのである

 

 


敗戦前まではまともにシナ人とは何かを理解できていたのに、信じがたい逆倒である。これほど日本人の対外観を狂わせ、痴呆化させるのに尽力した朝日だが、その背後には米国がいる

2019年05月18日 19時24分40秒 | 日記

以下は前章の続きである。
*私の言及に呼応して最寄りの書店に購読に向かった人たちは皆、この序章を読んだだけで、高山正之が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を強く再認識したはずである。
私が彼について言及して来た事の全てが正鵠を射ていると括目されただろう。*
例えば、朝日は、日露戦争百周年にあたり、明治の二度の戦争を「近代日本を朝鮮の植民地支配と中国侵略へと向かわせた転換点だった」と位置づけた。
同様に司馬遼太郎は「坂の上に上った日本は、その後下るだけだった」と日露戦争以後を批判したが、それは違う。
*NHKも又、この司馬遼太郎に与している事は読者はご存知の通り*
欧米列強との接触で自信を喪失し、戊辰戦争から西南戦争までの内戦で、明治維新を成してもなお迷走していた日本が、日清戦争で初めて民族として団結し、日露戦争で国家としてのアイデンティティを確立した。
日本人はロシア人に勝って、初めて自分たちの存在の意味を知った。だからこそ大東亜戦争で、日本人の一兵卒に至るまでが、アジアを白人の支配から解放しようと戦ったのだ。 
日本は己の経済的利得よりも、パリ講和会議で人種平等が一蹴されたこと、さらに米国が日本人移民を人種ゆえに締め出したことに庶民まで怒った。
昭和天皇もパリ会議での人種平等案問題が先の戦争の遠因と語られていたように、国民のすみずみまでその非道を知っていたからこそ、アイルランドを除くすべての国が日本に宣戦布告しても、ひるむことなく戦い抜いた。 
インパール作戦のような信じられない負け戦も、我々は使命に生きていると思えたからこそ、敢然と死地に赴いた。
もし明治維新の頃の日本人のままだったら、戦闘を放棄していただろう。 
一つの民族が一つの意志に団結していた戦前・戦中・戦後直後の国民意識を、実体験で知る渡部先生は、本書の第三章で繰り返し、当時の日本人の素朴な姿を証言している。 
犬死だったというのは賢(さか)しい後知恵で、日本は世界の白人種を相手にわたり合い、敗れた後は言い訳もせず、植民地解放にも恩着せがましいことは一切言わなかった。
思い出したのは、ペルーを追われたアルベルト・フジモリが、逮捕を承知で帰国した姿だ。
大統領に就任した頃のペルーは、毛沢東主義に従って一村一殺を実行し、略奪・誘拐を繰り返し、女を拉致して性奴隷にするテロ集団センデロ・ルミノソがのさばっていた。
そのテロ集団をわずか2年で退治して治安を取り戻したが、その過程で民間人が巻き添え被害を受けた。
裁判でフジモリは一切抗弁せず、部下の罪をすべてかぶって有罪判決を受けた。
戦前のままの日本人像をそこに見た。 
渡部先生の言うように、日本人は強い意識で戦争に臨んだ。
特攻隊も決して無理に作り上げられたものではなく、日本を守る強い思いの発露だった。
そういう視点を持たないように誘導したのが米国であり、朝日新聞だ。
無意味な戦争だったと、日本人が自尊心を持たないのがいいことのように洗脳し、一定の成功を収めてきた。
それが顕著に表れたのが、戦後日本の中国・韓国観の迷走だ。 
日本は明治の戦争で、シナ人の残忍さを身をもって知った。
宮崎滔天や頭山満が懸命にシナ人に人の道を教えたけれども、何も変わらず無駄に終わった。
福沢諭吉が支援して最後に匙を投げた朝鮮人の度し難さも同様だ。ところが戦後、親中路線の広岡知男に指揮された朝日が、マオイズムで持ち上げ、共産党独裁があたかも楽園であるかのように報じ、江戸期の儒者が「徳の国」と憧れていた対中観に戻ってしまった。
敗戦前まではまともにシナ人とは何かを理解できていたのに、信じがたい逆倒である。 
これほど日本人の対外観を狂わせ、痴呆化させるのに尽力した朝日だが、その背後には米国がいる。
渡部先生との世界史対談も、日本人が知らない米国の対日戦略について、多くの時間が割かれた。
この稿続く。


ところが戦後、親中路線の広岡知男に指揮された朝日が、マオイズムで持ち上げ、共産党独裁があたかも楽園であるかのように報じ、

2019年05月18日 19時23分23秒 | 日記

以下は前章の続きである。
*私の言及に呼応して最寄りの書店に購読に向かった人たちは皆、この序章を読んだだけで、高山正之が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を強く再認識したはずである。
私が彼について言及して来た事の全てが正鵠を射ていると括目されただろう。*
例えば、朝日は、日露戦争百周年にあたり、明治の二度の戦争を「近代日本を朝鮮の植民地支配と中国侵略へと向かわせた転換点だった」と位置づけた。
同様に司馬遼太郎は「坂の上に上った日本は、その後下るだけだった」と日露戦争以後を批判したが、それは違う。
*NHKも又、この司馬遼太郎に与している事は読者はご存知の通り*
欧米列強との接触で自信を喪失し、戊辰戦争から西南戦争までの内戦で、明治維新を成してもなお迷走していた日本が、日清戦争で初めて民族として団結し、日露戦争で国家としてのアイデンティティを確立した。
日本人はロシア人に勝って、初めて自分たちの存在の意味を知った。だからこそ大東亜戦争で、日本人の一兵卒に至るまでが、アジアを白人の支配から解放しようと戦ったのだ。 
日本は己の経済的利得よりも、パリ講和会議で人種平等が一蹴されたこと、さらに米国が日本人移民を人種ゆえに締め出したことに庶民まで怒った。
昭和天皇もパリ会議での人種平等案問題が先の戦争の遠因と語られていたように、国民のすみずみまでその非道を知っていたからこそ、アイルランドを除くすべての国が日本に宣戦布告しても、ひるむことなく戦い抜いた。 
インパール作戦のような信じられない負け戦も、我々は使命に生きていると思えたからこそ、敢然と死地に赴いた。
もし明治維新の頃の日本人のままだったら、戦闘を放棄していただろう。 
一つの民族が一つの意志に団結していた戦前・戦中・戦後直後の国民意識を、実体験で知る渡部先生は、本書の第三章で繰り返し、当時の日本人の素朴な姿を証言している。 
犬死だったというのは賢(さか)しい後知恵で、日本は世界の白人種を相手にわたり合い、敗れた後は言い訳もせず、植民地解放にも恩着せがましいことは一切言わなかった。
思い出したのは、ペルーを追われたアルベルト・フジモリが、逮捕を承知で帰国した姿だ。
大統領に就任した頃のペルーは、毛沢東主義に従って一村一殺を実行し、略奪・誘拐を繰り返し、女を拉致して性奴隷にするテロ集団センデロ・ルミノソがのさばっていた。
そのテロ集団をわずか2年で退治して治安を取り戻したが、その過程で民間人が巻き添え被害を受けた。
裁判でフジモリは一切抗弁せず、部下の罪をすべてかぶって有罪判決を受けた。
戦前のままの日本人像をそこに見た。 
渡部先生の言うように、日本人は強い意識で戦争に臨んだ。
特攻隊も決して無理に作り上げられたものではなく、日本を守る強い思いの発露だった。
そういう視点を持たないように誘導したのが米国であり、朝日新聞だ。
無意味な戦争だったと、日本人が自尊心を持たないのがいいことのように洗脳し、一定の成功を収めてきた。
それが顕著に表れたのが、戦後日本の中国・韓国観の迷走だ。 
日本は明治の戦争で、シナ人の残忍さを身をもって知った。
宮崎滔天や頭山満が懸命にシナ人に人の道を教えたけれども、何も変わらず無駄に終わった。
福沢諭吉が支援して最後に匙を投げた朝鮮人の度し難さも同様だ。ところが戦後、親中路線の広岡知男に指揮された朝日が、マオイズムで持ち上げ、共産党独裁があたかも楽園であるかのように報じ、江戸期の儒者が「徳の国」と憧れていた対中観に戻ってしまった。
敗戦前まではまともにシナ人とは何かを理解できていたのに、信じがたい逆倒である。 
これほど日本人の対外観を狂わせ、痴呆化させるのに尽力した朝日だが、その背後には米国がいる。
渡部先生との世界史対談も、日本人が知らない米国の対日戦略について、多くの時間が割かれた。
この稿続く。


宮崎滔天や頭山満が懸命にシナ人に人の道を教えたけれども、何も変わらず無駄に終わった。福沢諭吉が支援して最後に匙を投げた朝鮮人の度し難さも同様だ。

2019年05月18日 19時21分17秒 | 日記

以下は前章の続きである。
*私の言及に呼応して最寄りの書店に購読に向かった人たちは皆、この序章を読んだだけで、高山正之が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を強く再認識したはずである。
私が彼について言及して来た事の全てが正鵠を射ていると括目されただろう。*
例えば、朝日は、日露戦争百周年にあたり、明治の二度の戦争を「近代日本を朝鮮の植民地支配と中国侵略へと向かわせた転換点だった」と位置づけた。
同様に司馬遼太郎は「坂の上に上った日本は、その後下るだけだった」と日露戦争以後を批判したが、それは違う。
*NHKも又、この司馬遼太郎に与している事は読者はご存知の通り*
欧米列強との接触で自信を喪失し、戊辰戦争から西南戦争までの内戦で、明治維新を成してもなお迷走していた日本が、日清戦争で初めて民族として団結し、日露戦争で国家としてのアイデンティティを確立した。
日本人はロシア人に勝って、初めて自分たちの存在の意味を知った。だからこそ大東亜戦争で、日本人の一兵卒に至るまでが、アジアを白人の支配から解放しようと戦ったのだ。 
日本は己の経済的利得よりも、パリ講和会議で人種平等が一蹴されたこと、さらに米国が日本人移民を人種ゆえに締め出したことに庶民まで怒った。
昭和天皇もパリ会議での人種平等案問題が先の戦争の遠因と語られていたように、国民のすみずみまでその非道を知っていたからこそ、アイルランドを除くすべての国が日本に宣戦布告しても、ひるむことなく戦い抜いた。 
インパール作戦のような信じられない負け戦も、我々は使命に生きていると思えたからこそ、敢然と死地に赴いた。
もし明治維新の頃の日本人のままだったら、戦闘を放棄していただろう。 
一つの民族が一つの意志に団結していた戦前・戦中・戦後直後の国民意識を、実体験で知る渡部先生は、本書の第三章で繰り返し、当時の日本人の素朴な姿を証言している。 
犬死だったというのは賢(さか)しい後知恵で、日本は世界の白人種を相手にわたり合い、敗れた後は言い訳もせず、植民地解放にも恩着せがましいことは一切言わなかった。
思い出したのは、ペルーを追われたアルベルト・フジモリが、逮捕を承知で帰国した姿だ。
大統領に就任した頃のペルーは、毛沢東主義に従って一村一殺を実行し、略奪・誘拐を繰り返し、女を拉致して性奴隷にするテロ集団センデロ・ルミノソがのさばっていた。
そのテロ集団をわずか2年で退治して治安を取り戻したが、その過程で民間人が巻き添え被害を受けた。
裁判でフジモリは一切抗弁せず、部下の罪をすべてかぶって有罪判決を受けた。
戦前のままの日本人像をそこに見た。 
渡部先生の言うように、日本人は強い意識で戦争に臨んだ。
特攻隊も決して無理に作り上げられたものではなく、日本を守る強い思いの発露だった。
そういう視点を持たないように誘導したのが米国であり、朝日新聞だ。
無意味な戦争だったと、日本人が自尊心を持たないのがいいことのように洗脳し、一定の成功を収めてきた。
それが顕著に表れたのが、戦後日本の中国・韓国観の迷走だ。 
日本は明治の戦争で、シナ人の残忍さを身をもって知った。
宮崎滔天や頭山満が懸命にシナ人に人の道を教えたけれども、何も変わらず無駄に終わった。
福沢諭吉が支援して最後に匙を投げた朝鮮人の度し難さも同様だ。ところが戦後、親中路線の広岡知男に指揮された朝日が、マオイズムで持ち上げ、共産党独裁があたかも楽園であるかのように報じ、江戸期の儒者が「徳の国」と憧れていた対中観に戻ってしまった。
敗戦前まではまともにシナ人とは何かを理解できていたのに、信じがたい逆倒である。 
これほど日本人の対外観を狂わせ、痴呆化させるのに尽力した朝日だが、その背後には米国がいる。
渡部先生との世界史対談も、日本人が知らない米国の対日戦略について、多くの時間が割かれた。
この稿続く。


それが顕著に表れたのが、戦後日本の中国・韓国観の迷走だ。日本は明治の戦争で、シナ人の残忍さを身をもって知った。

2019年05月18日 19時19分16秒 | 日記

以下は前章の続きである。
*私の言及に呼応して最寄りの書店に購読に向かった人たちは皆、この序章を読んだだけで、高山正之が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を強く再認識したはずである。
私が彼について言及して来た事の全てが正鵠を射ていると括目されただろう。*
例えば、朝日は、日露戦争百周年にあたり、明治の二度の戦争を「近代日本を朝鮮の植民地支配と中国侵略へと向かわせた転換点だった」と位置づけた。
同様に司馬遼太郎は「坂の上に上った日本は、その後下るだけだった」と日露戦争以後を批判したが、それは違う。
*NHKも又、この司馬遼太郎に与している事は読者はご存知の通り*
欧米列強との接触で自信を喪失し、戊辰戦争から西南戦争までの内戦で、明治維新を成してもなお迷走していた日本が、日清戦争で初めて民族として団結し、日露戦争で国家としてのアイデンティティを確立した。
日本人はロシア人に勝って、初めて自分たちの存在の意味を知った。だからこそ大東亜戦争で、日本人の一兵卒に至るまでが、アジアを白人の支配から解放しようと戦ったのだ。 
日本は己の経済的利得よりも、パリ講和会議で人種平等が一蹴されたこと、さらに米国が日本人移民を人種ゆえに締め出したことに庶民まで怒った。
昭和天皇もパリ会議での人種平等案問題が先の戦争の遠因と語られていたように、国民のすみずみまでその非道を知っていたからこそ、アイルランドを除くすべての国が日本に宣戦布告しても、ひるむことなく戦い抜いた。 
インパール作戦のような信じられない負け戦も、我々は使命に生きていると思えたからこそ、敢然と死地に赴いた。
もし明治維新の頃の日本人のままだったら、戦闘を放棄していただろう。 
一つの民族が一つの意志に団結していた戦前・戦中・戦後直後の国民意識を、実体験で知る渡部先生は、本書の第三章で繰り返し、当時の日本人の素朴な姿を証言している。 
犬死だったというのは賢(さか)しい後知恵で、日本は世界の白人種を相手にわたり合い、敗れた後は言い訳もせず、植民地解放にも恩着せがましいことは一切言わなかった。
思い出したのは、ペルーを追われたアルベルト・フジモリが、逮捕を承知で帰国した姿だ。
大統領に就任した頃のペルーは、毛沢東主義に従って一村一殺を実行し、略奪・誘拐を繰り返し、女を拉致して性奴隷にするテロ集団センデロ・ルミノソがのさばっていた。
そのテロ集団をわずか2年で退治して治安を取り戻したが、その過程で民間人が巻き添え被害を受けた。
裁判でフジモリは一切抗弁せず、部下の罪をすべてかぶって有罪判決を受けた。
戦前のままの日本人像をそこに見た。 
渡部先生の言うように、日本人は強い意識で戦争に臨んだ。
特攻隊も決して無理に作り上げられたものではなく、日本を守る強い思いの発露だった。
そういう視点を持たないように誘導したのが米国であり、朝日新聞だ。
無意味な戦争だったと、日本人が自尊心を持たないのがいいことのように洗脳し、一定の成功を収めてきた。
それが顕著に表れたのが、戦後日本の中国・韓国観の迷走だ。 
日本は明治の戦争で、シナ人の残忍さを身をもって知った。
宮崎消天や頭山満が懸命にシナ人に人の道を教えたけれども、何も変わらず無駄に終わった。
福沢諭吉が支援して最後に匙を投げた朝鮮人の度し難さも同様だ。ところが戦後、親中路線の広岡知男に指揮された朝日が、マオイズムで持ち上げ、共産党独裁があたかも楽園であるかのように報じ、江戸期の儒者が「徳の国」と憧れていた対中観に戻ってしまった。
敗戦前まではまともにシナ人とは何かを理解できていたのに、信じがたい逆倒である。 
これほど日本人の対外観を狂わせ、痴呆化させるのに尽力した朝日だが、その背後には米国がいる。
渡部先生との世界史対談も、日本人が知らない米国の対日戦略について、多くの時間が割かれた。
この稿続く。


そういう視点を持たないように誘導したのが米国であり、朝日新聞だ。無意味な戦争だったと、日本人が自尊心を持たないのがいいことのように洗脳し、一定の成功を収めてきた

2019年05月18日 19時17分43秒 | 日記

以下は前章の続きである。
*私の言及に呼応して最寄りの書店に購読に向かった人たちは皆、この序章を読んだだけで、高山正之が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を強く再認識したはずである。
私が彼について言及して来た事の全てが正鵠を射ていると括目されただろう。*
例えば、朝日は、日露戦争百周年にあたり、明治の二度の戦争を「近代日本を朝鮮の植民地支配と中国侵略へと向かわせた転換点だった」と位置づけた。
同様に司馬遼太郎は「坂の上に上った日本は、その後下るだけだった」と日露戦争以後を批判したが、それは違う。
*NHKも又、この司馬遼太郎に与している事は読者はご存知の通り*
欧米列強との接触で自信を喪失し、戊辰戦争から西南戦争までの内戦で、明治維新を成してもなお迷走していた日本が、日清戦争で初めて民族として団結し、日露戦争で国家としてのアイデンティティを確立した。
日本人はロシア人に勝って、初めて自分たちの存在の意味を知った。だからこそ大東亜戦争で、日本人の一兵卒に至るまでが、アジアを白人の支配から解放しようと戦ったのだ。 
日本は己の経済的利得よりも、パリ講和会議で人種平等が一蹴されたこと、さらに米国が日本人移民を人種ゆえに締め出したことに庶民まで怒った。
昭和天皇もパリ会議での人種平等案問題が先の戦争の遠因と語られていたように、国民のすみずみまでその非道を知っていたからこそ、アイルランドを除くすべての国が日本に宣戦布告しても、ひるむことなく戦い抜いた。 
インパール作戦のような信じられない負け戦も、我々は使命に生きていると思えたからこそ、敢然と死地に赴いた。
もし明治維新の頃の日本人のままだったら、戦闘を放棄していただろう。 
一つの民族が一つの意志に団結していた戦前・戦中・戦後直後の国民意識を、実体験で知る渡部先生は、本書の第三章で繰り返し、当時の日本人の素朴な姿を証言している。 
犬死だったというのは賢(さか)しい後知恵で、日本は世界の白人種を相手にわたり合い、敗れた後は言い訳もせず、植民地解放にも恩着せがましいことは一切言わなかった。
思い出したのは、ペルーを追われたアルベルト・フジモリが、逮捕を承知で帰国した姿だ。
大統領に就任した頃のペルーは、毛沢東主義に従って一村一殺を実行し、略奪・誘拐を繰り返し、女を拉致して性奴隷にするテロ集団センデロ・ルミノソがのさばっていた。
そのテロ集団をわずか2年で退治して治安を取り戻したが、その過程で民間人が巻き添え被害を受けた。
裁判でフジモリは一切抗弁せず、部下の罪をすべてかぶって有罪判決を受けた。
戦前のままの日本人像をそこに見た。 
渡部先生の言うように、日本人は強い意識で戦争に臨んだ。
特攻隊も決して無理に作り上げられたものではなく、日本を守る強い思いの発露だった。
そういう視点を持たないように誘導したのが米国であり、朝日新聞だ。
無意味な戦争だったと、日本人が自尊心を持たないのがいいことのように洗脳し、一定の成功を収めてきた。
それが顕著に表れたのが、戦後日本の中国・韓国観の迷走だ。 
日本は明治の戦争で、シナ人の残忍さを身をもって知った。
宮崎消天や頭山満が懸命にシナ人に人の道を教えたけれども、何も変わらず無駄に終わった。
福沢諭吉が支援して最後に匙を投げた朝鮮人の度し難さも同様だ。ところが戦後、親中路線の広岡知男に指揮された朝日が、マオイズムで持ち上げ、共産党独裁があたかも楽園であるかのように報じ、江戸期の儒者が「徳の国」と憧れていた対中観に戻ってしまった。
敗戦前まではまともにシナ人とは何かを理解できていたのに、信じがたい逆倒である。 
これほど日本人の対外観を狂わせ、痴呆化させるのに尽力した朝日だが、その背後には米国がいる。
渡部先生との世界史対談も、日本人が知らない米国の対日戦略について、多くの時間が割かれた。
この稿続く。