野球は(多くのスポーツ競技がそうであるように)人類学としてみれば、血で血を争う戦争の代替ゲームです。ふたつの敵対する軍隊が各兵士、自らの生死を懸けて争う…というのが隠された本当の意味合い。
自国の基地(ホームベース)に立った戦闘兵(バッター)は、敵基地を征服しつつ、自国に生還(バックホーム)することを最終使命としています。バックホームしない限り、どこかでバッターは敵に殺されるのです。
では「敵バッターを殺す」とは、どういうことか。みなさまもご存知の通りです。
最後のDはご存じなかったかたも❔おられるでしょうか。ピッチャーひとりのみがバッターを殺せるのだ、と思っていましたか❔
ピッチャーが三振の山を築いても、ピッチャーだけでバッターを殺せません。なぜなら投球後、当然ボールは“自分の手を離れている”からです。《(元来の)野球》ではボールこそが明快な『殺意』の象徴であり、ボールを持たない兵士に敵は殺せません。ボールが直接捕球されたり、拾われた敵兵に触らされることで、兵士は息絶える✞のです。
盗塁が許されるのも「姑息なズル」ではなく、戦時下にあって敵が殺意を欠いた(ボールが兵の手を離れた)のですから、合法的に奇襲&進軍しただけであってズルではありません。失投などのエラーもそういうこと。よく、エラーというだけで「敵のミスに助けられた」なんて実況トークがありますが、走者にしてみたら助けられたんでもナンでもなく、敵の防備の失策を活かしただけ。兵士として立派な戦いぶりではありませんか。
同様に、敬遠策を「卑怯」と感じる?メンタリティもまったく筋違いです。強い敵兵を(冷静に)やり過ごせなくて、戦闘部隊に勝利はありません。打席で常に敬遠されるほど強いなら、その優等兵は走塁や守備の才能を磨くべきでしょう。
また、防備の失策は敵を利する、という戦時の常識から「振り逃げ」というルールも生じてきます。バッターはバットを振らなくても、四球じゃなくても、最後のとどめさえ刺され損なえば、敵地に討って出られます。これが、日本で俗に言う「振り逃げ」の真意です。3球目のストライクをキャッチャーが正規に捕球できなければ、三振した時点のバッターはまだ生きているとして「バッター・アウト」を宣告されることはありません。
さて。ここまで延々と野球のルールについて呟いた、それは日本の高校野球界で起きた「振り逃げで3ランホームラン」という椿事について感想を述べようと思ったからです。
このゲームのときもバッターは、ツーアウトの瀕死の場面で「ストライク・スリー」を宣告されながら、キャッチャーに殺されませんでした。敵キャッチャーはワンバウンドで問題のボールを受け取りながら、その球でバッターに触ることも1塁に送球することもせず❕❔、さらには、キャッチャーばかりか敵兵の全員が「三振したからスリーアウトだ」と思い込んでベンチに帰りはじめた^^;のです。
この様子を見たコーチ陣がいっせいに(三振のバッターを含む)走者に走塁の指示。あれよあれよと3人がホームに帰って“余裕の”スリーラン、という顛末になったのでした。最後のストライク球は捕手が確実に捕らないと、バッターをアウトに出来ない…これは野球の、さらには戦場の常識なのに。最終局面の詰めが甘いのは生存競争では致命傷なのに。それを試合中の監督、コーチ、選手の全員がやってしまった、という動画がYouTubeにも転載され、多くの(動画を観た)アメリカ人が呆れ、戸惑っています。
この打者ひとりだけがボンヤリしてて振り逃げ損なったなら、まだしも。加点した攻撃チームと実況アナウンサーを除いた「スタンドの観客を含む、その他ほとんどの大勢」が打者三振後の走塁に「ナンで?」な反応をしてることが「よほど異常に思える」ようで。ひょっとしたら日本野球のルールは“特殊”で、元祖アメリカのルールとは違うのォ?…みたいなコメントが湧き出てたり。。。
つくづく面白いな、と思うのですよ。この日米の「意識差」が。
戦闘態勢を意識レベルのルーツとしたスポーツでは、敵の首獲ってナンボです。これは理屈や知識以前の問題です。ナニがともあれ、とどめを刺す(=敵の戦闘能力を封じる)方法だけは忘れてはなりません。ところが日本人は、この野球規定を俗に「振り逃げ」と呼ぶのが一般化してしまうことからして、すでに言葉の理解が本質から(致命的に)ズレているように思われるのです。
つまり。
どうにもこりゃ「敵捕手が3球目のストライク球を正規に取り損ねたなら、三振でもアウトは免れ、一塁に走ってセーフになるチャンスを与えられる場合がある」…程度にしか捉えていない? フシがあるんですねー。実に卑屈というか、救われようもなく自虐的というか。だからこそ、「逃げる」なんて不用意キワマりない語彙が選ばれる。これは、取りも直さず打者=先制攻撃兵に対するあからさまな侮辱行為に他なりません。
ところがニッポン。顧みれば現国家体制において、自衛隊の先制攻撃を一切認めておりません。これでは、本ルールの適用尺度なり“本質的”習得がズレ(遅れ?)を来たすのも致し方ないと言いますか……言葉の上っ面では、違いますよ。体育教育の現場で「先攻、後攻」などとフツーに言いふらしつつ、です。ナンのこたァなぃ母国の為政者は「先攻はどんな理由があれ、許すまじき違法行為と承知しております!」みたいな自己抑圧セオリーを掲げ続けているんです。
オカしいでしょ❔❔❔
もちろん、スポーツ文化と政治倫理との相反性は、避け得ないことだってありますよ。本質をワカった上で、それをきちんと国民に説明し説得して!ですね。結果、大多数に(合理的なパラレル・スタンダードとして)理解を得て浸透させてるんなら、別にOK🎵 なんです。
でもニッポンはそうじゃない。
ナニからナニまで、無策な与党の長期政権下に染み渡った“成り行き”まかせ。多くの日本人がこの矛盾をスッキリとは消化できないでいて、(今で言うなら)いわゆる「星野バッシング」とか「キムチ(韓国チーム)に負けるなんて国辱モノ」とかの過激なネット論客❔に成り果てている実情も、少しは慮ってほしいですわ。
ついでに言うなら、ですね。その暗澹たるモヤモヤ段階を吹っ切った次元にいるのが、たとえばイチローですよ。
彼の高校野球時代の活躍ぶりを見てくださいな。あの若さで、『野球』の本質が何たるかを会得してる。二・三塁間に挟まれれば、自ら送球に当たる姿勢で敵三塁手を突き飛ばしてでも、とにかく自分が生き残るよう(直感的に)身体が動く ─── 。
繰り返しますが、野球という競技は熾烈な戦闘現場から武器を排除して演目競技に代えた、真剣で魅惑的な「戦争絵巻」です。規範となった戦闘現場を支配する冷徹な摂理、サバイバル技能のナンたるかを真に把握せずして、一流のプレイヤーを輩出しようとしたって無理。(究極的には)限界がある競技でしょう。
先ず文化から始めよ、という意味ではもう《日本の相撲界》の近況とて、こうなってしまった元凶は同じ理由からだ、と考えます。
自国の基地(ホームベース)に立った戦闘兵(バッター)は、敵基地を征服しつつ、自国に生還(バックホーム)することを最終使命としています。バックホームしない限り、どこかでバッターは敵に殺されるのです。
では「敵バッターを殺す」とは、どういうことか。みなさまもご存知の通りです。
A)打球を正規にキャッチする=バッターは即死。
B)即死させられなかったが、進もうとした基地(一塁)に先に打球を送りつける(味方が打球を持って塁を踏んでいる、など)。
C)即死させられなかったが、バッターが自ら打球を当てる。あるいは打球を持った守備兵がバッターに触球する。
D)バッテリーがバッターを4回刺し損じるより早く3回刺す(四球の前にストライクを3度、キャッチャーが捕球する)。
B)即死させられなかったが、進もうとした基地(一塁)に先に打球を送りつける(味方が打球を持って塁を踏んでいる、など)。
C)即死させられなかったが、バッターが自ら打球を当てる。あるいは打球を持った守備兵がバッターに触球する。
D)バッテリーがバッターを4回刺し損じるより早く3回刺す(四球の前にストライクを3度、キャッチャーが捕球する)。
最後のDはご存じなかったかたも❔おられるでしょうか。ピッチャーひとりのみがバッターを殺せるのだ、と思っていましたか❔
ピッチャーが三振の山を築いても、ピッチャーだけでバッターを殺せません。なぜなら投球後、当然ボールは“自分の手を離れている”からです。《(元来の)野球》ではボールこそが明快な『殺意』の象徴であり、ボールを持たない兵士に敵は殺せません。ボールが直接捕球されたり、拾われた敵兵に触らされることで、兵士は息絶える✞のです。
盗塁が許されるのも「姑息なズル」ではなく、戦時下にあって敵が殺意を欠いた(ボールが兵の手を離れた)のですから、合法的に奇襲&進軍しただけであってズルではありません。失投などのエラーもそういうこと。よく、エラーというだけで「敵のミスに助けられた」なんて実況トークがありますが、走者にしてみたら助けられたんでもナンでもなく、敵の防備の失策を活かしただけ。兵士として立派な戦いぶりではありませんか。
同様に、敬遠策を「卑怯」と感じる?メンタリティもまったく筋違いです。強い敵兵を(冷静に)やり過ごせなくて、戦闘部隊に勝利はありません。打席で常に敬遠されるほど強いなら、その優等兵は走塁や守備の才能を磨くべきでしょう。
また、防備の失策は敵を利する、という戦時の常識から「振り逃げ」というルールも生じてきます。バッターはバットを振らなくても、四球じゃなくても、最後のとどめさえ刺され損なえば、敵地に討って出られます。これが、日本で俗に言う「振り逃げ」の真意です。3球目のストライクをキャッチャーが正規に捕球できなければ、三振した時点のバッターはまだ生きているとして「バッター・アウト」を宣告されることはありません。
さて。ここまで延々と野球のルールについて呟いた、それは日本の高校野球界で起きた「振り逃げで3ランホームラン」という椿事について感想を述べようと思ったからです。
このゲームのときもバッターは、ツーアウトの瀕死の場面で「ストライク・スリー」を宣告されながら、キャッチャーに殺されませんでした。敵キャッチャーはワンバウンドで問題のボールを受け取りながら、その球でバッターに触ることも1塁に送球することもせず❕❔、さらには、キャッチャーばかりか敵兵の全員が「三振したからスリーアウトだ」と思い込んでベンチに帰りはじめた^^;のです。
この様子を見たコーチ陣がいっせいに(三振のバッターを含む)走者に走塁の指示。あれよあれよと3人がホームに帰って“余裕の”スリーラン、という顛末になったのでした。最後のストライク球は捕手が確実に捕らないと、バッターをアウトに出来ない…これは野球の、さらには戦場の常識なのに。最終局面の詰めが甘いのは生存競争では致命傷なのに。それを試合中の監督、コーチ、選手の全員がやってしまった、という動画がYouTubeにも転載され、多くの(動画を観た)アメリカ人が呆れ、戸惑っています。
この打者ひとりだけがボンヤリしてて振り逃げ損なったなら、まだしも。加点した攻撃チームと実況アナウンサーを除いた「スタンドの観客を含む、その他ほとんどの大勢」が打者三振後の走塁に「ナンで?」な反応をしてることが「よほど異常に思える」ようで。ひょっとしたら日本野球のルールは“特殊”で、元祖アメリカのルールとは違うのォ?…みたいなコメントが湧き出てたり。。。
つくづく面白いな、と思うのですよ。この日米の「意識差」が。
戦闘態勢を意識レベルのルーツとしたスポーツでは、敵の首獲ってナンボです。これは理屈や知識以前の問題です。ナニがともあれ、とどめを刺す(=敵の戦闘能力を封じる)方法だけは忘れてはなりません。ところが日本人は、この野球規定を俗に「振り逃げ」と呼ぶのが一般化してしまうことからして、すでに言葉の理解が本質から(致命的に)ズレているように思われるのです。
つまり。
どうにもこりゃ「敵捕手が3球目のストライク球を正規に取り損ねたなら、三振でもアウトは免れ、一塁に走ってセーフになるチャンスを与えられる場合がある」…程度にしか捉えていない? フシがあるんですねー。実に卑屈というか、救われようもなく自虐的というか。だからこそ、「逃げる」なんて不用意キワマりない語彙が選ばれる。これは、取りも直さず打者=先制攻撃兵に対するあからさまな侮辱行為に他なりません。
ところがニッポン。顧みれば現国家体制において、自衛隊の先制攻撃を一切認めておりません。これでは、本ルールの適用尺度なり“本質的”習得がズレ(遅れ?)を来たすのも致し方ないと言いますか……言葉の上っ面では、違いますよ。体育教育の現場で「先攻、後攻」などとフツーに言いふらしつつ、です。ナンのこたァなぃ母国の為政者は「先攻はどんな理由があれ、許すまじき違法行為と承知しております!」みたいな自己抑圧セオリーを掲げ続けているんです。
オカしいでしょ❔❔❔
もちろん、スポーツ文化と政治倫理との相反性は、避け得ないことだってありますよ。本質をワカった上で、それをきちんと国民に説明し説得して!ですね。結果、大多数に(合理的なパラレル・スタンダードとして)理解を得て浸透させてるんなら、別にOK🎵 なんです。
でもニッポンはそうじゃない。
ナニからナニまで、無策な与党の長期政権下に染み渡った“成り行き”まかせ。多くの日本人がこの矛盾をスッキリとは消化できないでいて、(今で言うなら)いわゆる「星野バッシング」とか「キムチ(韓国チーム)に負けるなんて国辱モノ」とかの過激なネット論客❔に成り果てている実情も、少しは慮ってほしいですわ。
ついでに言うなら、ですね。その暗澹たるモヤモヤ段階を吹っ切った次元にいるのが、たとえばイチローですよ。
彼の高校野球時代の活躍ぶりを見てくださいな。あの若さで、『野球』の本質が何たるかを会得してる。二・三塁間に挟まれれば、自ら送球に当たる姿勢で敵三塁手を突き飛ばしてでも、とにかく自分が生き残るよう(直感的に)身体が動く ─── 。
繰り返しますが、野球という競技は熾烈な戦闘現場から武器を排除して演目競技に代えた、真剣で魅惑的な「戦争絵巻」です。規範となった戦闘現場を支配する冷徹な摂理、サバイバル技能のナンたるかを真に把握せずして、一流のプレイヤーを輩出しようとしたって無理。(究極的には)限界がある競技でしょう。
先ず文化から始めよ、という意味ではもう《日本の相撲界》の近況とて、こうなってしまった元凶は同じ理由からだ、と考えます。