関心空域 ━━ す⊃ぽんはむの日記

元「関心空間」の日記(引っ越し後バージョン)です♪

〈夢は、「見る」モノではなかったの!?〉  こんな『悪夢からの目覚めかた』は、生れてはじめて味わったァア!!!

2016年01月18日 | 日記
さて、連チャンで日記を登録するのは たぶん10年ぶりですが^^; 前UPの日記で記したように、わたしはけさ4時ごろ、NHKラジオを聴いていました。

ナンでそんな早起きをしてたのか?というと、実は……『悪夢』にオドロいて飛び起きてしまったから、なのです。

その、「夢からの目覚めかた」が、いまだ経験したコトのない不思議な「目覚めかた」。 起きたあとも、自分でゾゾけだってしまい、睡魔も吹き飛んでしまった(!?)のでありました。

ざっと、経緯を説明しますと……

夢のなかで小生は、(大学とかにある)段差のある講義室らしき大部屋で、ナニかの勉強会を傾聴しておりました。

講師がプロジェクタ・スクリーンを見るように促し、その感想を求めて、わたしを指名した……そのとき!です。

わたしがスクリーンに目を上げると突如、視界いっぱいに(と言うより、両方の眼球に)「灰色で皺々の膜」が びったりコビりつき、まったく前方が見えなくなってしまったのです。

 (わ、眼が。 眼がっ!)

わたしは焦りまくりますが、何度 瞬きしても、見えるのは灰色の膜だけです。 顔を上下左右に振っても、膜の皺はピクリとも動きません。 これは視神経が切れるかナニかしたのだ、重篤な脳障害を来したのだ …と判断したわたしは、不審に思う周りの人や講師に、どう訴えたらいいのだろう。。。と言葉を探しますが(半ばパ二くってて)出てきません。

そうして悶え苦しむこと十数秒、わたしは夢から「覚めました」。

と言うか、わたしの身体が講義室から布団の上に「瞬間移動しました」。 わたしは就寝中であったコトに気づき、被ってた布団を剥いで、ゾッとしました。

目が見えなくなった恐怖から、ではありません。

わたしが見ていた(=灰色の皺々に見えてた)のが、あたまに被った布団の裏側だった!から、です。

ナンとわたしは、意識が夢のなかに「居た」のに、その眼で「現実の」布団が見えてしまいパニくってたのでした。 ぶっちゃけ、瞼をあけたまま眠ってたらしい^^;、のであります。 これ、夢遊病の一歩手前じゃんか。 夢と現実の区別が……!?

こえ~! こえ~よおおおお~う。

みなさん、こんな経験あります? 夢の世界から現実が視えたら、あっちの自分には「それが悪夢」と映るんですよお。 マジかよww



人は加齢とともに忘れやすくなる。自分の忘れっぽさを、呪いたくなる歯がゆさを背負って生き続ける自分なのですが…

2016年01月18日 | 日記
自分より倍近く生きているご長老は、また別の考えかたをするらしく……それが"長寿と健康"の触媒になるのかなあ、と思ったので書き留めます。

出典は今、この日記を打ってる時点でオンエア中の、NHKラジオ深夜便。曹洞宗永林寺、佐藤住職のお言葉からです。 平成の〈とんち和尚〉として高名なのだそうで。

で、その講釈の一節に出た話 ──。


 当用漢字には、同じ成り立ちで2語、登録されたモノがある。 「亡くす心」と書いて『忘』。 「心を亡くす」と書いて『忙』。

 この漢字でいう「心」は「真心、情け」の意味ではなく、「想い詰めること、心労」の意味である。

 「忘れること」も「忙しいこと」も、漢字にはネガティブな意味がない。「苦悩も吹き飛ぶ」というポジティブな意味である。

 よって、忘れたいなら忙しくしてろ、忙しいなら忘れろ。 この奥義を以て《動かざれば、道は開ける》。


…と。 以下、小生なりに消化してゆくと

働く人間にとって「忙しいなら忘れろ」というのは、いささか酷。 酷ですけど、実際世のなかで仕事をバリバリやって出世する人は、たいがい人並み外れて「忘れっぽい」人です。 だから部下が増えるほど、憶えるコトは下に任せて、上司本来の仕事に傾注し、業績を上げられる。

だから(今さら自分には手遅れ気味だけど)、忘れるコトを呪って記憶しようと足掻くと、泥沼にハマり、さらに苦悩と劣等感と疎外感に囚われる。
きょう、今からでも「忘れてもいい行動習慣」を構築して、記憶しようとするガンバりから脱却しなくてはイケない。

もっともダイレクトに効く脱却法が、忘備録の活用だ。 手帳、スマホ、ボイスレコーダー、ナンでもいい。 とにかく、「自分は記憶能力が無いのだ」と妄信し、どこへ行くにも外部に記録して生きる。 書いたコトを忘れる、という人がいるが、(現実、ケータイが手放せないように)忘備録を わが子のごとく手放さず、視界の中に入れておけばいい。 壁のカレンダーとか、タンスのなかの日記帳では、まずダメ!なのだ。 そして忘備録をこまめにチェックする。 半日前の話など見なくとも憶えている、という確信はキッパリ捨てる。 絶対ナニか、抜け落ちてるハズだ、と思って顧みる習慣をつける。

忘備録は、留めるために持ってるんじゃない。 常に再生する(見返す、読み返す)ために、盲導犬として付き添わせていると「心せよ」。

その行動習慣だけを「ひたすら」磨き、継続し、憶える努力は放棄する!! それだけで、ずいぶん人のアタマは(余計なワダカマリが除かれ)リラックスして「考える」ことに集中できるようになる。

そんなコト言って、オレの知ってる爺さんは部下もメモ習慣もなく、今でもバリバリ稼いで遊んでるぜ!?と言う人もいるかもしれない。

それは違う。 その手の中高年は一日に大勢の人と会い、しかもハンパない雑談量を消化する。 そうすることで欠落情報を補完し、周りの者を「忘備録がわり」に使っているのである。 人脈と儲けが、タマゴとニワトリの関係にあるのは そういうコトだ。 身近に雑談相手がいないなら、忘備録を相手に「雑談量」を肥やすしかない。

…という話なんでしょうなあ。 「道を開く」のにジタバタ、あたふた「動く」必要は無いが、「心を入れ替えて、外に留める」ことに精を出さないのなら、やっぱりストレスやトラウマに八方を塞がれ「道は開けない」のでありますw 50を遠く過ぎた自分の姿が、これが真理である紛れもない証拠じゃてww
 
と書いたこの日記も、まめに読み返すようにしましょう、てか。。。ちゃんちゃん!

人は加齢とともに忘れやすくなる。自分の忘れっぽさを、呪いたくなる歯がゆさを背負って生き続ける自分なのですが…の画像