すずりんの日記

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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑧

2005年09月09日 | 小説「ある男の物語」
 しかし、肝心の私はというと、和子に対して、何もしてやれずにいた。ただ、ベッドの横にいるだけだった。医者は、
「それが、何よりも大事なことなんですよ。奥さんにとっても、あなたにとっても、ね。」
と言った。たぶん、私が和子の意識が戻るのを願うことが、私の毎日のはりにもなっていたのだろう。
 初めの頃は、ただ和子の横に居て、自分自身も意識を失ったかのように、呆けたように何も考えられずにいたが、2ヶ月を過ぎた頃になると、私は、和子に、言葉を掛けられるようになっていた。そして、半年を過ぎると、看護婦に任せきりだった和子の世話を、全て任せてもらえるようになった。和子がいることで、私の心の傷は、完全に消えたようだった。
 

 今考えると、あの時ほど、私の人生が充実していた時はなかったかもしれない。仕方なく会社に行き、与えられた仕事を仕方なく処理し、他に行く所も無いから、仕方なく家に帰って来る、という、それまでの私には味わったことの無い感覚だった。今、自分が、自分にしかできないことをしているという気持ちと、あの和子が、今、私無しでは生きることさえできずに、私に助けを乞うている、という事実が、私に自信をつけさせたのだ。
 私はこの時、57歳だった。和子の意識が戻る前に、私が病気になって、和子の世話ができなくなることもあるだろう。世話ができなくなるどころか、事故や病気によって、突然死んでしまうことだって、あり得る。もし、そうなったとしたら、・・・いや、もしそうなっても、和子が1人で生き延びることはできはしないし、その方が、私にも和子にとっても、幸せであるのに違いは無かった。


(つづく)
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