おっちーの鉛筆カミカミ

演劇モノづくり大好きおっちーのブログです
いろいろ活動してます
そのうち、みなさんにお目にかかれたらうれしいです

ご無沙汰の挨拶に代えて

2012年11月03日 23時34分03秒 | 気づき
 何から書いていいのか分からない。けれど書く。
 人間関係とはいかなるものか。何をもって良好と言えるのか。
 何を、最も大事とすれば良いのか。
 私は、和を以って尊し、を信ずる。
 また、今が良ければ良いのか。長い目で見た、未来が良好、を目指すのか。
 会社では、上司の機嫌が良いことが、良好な状態と呼ぶものであるようである。そんなんでよいのか。
 もっと大きな視野で見て、「良好」を目指すべきではないのか。
 私は、この世界が秩序立って滑らかに流れることを、良いことだと考えてきた。
 その為には、この世界の「気」を感じること。それが大事なのではないかと思っている。
 そして、「気」を感じるためには、「自然体」でなくてはならないと考える。
 なるべく、意志の力に頼らない。無理をしない。「気持ち」に順じて、生きる。
 マニュアル人間、という者がいる。彼らは、言葉に従って、選択を、行う。彼らは、常に気持ちを無視して活動する。無視、というのは言い過ぎだが、気持ち、よりもマニュアルを重視することには間違いあるまい。
 マニュアル人間の恐ろしいところは、自分が正しい教えに沿って行動していると信じているところである。
 彼らは、その割には、肝心なところで感情に流される。そしてその行動の後ろ盾に、何か力のある名目を持ってくる。こんな理が、大事な理由があるのだから、自分の行動は最も正しい、とまったく迷いも恥ずかしげもなく主張するのである。
 私は最も正しい者は、力のない者に授けられると考える。力のある者には、嘘が生まれる。歪みが与えられる。だから、私は力を欲しない。私は力より、真実を欲求する。
 正しい事というのは、「幸せ」と言い替えてもよいのかも知れない。柔らかく、温かい気持ちを持ち続けられる状態が、私の幸せの定義である。
 正しい事というのは、争いを併発しない。どこまでも、冷静な話し合いによる和解の連続が、正しい関係であり、正しい空間、正しい社会だと、私は考える。
 私は、そのように生きたい。
 今日の迷いは、明日に生かしたい。その為に、この文章を書いた。別に誰に理解して欲しいとは思わない。私が、心地良く生きる為に、私は努力する。幸せとは何か、私は追究し続ける。それは、世界への答えになるかもしれないとも思う。歴史への答えになるかもしれない、とも考える。
 一人の人間が、たった一人の人間が、自分だけで答えを見つけられるとは思わない。けれど、それならば勉強をすればよい。本を読めばよい。沢山の人格に触れればよい。経験が財産である。これからも、濃密な経験を積み重ねて、私は自分を積み重ね、自分の枠を拡げてゆきたい。しつこいようだがそれは、私自身の幸せの為である。その為に、私は努力を続ける。

決意の朝に

2009年12月13日 02時47分04秒 | 気づき
 今日は僕がSOHOのバイトでお世話になっているスペシャルカラーズという劇場の、スタッフ業務をこなしてきました。
 夜11時過ぎまでの仕事で、しかも電車が遅れて、そっから家に帰り風呂に入ったあとこの記事を書いているので、この時間の更新になっています。

 今日、少し生き方を変えるきっかけに出会いました。
 それはたぶん、今付き合っている彼女と無関係ではなく、というよりやっぱりむしろ、彼女と生きていく為に、僕は新しい生き方に気付いたんだと思います。

 僕は今まで、誰の目から見ても幸せに見えるような生き方を求めていたんじゃないかと思います。
 その例として、僕が真っ先に思い浮かべるのは、唐沢寿明・山口智子夫妻。
 あんな感じの誰も文句の付けどころのない、人生のひとつの形を、僕は目指してきたんじゃないかと思うのです。(まああのお二人には、なぜかお子さんがいなくて、そこだけがなんとも言いようのない不安感があるんですけれどもね)

 僕は、そういう生き方をすれば、周りにいい影響が出るんじゃないかと思ったんですよ。
 僕は昔っからそうだった。
 「特別」な存在になりたかったんです。
 幸せになるにしても、ただ幸せなだけじゃ納得できない。
 周りの人も巻き込んで、全員を幸せに出来るような生き方を、僕はしたかったんです。

 それは不遜な考えでしょう。
 ひとりの人間の身には余る思想ではないかと思います。
 それでも、そうなりたいと思いながら生きていれば、生き方のベクトルが、他の人たちにもいい影響を与えて、みんなで幸せになれるんじゃないかと、思ったわけなんです。

 そんな生き方にある種の自信を持ち始めていた時、僕に恋人ができました。
 彼女はいろんな悩みを抱えて生きています。
 そんな彼女を僕は幸せにしたい。
 今日彼女の好きなアクア・タイムズ(綴りがわからん~)の『決意の朝に』を帰りの電車で聴きながら、僕はずっと彼女のことを考えていました。
 彼女は今、体調が悪いらしい。
 それは、僕と遊び過ぎて疲れて、それでも彼女が自分のやらなきゃならない勉強もこなそうとして、無理が出て体調が悪くなったんじゃないかと、僕はとらえています。
 そうか、彼女は、僕と遊んで疲れるんだな、と。
 正直な話、僕も彼女と話すと疲れるし、そっから元の調子に戻るまでは少し努力が要ります。
 これは、僕たちの付き合い方に問題があるんじゃないかと思ったんです。
 もっと言うと、僕が、パートナー・恋人というものに対して持っている固定観念みたいなものが、僕達が付き合うときに、何かしらの影響を及ぼしているんじゃないかと思ったのです。

 だから僕は、その固定観念を捨てようと思いました。
 それはこれまで持ってきたポリシーを捨てる、と同義です。
 どっから見ても優良な付き合いは、もう要らん。
 もし誰かが僕らを見て、眉をひそめるようなことがあっても、僕らが幸せなら、健康なら、それがいいんです。

 僕は今までいろんな判断を、比較的ゆっくりとおこなってきました。
 それはいつも、いろんなバランスを考えて、最良の判断を行動に移したいと思っているからです。
 これからはもっと、それを反射的に行うようになるのではないかと思っています。
 そうすると、今までよりいろんなことができるでしょう。
 そして、今までよりも自己中心的な考えで、行動する事になるでしょう。
 それが、今日入ったスイッチの結果のひとつです。
 シフトした生き方の、答えの、ある一面です。
 そうすれば、彼女ともう一レベル、近付くんじゃないかな。
 そして、彼女が僕と一緒にいる時、気を使わなくて済むようになるんじゃないかな。
 だから僕はそのスイッチを今日押しました。自然に。いつの間にか。
 彼女の事を心底想ったから。

 いろんなことができるようになると、生活の回転が速くなります。
 すると、人間ですから、疲れます。
 そういう時は、いつだったか、ぎんなんさんが忠告してくださったことを思い起こします。
「疲れたら、休む」
 僕の中では、あの時のぎんなんさんのコメントは、こういった形で、心に刻み付いていますよ。
 休めば、また復活します。それもそれこそ、人間ですから。

 青臭い夢は消えていきますけど、もしかしたら、それは昔抱いていた夢と今の自分が同じものになっている、ということなのかもしれませんね。
 人間に成るって、そういうことなのかも。

 幸せって、見るもんじゃない、成るもんなんだ。


   *  *  *


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ヲタクにモノ申す!(3)

2009年02月09日 22時00分12秒 | 気づき
 『ヲタクにモノ申す!』3回目、たぶんこれが最終回になります。
 続きです。

 僕は結局何が言いたいのか。
 それは人が生きる生き方についてです。

 人は誰しも、自分以外の人間と、距離をもって接します。
 距離が近過ぎても、遠過ぎても、なんらかのトラブルの種になります。

 そして僕は思います。
「人は何をもって相手の姿を見ているのか」
 本質を見極めているのか。

 人は言葉によってコミュニケーションをとります。
 言葉は人間にとって、非常に優秀な機能を持ったコミュニケーションツールとなりました。

 しかし人はここで過ちを犯そうとしている。

言葉は万能じゃないんです

 人は今、言葉によって、表面に現れた形によって、全ての判断を為そうとしている。
 テレビやマスコミなんていい例です。
 そしてそれに踊らされている大衆も。

 もちろん全てがそうだとは言いません。
 けれども、今目に入ってくる情報は、そういった色に埋め尽くされようとしている。
 そういう大衆の作った『法』によって力の有る無しが決められている。

 本当にそうでしょうか。
 大切なものって、そこにあるんでしょうか。


 自分にしか分からないことがある。感じられないことがある。
 それを分かってくれる人がいる。
 それが仲間である。

 ヲタクの始まりは、本質は、そこだったのではないかと考えます。
 そこにいるこいつらは、仲間だ。
 世間のわけ分からない奴等とは違う。自分の知る、同じ痛みと喜びを知っている。


 ではなぜヲタクと呼ばれる人間は、一時期偏見の目で見られたのか。

 それは彼らが、『世間のわけ分からない奴等』を「排した」からです。

 彼らが、「真摯に向き合う」ことを面倒に思ったからです。


 それじゃあ、「真摯に向き合う」なんて大仰なこと言うけれど、それはどうやったらできるの?

 そうヒトは思うでしょう。

 人間は矛盾をはらんだ生き物です。
 言葉にすると大変そうな、大真面目に考え抜いて、大変な努力を強いられなきゃ実現できないように思えること。
 そんなことを成し遂げるのは、いつだって小さなひとつの行動なんです。
 言ってしまえばほんの些細な、大した事ない行動が、確かに何かを変えるんです。

 例えば、

 朝起きた時の挨拶の仕方を変えてみた。
 返事の仕方をいつもと変えた。
 「ありがとう」を言う時の顔の表情を気にしてみた。
 料理を作ってみた。

 いつもと 違う感じの本を読んだ。
 映画を観た。
 写真を見た。
 絵を見た。
 いつもは気にも留めない、小さな物を心に留めた。

 いろんな何かを、いつもとは違う『意志』で『信念』で、やってみた。

 そう、日常に『意志』と『信念』の力を、ほんのちびっとすべり込ませた。
 実は、本気で思うだけでも、少しずつ変わってくるんだと思います。


 それだけで、確かに何かが、いや、主観としては全てが変わるんだと思います。
 分からないのは、変わってしまった後だからです。
 未来は、思ったらすぐに変質して予想もつかない今になるんだと思います。


 人は、目に見えないし分からないけど、全てをとらえて、受け止めているんだと思います。
 それが発揮されないのは、変わろうと思わないから。諦めてしまっているからです。

 少しだけでいい。少しずつでいい。
 変わってみませんか。

 これは、自分への手紙でもあります。

ヲタクにモノ申す!(2)

2009年02月09日 02時18分02秒 | 気づき
 さて、ようやく続きであります。

 そもそも、どうして僕がこんな内容の記事を書こうと考えたのか?
 そのことについて少し。

 僕は、『ブックマーク』にも入ってますが声優の国府田マリ子さんのファンです。(以前は林原めぐみさんのファンとも言った憶えがありますが、気持ちの内容は違いますが僕はどちらのファンでもあります)
 昨年ファンクラブにも入りました。毎日彼女のブログも覗いています。

 そのことをまず前提として憶えておいていただいて、また別の話になります。

 今YouTubeを検索してきました。
 何を捜していたのか?
 僕がこの前の記事、『ヲタクにモノ申す(1)』を書く直前に見つけた音声ファイルをもう一度聞いておきたいと思い、それを検索していたのです。
 それはどんな内容のものだったかというと、とあるラジオの男性ナビゲーター(ごめんなさい、名前忘れてしまった……)が、今のいわゆる「声優アイドル」たちがそれぞれ持っているラジオ番組に対する、彼女たちの「取り組み方」というか、「心構え?」みたいなものに意見している、という内容でした。
 それを今までずっと捜していたのですが、見つからないのです。
 もうネット上から削除されてしまったのかもしれない。
 僕のように、聴いた方々からの反響(クレーム)があったのかもしれません。

 そういうわけで、この記事を書く前に出発点であったその音声を確認しておこうという目論見は、崩れました。
 これからは、仕方なく記憶だけを頼りにこの記事を書こうと思います。

 その男性ラジオナビゲーターの意見はこういったものです(あくまで僕の受け取り方に過ぎませんが)。

「林原めぐみや、国府田マリ子、小森まなみといった声優たちがラジオ番組を持っているが、彼女たちが、吹き替えの、アニメ声のままでラジオの番組を進行していることに、自分は嫌悪感を持つ」

 まあこれは、個人の好みであるし、この男性はラジオのパーソナリティーとして活躍されている方なわけで、この職業に対する考え方も深く強いものがあると推察されます。
 だから、理解できるのです。
 彼女たちは本当にアニメの声のままでパーソナリティー業を行っているのか?という点については少し問題が残るとは思いますが。
 まあそれは個人の見方、感じ方です。
 これはよいとしましょう。
 僕が興味を持ったのは、彼がその後ぼそっと述べた言葉でした。

「彼らは、人生の、一部分しか見ようとしない」

 こんなことをおっしゃったのです。

 ごめんなさい、先に謝っておきます。
 この言葉は彼が述べた言葉を正確に写したものではありません。
 正確なものとして再確認する為に僕は冒頭の通り1度聞いたこの音声ファイルをネット上で捜し回りました。もう1度聞きたかったのです。
 しかしそれは見つかりませんでした。
 だから、語弊がある可能性があります。
 僕はこれ以降の文章で、彼が何を言いたかったのか、それを考察していきます。
 しかしそれはあくまで僕なりのものです。
 僕が彼の言葉から受け取った感覚を、僕なりに消化した結果をここに記します。
 そういった今回の僕の文章に対する理解を、筆者から読者の皆さまに、よろしくお願いいたします。

 さて、
「人間が生きる上での一部分しか見ようとしない」
 そんなことを彼はチラリと漏らしたわけなんですが、このことに関して、みなさんはどうお考えですか?
「人が、自分の人生を生きる間、見たくないものからは目を逸らして、生活する」
 もしくは、
「楽しいことしか、見ない」
 こういった生き方をする人々、確かに存在するといわれています。
 特に彼の言い方からは、いわゆる(やっとここで出てきた!)『ヲタク』、と呼ばれる方々にそういった人間が多い、ということが感じ取れる。
 そして、彼以外にもそんな捉え方をされている方は数多く存在すると、僕は考えます。

 しかし、そんな生き方って本当に可能でしょうか。そう僕は思いました。

 嫌なことに目をつむる。
 そんな経験は、多かれ少なかれ人間にはあることでしょう。
 苦しい経験過ぎて、とても直視できない。
 それも同じです。
 しかし、僕らはその時、本当に嫌なことから逃げているのか。

『嫌なことの本質を理解することを、さぼっている』

 そんな言い方がいちばん妥当であるかもしれません。
 そう思います。
 僕らは時どき、「真摯に向き合う」ことを面倒に思うところがあります。
 なににってあらゆることに。

 向き合うことを面倒がってしないでいるとどうなるか。
 いつか、また同質の壁にぶち当たることになります。
 同じ道をぐるぐる回って先に進めないということがあります。
 そうなります。

 別にそんな生き方も悪くないと思うんです。
 誰も責められない種類の事だと思うんです。

 人は苦しみを背負って生きてゆきます。
 別にそのことに酔っているわけでもなく、それは事実です。
 ただし同じように喜びや、幸せも、同じように背負って生きてるのだと思います。
 どれが重いということはない。それらは本来同じ重さなのです。
 しかし人によって、それぞれの重さを全く感じなかったり、逆にその重さに潰れてしまいそうになる方もいる。
 これは何故なんでしょうか。
 もって生まれた性分なのでしょうか。

 話が逸れました。戻します。

   *  *  *

 ……と、いうところで話が長くなってきたので以降は次回に持ち越し~
 とします。

 ではでは。

ヲタクにモノ申す!(1)

2009年01月27日 01時39分24秒 | 気づき

 『モノ申す!』なんて言っちゃいましたが、僕もヲタクに足を突っ込んでいる男であります。

 アニメは小さな頃から大好きでした。
 小学校低学年の頃から『コロコロコミック』の愛読者で、特に藤子不二雄先生の漫画が大好きでした。

 僕の小学生時代は、藤子アニメ全盛期でしたね。
 午後6時50分から7時まで、毎日『ドラえもん』『パーマン』『ハットリくん』『オバケのQ太郎』がやっていて、月曜日の夜は『藤子不二雄ランド』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『21エモン』なんかが放送される。
 さらに火曜の夜は『忍者ハットリくん』、金曜の夜は『ドラえもん』、日曜の朝は『パーマン』がやっていた。
 同じ作者の作品がこんなに毎日放送されるってのは今では考えられないことです。

 そして僕は、それに毎日心ときめかせていた。
 それくらい面白かったんですよ。クオリティ高かったのです。

 それはそれとして、ジャンプ系のアニメも観てました。
 やっぱり『キン肉マン』は日曜の朝、欠かさず観ていた。
 あと忘れてたけど忘れちゃならないのが、『ウィングマン』。これ好きだったんですよ~。少しエッチで。でもどことなく切ないの。
 『ウィングマン』を読む為に週間少年ジャンプを買い始めましたから。
 それから『キャプテン翼』も忘れたくないですね。

 うちは週間少年マガジンを父親が買ってくるという習慣がありまして、僕も読んでました。
 だから小学生の頃の構図は、【父:マガジン 僕:ジャンプ】でした。

 マガジンでは、他にも好きな漫画はたくさんあったんですが、いちばん憶えているのは『ミスター味っ子』
 あの味皇さまの巨大化!ド派手で過剰な演出!
 どれをとっても子供心を捉え続ける見事なアイデアと気合の勝利でした。

 それからずっとテレビでアニメは観ていたのですが、マガジンで連載されていたことを最後の方になるまで知らなかった漫画がありました。
 それは『コンポラキッド』。いまだに主題歌も歌えます。

 それから、中学生になるにつれて、僕はテレビでアニメを見ることが出来なくなっていきます。
 母方の祖母がうちで一緒に生活することになったのです。
 祖母は大の野球好きで、ジャイアンツファン。
 だからナイター中継のある時間は、テレビはそれに独占されるのです。

 なので僕はドラゴンボールをアニメで観たことが、最近までありませんでした。
 そういえば『北斗の拳』は、母が観るなって言って見せてもらえなかったなあ。

 あれ? 本当はヲタクとは如何に、ということを語るはずだったのですが、ただ思い出を語るだけになってしまった(汗。

 次回はもうちょっと突っ込んだ話をしたいと思います。
 それでは、あでゅー


YUIさんの影響で

2008年12月14日 03時39分57秒 | 気づき

 今も観ながら書いているんですが、最近YUIさんのライブビデオをよく観ます。

 彼女はアコースティックギターを抱えて、路上ライブをやります。
 その映像も、よく観ます。

 それをじーっと眺めているうちに、「あー、アコースティックギターを弾いてみたいな」という思いが湧いて出てきます。

 今回収入が入って、デジカメを買ったわけなんですが、今度の収入が入ったら、アコギ買ってみようかな

 我が家は父の家系が音楽関係が多いって、お伝えしたことあったでしょうか。
 祖母は国立劇場でも演奏していた三味線のおっしょさん。
 伯父はプロのギタリストです。ウクレレやベースの演奏もできて、あのTUBEのライブのバックでも演奏したことがあります。

 そういうわけで、おじさんの部屋にアコギ余ってないだろうか
 なんて甘い考えが。

 まーいーや、自分で選んで買いたいかも。
 今調べたら、安いのだったら2~5万円台であるらしい。
 ちょっと奮発しちゃおうかな。

 なんか夢が膨らみます。


今日は、今日ぼんやりと思ったこと、決心したことを、まとめるためにこの記事を書きます。

2008年03月06日 23時41分04秒 | 気づき
 さて、僕は今まで、そのとき目の前にいる方々の気持ちを、自分の行動で傷つけたり、気分悪くなったりすることのないよう。
 そのことを第一に人と接してきました。

 僕は最近、なぎさひふみさんに薦められた『四つの約束』という本を読み返しています。
 その中にでてくる一つ目の約束。

 正しい言葉を使うこと

 というものがあります。
 その観点から考えて、僕のこういう人との接し方って、如何なものかなーと考えてしまいました。
 僕って、その人の言ってること間違ってるな、と思っても、気分を悪くさせてしまうのが嫌だから、なにもその事については触れないんですよね。
 それってどうかなーと思っています。

 それってある意味、人と本気で接していないのでは?
 なんてことも考えます。
 逃げているのでは?
 とも思います。

 他人の気分を害させてはいけない。

 それはそうなのかもしれませんが、何かを一緒にやる仲間とは、同じ空気を吸う者同士では、もう一歩踏み込んでいいのではないかという気持ちになってきました。
 あー、でも仕事場はダメですよ。仕事場の人間関係は距離をとらないとうまくいかないと思います。
 だけど思いましたが、仕事場でも、本当に一緒に一つの仕事をやっていかなければならない、密な関係を構築しなければいけない、という必要があった場合は、これも当てはまるのかもしれない。

 そろそろ相手に本音を言いながら、付き合っていく術も覚えるべきなのかもしれません。
 もしかその言葉で相手が気分を多少害するように思えても、それはなすべきことなのかもしれませんね。
 だってホンネ腹に抱えて言いたいことも言えずにやってったら辛いじゃないですか。
 ただの感情論ではなく、理由のある意見なら、相手だって聞いてくれると思います。
 ポイントは伝え方(言い方)とタイミングでしょう。

 自分はこう思っている、これこれこういう信念をもっている。
 なら、それを表現することは悪いことではないのではないでしょうか。
 言葉の端々に、会話のあちらこちらに、それが垣間見える関係というのも?
 面白いのでは。

 そうして表現する「個」を尊重しあうというのはきっと、悪くない関係ですよね?

 僕っていろんな信念を持ってますけど、それを表現することは「突き進むこと」しかないと考えていたんですよ。
 どう? こういうの、どう?
 て周りに見せて、人を変えられないか、とずっと思っていました。
 特に大学生時代の後半はずっとそんなんでした。そのやり方で後輩を育てました。大体それなりに成功しましたけど、最初の頃は失敗もあった。僕がまだ知識も力もなかったから。
 でも今、この文章で言っていることは、ひとと「議論」することも必要だな、と。
「俺はこう思うよ、お前はどうよ?」
 そのくり返しで、見えてくるものも、生み出せるものも、互いの成長も、あるのではないか?

 要は自己主張、自己表現のしかたに関する、「気づき」でした。

 『嫌われることを恐れるな!』



 最近ちょっとお休み期間に入ってまーす。
 あんまり皆さんのブログとかにコメント入れていないでしょ。
 すみません、今ちょっと力を貯め込みたい時期なのです。
 とりあえず今度の文章塾が開講するまで、こんな感じで続きます。

 よろしうです。

 ではでは。