俺はこんなもんじゃない!そう叫んだ。
その声は、冷たく堅牢なコンクリートの壁に吸い込まれ、消えていった。
止め処なく流れる涙が、頬を伝っている。温かかった。自分の中にある熱を、感じていた。こんなに熱いのに、心の温度は冷め切っていた。もう、あの頃には戻れないのか。
夢の中で生きているような、彼のこれまでの人生だった。友達に恵まれ、お金にも不自由なく、奔放な恋に生き、才能にも恵まれ。こんな順風満帆な人生がこれからも続くと、漠然と思っていた。
しかしそれは、青春時代にだけ感じることの出来る、情熱の成果だった。彼の目には、色とりどりの鮮やかな風景が映っていた。しかしそれすらも、青春の賜物だった。本当の世界は、コンクリートのように色彩が無く、冷たく、そして硬い性質のものであった。
それを知った途端に、彼の人生は険しいものになった。四方をコンクリートの壁に囲まれ、そこを抜け出せと言われた。壁を破壊することを諦め、彼は壁を登り、越えようとした。しかし、頭上を仰ぎ見ても、コンクリートの果ては見えない。壁の灰色が、視界の上空をも支配していた。彼の耳に、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「好きです」
そう言われた。青春の絶頂期だった。その女の骸が、傍らに横たわっていた。彼は再び涙した。今度の涙に、温度は無かった。温かくもなく、冷たくもなく。ただ長い間、彼の頬を流れては落ちた。
もう、希望も何も無い。
彼はただ佇んでいた。自分が立っていることにも意味のないことに気付き、その場に座り込んだ。生きることだけが、彼に与えられた唯一つの自由だった。しかし死ぬ自由は与えられていない。
悠子が目の前にいた。
「もうこんな場所にいることないよ。何いつまでも、ぼおっとしているの?」
笑顔で彼に言った。自然と彼の顔にも、笑みが浮かんだ。
「今まで何してたんだよ?」
「あなたが私に気付くのを、待っていたのよ」
「そうか。気付かなくてごめんな」
「いいの。あなたを待つ時間は、あなたに出会う前の忙しい時間よりも、ずっと楽しかったわ」
「そうかあ」
彼は嬉しかった。こんな自分を気にしてくれる人がいた。自然、手のひらを彼女の背中に添えた。
「じゃあ行こうか」
「どこへ行くの?」
悠子は彼の顔を、下から覗き込んだ。
いつの間にか、コンクリートの壁は消えていた。周りには、果てのない草原が広がっていた。
「これはこれで、不安だな」
「あなたの言っている事の意味が分からないよ」
彼は彼女に笑いかけると、背中に添えていた手のひらで、彼女の背中をトン、と叩いた。
「あっちへ行こうか。今、陽が昇っている方向へ。日のいずる國へ」
「わかったわ」
勿論、不安が無い訳ではない。しかし二人は歩き始めた。日のいずる方へ。
そこで何が待っているかは分からない。辿り着けるかもわからない。けれども歩くことが正しく生きる道だと、これまでの自分の人生が教えてくれている。
急に、視界が真っ暗になった。その直前で、彼女の悲鳴が聞こえた気がした。何が起こったのか分からない。
「……突然、ライオンが草むらから飛び出してきて、彼を飲み込んでしまったんです」
彼女はそう言った。思い出すのも悍ましいのだろう。彼女は悲痛な表情(かお)をしていた。私はすぐに、こんな質問をしてしまった事を後悔した。
「でも……」
私は声を絞り出すようにして言葉を続けた。
「人生って、そういうものなのかも知れないね」
「そう……かも知れません」
また私は、自分の発した言葉に後悔した。彼女の頬を、涙が伝い落ちていた。それは、とてもとても永い間続いた。
彼は目を覚ました。隣に悠子はいない。ただ彼の視界には、冷たい地面と、冷たいコンクリートの壁があった。
あれは夢だったのか。彼は温度の無いその空間の中にいた。
ただ絶望だけが、それを彼にとって当たり前の感情のようにして、身体を満たしていた。
それでも生きなければならないのか。彼を見詰めながら、私はそんな感情に浸されていた。
その声は、冷たく堅牢なコンクリートの壁に吸い込まれ、消えていった。
止め処なく流れる涙が、頬を伝っている。温かかった。自分の中にある熱を、感じていた。こんなに熱いのに、心の温度は冷め切っていた。もう、あの頃には戻れないのか。
夢の中で生きているような、彼のこれまでの人生だった。友達に恵まれ、お金にも不自由なく、奔放な恋に生き、才能にも恵まれ。こんな順風満帆な人生がこれからも続くと、漠然と思っていた。
しかしそれは、青春時代にだけ感じることの出来る、情熱の成果だった。彼の目には、色とりどりの鮮やかな風景が映っていた。しかしそれすらも、青春の賜物だった。本当の世界は、コンクリートのように色彩が無く、冷たく、そして硬い性質のものであった。
それを知った途端に、彼の人生は険しいものになった。四方をコンクリートの壁に囲まれ、そこを抜け出せと言われた。壁を破壊することを諦め、彼は壁を登り、越えようとした。しかし、頭上を仰ぎ見ても、コンクリートの果ては見えない。壁の灰色が、視界の上空をも支配していた。彼の耳に、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「好きです」
そう言われた。青春の絶頂期だった。その女の骸が、傍らに横たわっていた。彼は再び涙した。今度の涙に、温度は無かった。温かくもなく、冷たくもなく。ただ長い間、彼の頬を流れては落ちた。
もう、希望も何も無い。
彼はただ佇んでいた。自分が立っていることにも意味のないことに気付き、その場に座り込んだ。生きることだけが、彼に与えられた唯一つの自由だった。しかし死ぬ自由は与えられていない。
悠子が目の前にいた。
「もうこんな場所にいることないよ。何いつまでも、ぼおっとしているの?」
笑顔で彼に言った。自然と彼の顔にも、笑みが浮かんだ。
「今まで何してたんだよ?」
「あなたが私に気付くのを、待っていたのよ」
「そうか。気付かなくてごめんな」
「いいの。あなたを待つ時間は、あなたに出会う前の忙しい時間よりも、ずっと楽しかったわ」
「そうかあ」
彼は嬉しかった。こんな自分を気にしてくれる人がいた。自然、手のひらを彼女の背中に添えた。
「じゃあ行こうか」
「どこへ行くの?」
悠子は彼の顔を、下から覗き込んだ。
いつの間にか、コンクリートの壁は消えていた。周りには、果てのない草原が広がっていた。
「これはこれで、不安だな」
「あなたの言っている事の意味が分からないよ」
彼は彼女に笑いかけると、背中に添えていた手のひらで、彼女の背中をトン、と叩いた。
「あっちへ行こうか。今、陽が昇っている方向へ。日のいずる國へ」
「わかったわ」
勿論、不安が無い訳ではない。しかし二人は歩き始めた。日のいずる方へ。
そこで何が待っているかは分からない。辿り着けるかもわからない。けれども歩くことが正しく生きる道だと、これまでの自分の人生が教えてくれている。
急に、視界が真っ暗になった。その直前で、彼女の悲鳴が聞こえた気がした。何が起こったのか分からない。
「……突然、ライオンが草むらから飛び出してきて、彼を飲み込んでしまったんです」
彼女はそう言った。思い出すのも悍ましいのだろう。彼女は悲痛な表情(かお)をしていた。私はすぐに、こんな質問をしてしまった事を後悔した。
「でも……」
私は声を絞り出すようにして言葉を続けた。
「人生って、そういうものなのかも知れないね」
「そう……かも知れません」
また私は、自分の発した言葉に後悔した。彼女の頬を、涙が伝い落ちていた。それは、とてもとても永い間続いた。
彼は目を覚ました。隣に悠子はいない。ただ彼の視界には、冷たい地面と、冷たいコンクリートの壁があった。
あれは夢だったのか。彼は温度の無いその空間の中にいた。
ただ絶望だけが、それを彼にとって当たり前の感情のようにして、身体を満たしていた。
それでも生きなければならないのか。彼を見詰めながら、私はそんな感情に浸されていた。