まさにこの記事は「振り返り」で、自分自身の考えをまとめるために書くものである。
最近の生活は低調で、精神状態はノイローゼ寸前。お金もないので発散することもできない。
食費を削るために、一食コーンフレーク、一食お弁当か外食の、一日2食でなんとかしているくらいである。
あとは、活動すると腹が減るので寝ている。
タイトルから早々にして逸脱してしまうのだが、いまの状態から、人並みの生活に達するにはどうすればいいか、それを考えていきたい。
まずは、経済状態の復旧。
手は打っている。
来月から定時の仕事を始めることになっている。
フルタイムではなくパートタイマーなので、そんなに稼げるわけではないが、いままでのような不安定な経済環境からは、とりあえず脱却できると踏んでいる。
なので、いまはやることがなく、過渡期ど真ん中である。
だから、考え込んでしまうことが多い。
これから、どう生きていくか。
正直、自分の理想とする生き方、自分自身の「夢」みたいなものがなんなのか、わからなくなってしまった。
結局いままでの「夢」というのは、その時点での生き方を擁護するために形作ったものであったことにも気が付いた。
じゃあ、いまの時点でのそれは何なのか。
率直な自分の持っている感覚を述べる。
「ホッとする時間が欲しい」
いまの私は、「安定」を欲している。
本当のところ、いままでの「夢」に向かう生き方は、極めて不安定なのものである。
正直、私の持っている本質からすると向いていないと思わざるをえない生き方だった。
本当の、自分自身の持つ「人間力」を頼りに、生きる。
かっこいいかもしれないが、当たり前だが実際にやるととても難しい。
自分の力で人生を切り開き、毎日の糧を獲得し、明日を思い描いてそれを実現化する。
書き連ねただけでも、「恐怖」に満ちた人生である。
なかなかそうやって生きていくのは、大変である。当たり前だ!と怒られそうだが。
ふと思い出したのだが、私が前職の会社をやめた際に考えていたことを記す。
このまま今いる会社にいても、自分は成長しない。
ただでさえ自分はハンディキャップを背負っているのだから、自分自身の「人間力」を磨かないと、この社会を生きていくのは難しいと思わざるをえない。
健常者と一緒の社会では、一生、健常者に甘えて生きていくことになる。
そんなのは考えたくない。
障がい者なのだから、障がい者雇用の「配慮」の上で、社会を渡っていくことを選べばよかったのかもしれない。
当時は、今ほどはそういった配慮を社会が形として持っておらず、そのことも私の判断に影響を与えていた。
今は、「バリアフリー」が叫ばれ、社会の通念として障がい者への配慮が普通になってきている。
それは社会に触れてみると、確実に感じることだ。
でも、心のどこかで感じてしまう思い。
「じゃあ、それならば、と甘えていいのか?」
精神の障がいは、目に見えない。
そのことも、私の思いに影響を与えている。
強がりである。プライドを、感じすぎなのかもしれない。
「自分はすごい」と思われたいのかもしれない。いや、そうなのだろう。
こんな大変な障がいを克服して社会で成功した!
そんな場面を夢見ていたのも事実だし、それはつまりそういうことだ。
「身の丈」で生きることなのだろう。
自分をよく知り、感覚を感じ取り、やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。
基本中の基本であった。
私個人としては、「やりたくないことをやらない」ことが難しい。
基本自分は「すごい」と思われたいので、そこで「身の丈」が崩れてしまうのである。
「無理はしない。」
「いや」と思うことをしっかりと感じ取ることが、これからの課題なのだと思う。
そして、いや、と思うことはしない。
自分勝手になる、自分を主張する、しっかり意思決定行動を行う。
*
そして、他者との関わり方も重要課題である。
私の基本的思考の癖は、「すごいと思われたい」ということ。
そのことが原因で、他者と摩擦が生じる。
一平民でいい、ということに満足して生きる。
ここでもそう。
「身の丈」で生きる。判断する。人と接する。
言葉ってすごい。
こうやって、自分の考えを可視化して、見つめなおせる。
また中身の違う他者同士は、言葉を介して意思の疎通をはかれる。
あとは、、、
自分が幸せであることを、いつも感じていることかな。
満たされているものに意識の焦点をもっていって、不満には目を向けない?ことかな。
そして、無理をしないことかな。
*
そろそろ休むことにする。
また、こういう文章を書きにこよう。
最近の生活は低調で、精神状態はノイローゼ寸前。お金もないので発散することもできない。
食費を削るために、一食コーンフレーク、一食お弁当か外食の、一日2食でなんとかしているくらいである。
あとは、活動すると腹が減るので寝ている。
タイトルから早々にして逸脱してしまうのだが、いまの状態から、人並みの生活に達するにはどうすればいいか、それを考えていきたい。
まずは、経済状態の復旧。
手は打っている。
来月から定時の仕事を始めることになっている。
フルタイムではなくパートタイマーなので、そんなに稼げるわけではないが、いままでのような不安定な経済環境からは、とりあえず脱却できると踏んでいる。
なので、いまはやることがなく、過渡期ど真ん中である。
だから、考え込んでしまうことが多い。
これから、どう生きていくか。
正直、自分の理想とする生き方、自分自身の「夢」みたいなものがなんなのか、わからなくなってしまった。
結局いままでの「夢」というのは、その時点での生き方を擁護するために形作ったものであったことにも気が付いた。
じゃあ、いまの時点でのそれは何なのか。
率直な自分の持っている感覚を述べる。
「ホッとする時間が欲しい」
いまの私は、「安定」を欲している。
本当のところ、いままでの「夢」に向かう生き方は、極めて不安定なのものである。
正直、私の持っている本質からすると向いていないと思わざるをえない生き方だった。
本当の、自分自身の持つ「人間力」を頼りに、生きる。
かっこいいかもしれないが、当たり前だが実際にやるととても難しい。
自分の力で人生を切り開き、毎日の糧を獲得し、明日を思い描いてそれを実現化する。
書き連ねただけでも、「恐怖」に満ちた人生である。
なかなかそうやって生きていくのは、大変である。当たり前だ!と怒られそうだが。
ふと思い出したのだが、私が前職の会社をやめた際に考えていたことを記す。
このまま今いる会社にいても、自分は成長しない。
ただでさえ自分はハンディキャップを背負っているのだから、自分自身の「人間力」を磨かないと、この社会を生きていくのは難しいと思わざるをえない。
健常者と一緒の社会では、一生、健常者に甘えて生きていくことになる。
そんなのは考えたくない。
障がい者なのだから、障がい者雇用の「配慮」の上で、社会を渡っていくことを選べばよかったのかもしれない。
当時は、今ほどはそういった配慮を社会が形として持っておらず、そのことも私の判断に影響を与えていた。
今は、「バリアフリー」が叫ばれ、社会の通念として障がい者への配慮が普通になってきている。
それは社会に触れてみると、確実に感じることだ。
でも、心のどこかで感じてしまう思い。
「じゃあ、それならば、と甘えていいのか?」
精神の障がいは、目に見えない。
そのことも、私の思いに影響を与えている。
強がりである。プライドを、感じすぎなのかもしれない。
「自分はすごい」と思われたいのかもしれない。いや、そうなのだろう。
こんな大変な障がいを克服して社会で成功した!
そんな場面を夢見ていたのも事実だし、それはつまりそういうことだ。
「身の丈」で生きることなのだろう。
自分をよく知り、感覚を感じ取り、やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。
基本中の基本であった。
私個人としては、「やりたくないことをやらない」ことが難しい。
基本自分は「すごい」と思われたいので、そこで「身の丈」が崩れてしまうのである。
「無理はしない。」
「いや」と思うことをしっかりと感じ取ることが、これからの課題なのだと思う。
そして、いや、と思うことはしない。
自分勝手になる、自分を主張する、しっかり意思決定行動を行う。
*
そして、他者との関わり方も重要課題である。
私の基本的思考の癖は、「すごいと思われたい」ということ。
そのことが原因で、他者と摩擦が生じる。
一平民でいい、ということに満足して生きる。
ここでもそう。
「身の丈」で生きる。判断する。人と接する。
言葉ってすごい。
こうやって、自分の考えを可視化して、見つめなおせる。
また中身の違う他者同士は、言葉を介して意思の疎通をはかれる。
あとは、、、
自分が幸せであることを、いつも感じていることかな。
満たされているものに意識の焦点をもっていって、不満には目を向けない?ことかな。
そして、無理をしないことかな。
*
そろそろ休むことにする。
また、こういう文章を書きにこよう。