人にはいろんな事情がある
ひとはそれぞれ、複雑な人生を抱えている
そんな一場面に、いきさつも知らないで
土足でぶち壊すのは どうかと思う。
思い遣りの心を持ちたい。
色んな事情を察してあげて、触れていい場所・踏み込んではいけない事情を考える。
決して、触らないだけの、「無関心」になるのとは違って、
事情を、思い遣って尊重する
印象だけで差別しないで
会う人皆を平等に 思い遣る。
それが大切なのではないでしょうか?
ひとはそれぞれ、複雑な人生を抱えている
そんな一場面に、いきさつも知らないで
土足でぶち壊すのは どうかと思う。
思い遣りの心を持ちたい。
色んな事情を察してあげて、触れていい場所・踏み込んではいけない事情を考える。
決して、触らないだけの、「無関心」になるのとは違って、
事情を、思い遣って尊重する
印象だけで差別しないで
会う人皆を平等に 思い遣る。
それが大切なのではないでしょうか?
ありがとうございますう。
みんなにも見せてあげたいな。
>本当に私は私で生きているのだろうかと。本当に私は今生きているのだろうかと
僕は小学生の頃から自分が今生きていることに実感が持てなくて、そんな内容のことを友達に打ち明けては、ちょっとその友達を困らせていました。
その頃に比べると、今の方が生きてるって実感しながら生活しているな。
病気になったのは本当に僕にとって大きな出来事だった。
本当にありがとうございます!
では!
ある時私は気づいたのだ。本当に私は私で生きているのだろうかと。本当に私は今生きているのだろうかと
夜、
車道の真ん中で立ち止まる。
左右から近付いて来る
車のヘッドライト。
闇に光る二つのものに
何となく目を奪われる。
・・・ふと、
このままここで
立ち止まってみようかと思う。
別にぶつかったって、
何てことは起きないんじゃないかと思う。
けれど僕は、いつの間にか歩き出している
渡り終えたガードレールの向こう。
僕は、
自販で買ったジュースを飲んでいた。
目の前の車道を、
二台の車が同時に通り過ぎるのを、
何となく眺めていた。
日常は異次元のほんの手前、その時空と目の前の投影が、一瞬に交わり、いや寸前で未交差に終わり、知覚の奥のほんの一握りに真実は移ろいでいた。
微かに想ういのちの夢の、儚き時のとわの夢。ためらいの、さすらいの、とき。わたしはいまもここに流されて。
詩集『まわる世界の先駆者たち』第十節に
拙作を加えて
ときめきひかり
はなさかし
ときにしらべの
あいのかなへて
ひとりの人間は
その身体の中にいくつもの音色を持つ
そして成長するほどにそれは増えていく
みんなで楽しむとき
ひとりで何かを学んでいるとき
誰かと二人で語り合うとき
それぞれに用意した独自の音を放つ
そして それぞれがそれぞれの和音を奏でる
そのメロディーは本当に生きていることの証
聞きなれない旋律は
僕らがまた一つ大きくなれたことを教えてくれている
あなたとの
ゆめのまにまに
ひびききて
あいのときめき
せかいゆらめき
詩集『まわる世界の先駆者たち』第二十七節に
拙作を付け加えて
なぎささんの文章への思い、受け止めました。
なるほど、宇宙とのコンタクトかぁ…
読む人と書き手が、そういう大きなものを介して触れ合うというのは素敵ですね。
そして情熱は伝わってきています。
それにしてもなぎささんって女性?男性?「僕」?あれ、なぎささんって女性だったような気が…「ひふみ」さんだし…まあいいか。
いやね、僕も昔はイメージから即興で詩を書いていたんですよ。(詩集『まわる世界の先駆者たち』・『めぐり流れる一つを見すえて』参照のこと)なぎささんほど美しくはありませんが。
ところが大きな病気をしたあと、それが書けなくなってしまったんですね。
昔はパソコンの前に座れば自然に言葉が湧いて出てきたのが、病気の後はそれがピタリと止んでしまった。
大袈裟に言うと、絶望しました。
書こうと思っても書けないんですよ。
そこで、音よりも先に意味やテーマを先に考えるようにした。
それでなんとか、昔ほど納得はいかないものの、書き進めるようになった。
そこで文章塾と出逢って、稚拙ながらも、物語が書けるようになってきた。
最近は、詩も書けるようになってきたのです。
(最近のブログに載っているのは文章塾に出逢う前の詩で、あんまり上手くないです)
そんなこんなな経緯があって、なぎささんの詩は読んで僕も感じるところがあったので、思わず熱く語ってしまいました。
これからもなぎささんの詩、楽しみにしています!
そしてこれからもよろしくお願いします。
では!
普通は僕は云いっ放しで無責任この上ないことを承知でみなさんにご迷惑かけております。
いつも私は即興です。テーマなり自分の今感じることを、脈絡も無く書いているのです。大きなことはこの小さな自分ではどうすることもできないのですから。でもそれが見えないことへの賛歌なり、哀愁ならばそれもまた私の表現としていいのではないかと思っています。ゲーテは思いつくままに詩を書いて、それが読者のそれぞれの想いを喚起するので、詩を書くのは大変やさしいと何かで読んだことがあります。だからというのもおこがましいのですが、僕には大作を書いて、リテールを鮮やかにして、筋書きのりっぱなものを書くことはできないと思いますし、書く気もないのです。僕の責任逃避でしょうか。
私はただ知りたいのです、宇宙と私、私とあなたとのふれあいを。
情熱をどれだけ込めるかだけです。
お代官様大変です、この地球が俺も私もと主張して、主張の無いすべてを覆う沈黙の愛を無視しております。どうかどうかぜひ機会があるならば、その昔現れたという愛の顕現を私に知らせてくださいませ。そしてみんなが平等に、違いを喜ぶ祝福に包まれるよう切にお願い申し上げまする。
驚きです。
まさかなぎささんが文章塾塾生発のコメント3人目になるとは…
でも嬉しいです。
ありがとうございます。
ぼくはいつもなぎささんの文章を読んで、考えます。
これを書いている人(=なぎささん)は、何をその頭の中に描きながら書いているのだろう?
この一つ一つの言葉たちは、音から先に出てきたのだろうか?それともきちんとした脈絡があって(こう書くと失礼ですかね)、そこに佇んでいるのだろうか。(それともイメージから紡いできた言葉をそこに並べているのだろうか?)
なぎささんの文章は、見た目、イメージ、言葉の音はとても美しい。文章塾でも1,2を争うと僕は思います。
ただ、悲しいかな、読み手の感じる「意味」というものが文章に必要であるとするならば、それがないように思えるのです。ものすごく漠然としたイメージ・映像としか捉えられない。読み手としては。
否定したり、悪いといっているのではもちろんありません。
そのイメージから何かを読者に読み取らせるというのも、全くありだと思いますし、現に文章塾でなぎささんの作品を読む人たちは皆そうしていると思います。
なぎささんの文章を読んでいると、一節、あっ解ったかも、と思った次の節と、解った前の節との関わりがわからなくなってしまう。そこで途切れてしまう。
…ような気がするのです。
なぎささん、この文章を読んで嫌な気分になったとしたらごめんなさい。
でも、僕は知りたいのです。なぎささんの頭の中を。見せたくないと思うかもしれませんが、僕は見たい。
だから出来たら、言葉同士の連なり・繋がりを考えてみて下さい。音・美しさだけではなく、何らかの一つの流れを全体として意識してみて下さい。そして冒頭から終わりまで、流してつるんと滑るような文章をなぎささんが書いて下さったら、僕は一生なぎささんについていきます。
P.S.もし僕のなぎささんの作品への読み込みが浅いだけで、今まで僕が書いたようなことは作品の中でそっくりクリアしているよん、へへん、となぎささんが思った場合、ご免なさい。本当に不勉強でした。すみません。
以上でも許せないかもしれませんが、ご免なさい、許して下さい。お代官様~…
以上になります。すみません。
この鎧はなぜ重さがあるのかと
感じる意味の密度は
深海のシースノーになって
沈殿の時間に重なっていく
肉体は輝かしき贈り物
儚き一瞬の思い出
その夢の焦点には
弛緩と緊張の連なる波になる
愛の夢
私がいて
あなたがいて
世界があり
宇宙を創る
限りなき無限小の
限りなき無限大
ひとつという無限の喜び
違いという無限の愛しさ
まつゆめの
たましいひかり
あいのゆめ
おなじちがいの
いとしきねがい