読書日記

いろいろな本のレビュー

創価学会の研究 玉野和志 講談社現代新書

2008-11-01 18:01:11 | Weblog
創価学会の研究 玉野和志 講談社現代新書


 腰巻に「批判でもない賞賛でもないはじめての学会論」とある。逆に言うと、今までは批判か賞賛しかなかったということか。私は批判の側のものしか読んだことが無かったので、興味が湧き、早速購入した。
 創価学会は都市部の貧困層に「幸福になれる」という勧誘の言葉で、勢力を伸ばしてきた。社会の階層では上位へ登れない人々が、学会内では努力と精進によって高い地位につけるという、いわばサブカルチャーの役割をになっていたのだった。最近では高学歴の信者も増え、昔とは様変わりしているようだが、相変らず存在感はある。
 天理教や創価学会はいわば「陽気暮らし」を実現するための宗教で、一段低く見られている感じはある。しかしこれだけの信者数がいるということは看過できないものがある。学会員の日常はいままで分からないことが多かったが、本書は彼らの日常を詳しく書いている。日々の勤行が大事で「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えるのが日課だ。学会員の葬儀に参列したことがあるが、その場合友人葬となることが多い。専門の僧侶ではなく、友人の会員がお経をあげて仲間を送り出すのである。それは学会が日蓮正宗から破門されたために、お寺から僧侶に来てもらえないからだということが本書を読んで分かった。また学会が政治へと進出し、やがて公明党を結成していったが、公明党の政治的位置は自民党、社会党、共産党にも守られない本当の労働者階級を組織していたことだという著者の指摘は重要だ。また中国の革命家たち(とりわけ周恩来)は早くから創価学会という団体に特別の注意を払い、社会党でも共産党でもなく、池田大作や公明党を頼ることが多かったという話も初めて聞いた。これで池田大作が中国に行って歓迎される理由が分かった。
 公明党はいま自民党と連立して与党の立場にいるが、いまの流儀が労働者階級の声を代弁しているかどうかはあやしい。権力側に立つのが良いのか悪いのか、この辺ではっきりさせる必要があるだろう。
 

金田一京助と日本語の近代 安田敏朗 平凡社新書

2008-11-01 10:57:20 | Weblog

金田一京助と日本語の近代 安田敏朗 平凡社新書



 金田一京助はアイヌ語の研究で夙に知られているが、1931年の「アイヌ叙事詩 ユーカラの研究」で学士院恩賜賞受賞後は、日本語の問題にも力を入れて論じるようになる。本書は金田一の人柄を「イノセント」という言葉で表したのが、秀逸である。ちなみに「イノセント」を英和辞典で引くと、「無罪の、無害な、たわいも無い、天真爛漫な、無邪気な、単純な、お人よしの」などの訳語がある。今風に言うと「KY」(空気を読めない)と言うのも含まれる感じがする。
 アイヌ研究で現地のアイヌ人の協力を得ながら、片方でアイヌの未開性、衛生観念の無さを公然とあげつらう部分であるとか、臆面もなく昭和天皇を賛美する言説とかはその例証となるであろう。著者はいままで取り上げられることが少なかった、金田一の言語観、表記論、標準語論、敬語論などを彼の全集からピックアップして論評している。特に国語審議会委員として「現代かなづかい」の原則を定めたこと、それに対する津田左右吉や小泉信三、そして福田恒存との論争でも例の「イノセント」が顔を出すところが面白い。これは見方を変えれば、先天的学者肌ということかも知れない。昔はこういう学者が多かった。昨今のテレビタレントまがいの幇間学者に比べたら月とスッポンと言わざるを得ない。