読書日記

いろいろな本のレビュー

白楽天 川合康三 岩波新書

2010-02-13 17:34:48 | Weblog
 中唐の詩人白楽天(白居易)の詩と人生を簡潔にまとめた好著。中国文学の薀蓄が随所に披瀝されて参考になる。まず代表作「長恨歌」で玄宗皇帝を「漢皇」と漢の武帝として叙述していることについて、皇帝の情事を語る内容ゆえに唐の皇帝に対してはばかりがあったという解釈があることについて以下のように却下する。曰く、同時代の陳鴻の「長恨歌伝」では冒頭から「玄宗」の名が直接記載されているのではばかったことにはならない。唐代の詩で唐王朝を漢王朝に置き換えてうたうことはごく普通に見られる。それは詩歌が現実の直叙ではなく、そこから距離をおいたもうひとつの世界を歌おうとするからであろう。そもそも玄宗と楊貴妃の関係そのものが、漢の武帝と李夫人の関係に重ねられて語られているのだと。正しい解釈と思う。よく類書に「仮名手本忠臣蔵」が江戸幕府をはばかって、室町時代の設定にしているのと同様の議論をしているものがあるが、誤りだということがわかる。
また友人の元稹との関係も重要で、二人は宋初までは文壇の雄と見なされていた。例えば『旧唐書』の「元稹・白居易伝」では二人の文学のスタイルを沈約・謝眺の後を継ぐ新しい、傑出したものと評価している。『旧唐書』は開運二年(945)に完成したが、後晋の複数の史官が資料をつぎはぎして作ったもので、「元稹・白居易伝」が誰の書いたものかは不明。少なくとも個性ある表現者が書いたものではない。これに対してこれより100年余り後に作られた『新唐書』は欧陽修が編纂に関わっており、『新唐書』の駢文に対して、古文で書かれている。駢文とは四字の対句、六字の対句を敷き並べ、典故を多用する文体で、古文は駢文と対照的な自由な散文を指す。唐宋八大家の欧陽修は古文復興の旗手であった関係上、唐代の古文復興の立役者である韓愈を元稹・白居易に代って最大級の評価を加えている。元・白の文学を通俗と見る流れはここから始まっている。中国歴代の正史による前代の評価は政治文学を含めてこれまた政治的判断によって裁断されてしまう。中国研究の場合とくにこれが問題になる。
 明代に「文は秦漢・詩は盛唐」をスローガンとする古文辞派が台頭して100年ほど勢力を維持したが、特に後半の李攀龍・王世貞らの擬古主義は極端で、先秦・両漢以外の書は読まない、詩では盛唐以後、文では前漢以後の言葉は一切用いないと揚言する。この排他的かつ主情的なお手本が、学問の浅い詩文の初学者に最短コースを提示して、知的中間層を量的に獲得することが出来たのである。その李攀龍は57歳で世を去ったが彼の名がまだ人々の記憶から消えない明末の頃に、李攀龍編と銘打った『唐詩選』が世に現われた。実はこれは彼の名をかたった真っ赤なニセモノなのだが、作者の盛名を負って大いに売れた。日本でもこの『唐詩選』は流行したが、これは古文辞派に影響を受けた江戸の儒者・荻生徂徠とその一派がもてはやしたことに由来する。その『唐詩選』を見ると彼らの主張通り盛唐の詩人に偏って中唐・晩唐の詩人はほとんど載せられていない。具体的には、韓愈が一首、白居易はゼロ、李商隠が三首、杜牧ゼロ、李賀ゼロという内容だ。アンソロジーは各時代の名作を網羅しているという前提でものを考えると失敗するという例が『唐詩選』なのだ。文学の党派性は中国文学に偏在する特性である。本書は中国文学のエッセンスを白楽天の中に見出して紹介してくれている。どうか一読されたい。