読書日記

いろいろな本のレビュー

焚書坑儒のすすめ 西部邁 ミネルヴァ書房

2010-07-10 10:58:52 | Weblog
 焚書坑儒とは無責任なエコノミストの言説を葬り去って,あるべき成熟した国民の経済活動とは何かを問うことであるらしい。主に自由至上主義(リバタリアン)がもたらした災禍を批判する。副題は「エコノミストの恣意を思惟して」だ。彼らの現状分析のいい加減さ、無責任さに著者は我慢ならないのだ。腰巻には「ミネルヴァのふくろうよ、知識と実践のへだたりを超えて、白昼に飛び立て」とある。ミネルヴァはこの本の出版元の名前だが、本来ローマ神話の女神の名前で、聖鳥はふくろう。このふくろうは古代ギリシャではアテネ神と同一の観念的存在とされていた。それは「知恵の神」であると同時に、「戦術の神」という意味を含んだ存在であり、それがギリシャのアテネ神とローマのミネルヴァ神との共通する特徴だと言われている。著者曰く、普通でしたら、戦争こそは人間の実践の究極の場面であって、知識と戦争は別次元のものと考えられます。そうであればこそ、「ミネルヴァのふくろうは夜に飛び立つ」とヘーゲルは言った。ミネルヴァのふくろうという知恵の神は、「状況とは何だろう」と考えている。その考えは、状況から一歩も二歩も遅れてしか組み立てられない。夜になってからやっと、状況は何であったか解釈し、結論づけるのですね。「夜に飛び立つ」、それが「知識と実践の時間的なへだたり」なのだ、とヘーゲルは考えたのです。云々とわかりやすく説明した後で、陽明学的にいえば「知行合一」、知識と行為の合一のところに知恵というものが発生すると説く。今の状況をどう見据えるかを考えるにあたって「時と所と場合」を押さえる必要がある。それはまさに「夜に飛び立つ」ミネルヴァのふくろうにとどまっておれないと言う。今の経済状況を学者・哲学者の立場で分析し、同時にその処方を明らかにするという意思表明だ。
 マルクス以降の経済学者の言説を引きながら、経済学の歴史を社会状況と照らし併せてわかりやすく述べる。特に批判の対象となっているのは、小泉元首相の行った構造改革の戦略の中で取られたアメリカ流自由主義の無批判な導入だ。経済は市場に任せるというリバタリアン的政策は多くの経済格差を生む結果となった。そのお先棒を担いだエコノミストに対する批判の部分は痛快無比だ。北海道生まれの訥弁の経済学者はペンを持つと能弁に変身する。その落差の大きさも魅力の一つだ。それで今の経済活動で何が問題になってくるかと言えば、公正・正義の問題だ。富を一部のものが独占するのは正義に反するかどうかという議論は、最近ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏の本で話題になっているが、本書でもそのことが話題になっている。良識派の学者の問題意識は共通部分が多いとわかって感動した。「自由・平等・博愛・合理」という市場論から「活力・公正・節度・良識」の枠組みへとシフトさせることが肝要ということを、政治・哲学・歴史の教養をもとにわかりやすく説いているのが、本書の魅力だ。西部氏は最近、佐高信氏との対談でも、(『思想放談』朝日新聞出版)意気軒昂なところを見せており、うまく行けば吉本隆明のような存在になれるかも知れない。長生きしてほしいものだ。