親鸞聖人の生涯。親鸞は阿弥陀仏の請願を信じつつ、専修念仏の教えをひろめてゆく生涯を貫いた。彼の一生は四つの時期に区切ることができる。最初は二十九歳で比叡山を下り、法然の専修念仏門に入ったとき。次は三十五歳で越後へ流罪となり、四年後に赦免されたがなお二年間を越後国府で過ごした時期。次は建保二年(1212)関東へ向かい、約二十年間、常陸を中心に布教をした時期。次は、六十三歳の頃京都へ帰り、その後九十歳で示寂(逝去)するまで、著述・思索に日を送った時期である。九十年の人生で、阿弥陀仏への信仰を無文字の民衆に布教したその気力と体力は称賛に値する。
他力本願の極意は「南無阿弥陀仏」を唱えることにあり、それを実践すれば極楽往生できるという教えは誠にわかりやすい。しかし、そこに至るまでどれほどの思索の時間が費やされたことか。仏との縁はこちらからいくら求めても得られるものではない。厳しい修行や荘厳な寺院での読経は自力本願の基本であるが、これによって仏に救われることはないということを比叡山で悟り、親鸞は山を下りたのである。仏の救いは仏の側から差し伸べられる。それがどれほどの確率で行なわれるのかは分からない。しかし、南無阿弥陀仏と唱えることが必要条件となる。仏はキリスト教の神同様、基本的に俗事には関わらない。神は沈黙したままなのだ。遠藤周作の誤りはそこにある。親鸞はそれを理解したうえで、ひたすら念仏を唱えたうえで、仏からの機縁を待とうと言ったのである。
本書は親鸞の『教行信証』等の著作を読み込んだうえで書かれている。親鸞の思想に迫ってその人間像を明らかにしようとしており、極めてレベルが高い。哲学書の解説にも匹敵する出来栄えと思う。五木寛之の『親鸞』(講談社)とは全くアプローチの仕方が異なる。こちらは青春時代の親鸞を扱ったもので、親鸞の全体像を追求したものではない。津本氏は自身も門徒である由、あとがきに書かれていたが、それならばこその記述が多かったと思う。清貧の中で最後まで布教と思索に明け暮れた親鸞のような人間がいたことは、本当に感動的だ。学ぶことに定年はない。死ぬまで勉強せねばという気持ちが湧いてきた。
他力本願の極意は「南無阿弥陀仏」を唱えることにあり、それを実践すれば極楽往生できるという教えは誠にわかりやすい。しかし、そこに至るまでどれほどの思索の時間が費やされたことか。仏との縁はこちらからいくら求めても得られるものではない。厳しい修行や荘厳な寺院での読経は自力本願の基本であるが、これによって仏に救われることはないということを比叡山で悟り、親鸞は山を下りたのである。仏の救いは仏の側から差し伸べられる。それがどれほどの確率で行なわれるのかは分からない。しかし、南無阿弥陀仏と唱えることが必要条件となる。仏はキリスト教の神同様、基本的に俗事には関わらない。神は沈黙したままなのだ。遠藤周作の誤りはそこにある。親鸞はそれを理解したうえで、ひたすら念仏を唱えたうえで、仏からの機縁を待とうと言ったのである。
本書は親鸞の『教行信証』等の著作を読み込んだうえで書かれている。親鸞の思想に迫ってその人間像を明らかにしようとしており、極めてレベルが高い。哲学書の解説にも匹敵する出来栄えと思う。五木寛之の『親鸞』(講談社)とは全くアプローチの仕方が異なる。こちらは青春時代の親鸞を扱ったもので、親鸞の全体像を追求したものではない。津本氏は自身も門徒である由、あとがきに書かれていたが、それならばこその記述が多かったと思う。清貧の中で最後まで布教と思索に明け暮れた親鸞のような人間がいたことは、本当に感動的だ。学ぶことに定年はない。死ぬまで勉強せねばという気持ちが湧いてきた。