読書日記

いろいろな本のレビュー

冷血 高村薫 毎日新聞社 

2013-04-24 13:55:38 | Weblog
 毎日新聞連載のものを書籍化したもの。私は新聞連載小説は読まないが、こうしてまとめられたものを読むとそれなりの力作であることが分かる。『冷血』とくるとトルーマン・カポーティーの同名の小説を思い出すが、中身もそれと重なっている。さらに世田谷一家四人殺害事件もイメージされている。残念ながら、この世田谷の殺人事件はまだ未解決で、一刻も早い解決が望まれる。
 携帯電話の求人サイトで仲間を募集した井上克美(精神的に病んでいる部分がある)が戸田吉生(歯痛に苦しんでいる)と組んで、歯科医宅に盗みに入り、見つかるや、夫婦と子供二人を撲殺するという残酷な話である。ポイントは殺人の動機だが、逮捕後の取り調べで二人とも自分でもわからないという。まるで禅問答のような感じなのだ。特に二階で寝ていた子どもをわざわざ殺戮に及んだことの理由を説明できないことに、読者は大いなる当惑を覚える。二人の生い立ち等を描いて、どのようにして反社会的で暴力的な人格が形成されたかを一応は納得できる展開にはなっているが、それがすべてではない。なんとなくぼんやりした感じなのだ。それが当世風と言えば、言えないことはない。
 そのへんは次のように書かれている。「社会的な意味のない一つ一つのプライベートな感情の堆積の上に、金のためではなかった強盗や、殺す必要はなかった一家四人殺し載っているのも事実なのだった。たしかに戸田の人生の織り目など、社会の知ったことではないが、ひとたびそこに織り込まれた後は、自分の犯した一家四人殺しにも特別な後悔はないのだと本人が言う、そういう織り目の、まさしく織り目でしかない風景は、同時代のどこにも接続しない戸田吉生だけの特殊な風景なのだろうか。たんに無意味や無名ということなら、自分たちを含めたほとんどすべての人生が、社会にとっては無意味な経験と感情の織物ではないのか。むしろ、本当はどんな犯罪も、思いつきと悪意、意図と無意識、集中と不注意、意志と偶然などが目まぐるしく入り交じった、無意味な織り目で織られているというべきではないのか。たとえば二十代の戸田が、日暮里の片隅の自動車整備工場で鬱鬱とした昏い情念を燃やす一方、『パリ、テキサス』のナスターシャ・キンスキーに見とれ、ライ・クーダーのスライドギターに魂をもってゆかれたように、だ。またたとえば、鉄錆と土埃の色しかないそのテキサスの風物に見入る眼と、艶やかな金銀の蒔絵に見入る眼の同居も、無意味でなければただ暴力的と言うほかはないだろう。」
 殺人という重大事件を起こすメカニズムは著者の言う「無意味な織り目」のなせる技かもしれない。小説の全貌は最後の判決理由を読むと手っ取り早い。読み始めると裕福な歯科医一家がいつこの二人組と邂逅して遭難するのかはらはらどきどきする。しかも地理的な描写が具体的でグーグルマップを見ているようだ。さらに二人の子供がそれぞれ筑波大付属中学と小学校に通っているという設定は都会の上流階級を描く手法としてはうまい。東京に住んだ経験がないと書けない。前途ある二人の子どもが、理不尽に生命を奪われるという図式は改めて悲劇性を増幅する。読者の怒りは二人の犯人に向けられるが、犯人は上述のようになぜ殺したかわからないと言う。その意味で死刑になっても読者はカタルシスを覚えない仕掛けになっている。それが現代社会の実相だというのが著者のメッセージなのかもしれない。
 この後読んだ、『冬の旅』(辻原登 集英社)も緒形隆雄という刑務所帰りの人間が善意の老人二人を殺すまでを描いているが、なぜ殺さなければならなかったのかという理由がはっきりしないという意味で『冷血』とよく似ている。地理的描写も同上で、関西に住んでいる者にとっては 緒形の行く先がイメージとして具体的に浮かんでくる。ある男の一生を描いてぐいぐい読ませ、著者の力量が大いに発揮された秀作である。