副題は「時代を詠んだ俳諧師」。本書は日本近世史の研究者の一茶論で、著者の青木氏は本書を書き上げた直後、調査のため訪れた金沢で急逝されたと後書きにある。享年77歳であった。ご冥福をお祈りする。副題の通り、幕末維新の前段階と言われる文化文政年間の日本の状況をつぶさに描いた句が多く紹介されており、類書には見られない新鮮さがある。
一茶は40歳から亡くなる65歳までに14000余りの句を残している。多作の俳人である。信州柏原で生まれ、15歳で江戸奉公に出た。継母のさつとの軋轢が大きかった。一茶は生涯この継母を恨んだ。45歳から遺産相続の問題に関わり、江戸と柏原を行き来することが多くなったが、この継母との関係もあって、和解まで6年かかっている。
一茶は世の中の底辺を支える庶民に対する共感の句を多く作っているが、とりわけ農民に対する目線が特徴だと青木氏は言う。
耕さぬ罪もいくばく年の春(「文化句帖」文化二年) 鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴(「文化三ー八年句日記写」文化四年) これらの句からわかるように一茶は自身を「田も耕さないで食べるだけ、織り物も織らないで着るだけ」という「不耕の民」の典型であると常に感じていたらしい。農民の苦しい生活はよくわかっていたが、自分は江戸奉公で田舎を捨てて、都市生活者になったという後ろめたさがあった。
一茶は25歳頃、葛飾派小林竹阿(二六庵)の内弟子になり、俳諧師の道を歩むことになる。本所相生町あたりの裏長屋に住んでいた。
秋の風乞食は我を見くらぶる、元日もここらは江戸の田舎哉(「文化句帖」文化元年)
30歳の3月、四国・九州へ旅立つ。この旅は6年続く。この間、「君が世」という言葉を盛り込んだ句をたくさん作っている。
君が代や蛇に住み替る蓮の花(「寛政句帖」寛政四年)寛政年間の政治状況をもとに深読みすれば、「君が代」は徳川の世、「蛇」=田沼意次政権、「蓮の花」=松平定信政権と読めると青木氏は言う。
この「君が代」の言葉は、国学の隆盛と関連していると著者は説く。なるほど、寛政四年にロシア使節ラックスマンが漂流民大黒屋光太夫らを護送して根室へやってきた。この時、けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ(「七番日記」文化九年)と詠んで、シベリアから渡ってくる雁に「日本」と意識して描いている。「君が代」に「日本」一茶流ナショナリズムの吐露と言える。このように時代の状況をストレートに詠む姿勢は一茶の面目と言うべきもので、誠に興味深い。しかも基本は庶民目線で、節季候(せきぞろ)の見向きもせぬや角田川、節季候を女もすなりそれも御代(「七番日記」文化九年)などが詠まれた。節季候(せきぞろ)は歳末から新年にかけて二~三人で特異な扮装して門づけする人々のこと。
このように日本史家によって小林一茶の新側面が取り上げられたことは誠に喜ばしい。
一茶の還暦の句は 六十年踊る夜もなく過ごしけり(「文化句帖」文政五年)であった。
一茶は40歳から亡くなる65歳までに14000余りの句を残している。多作の俳人である。信州柏原で生まれ、15歳で江戸奉公に出た。継母のさつとの軋轢が大きかった。一茶は生涯この継母を恨んだ。45歳から遺産相続の問題に関わり、江戸と柏原を行き来することが多くなったが、この継母との関係もあって、和解まで6年かかっている。
一茶は世の中の底辺を支える庶民に対する共感の句を多く作っているが、とりわけ農民に対する目線が特徴だと青木氏は言う。
耕さぬ罪もいくばく年の春(「文化句帖」文化二年) 鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴(「文化三ー八年句日記写」文化四年) これらの句からわかるように一茶は自身を「田も耕さないで食べるだけ、織り物も織らないで着るだけ」という「不耕の民」の典型であると常に感じていたらしい。農民の苦しい生活はよくわかっていたが、自分は江戸奉公で田舎を捨てて、都市生活者になったという後ろめたさがあった。
一茶は25歳頃、葛飾派小林竹阿(二六庵)の内弟子になり、俳諧師の道を歩むことになる。本所相生町あたりの裏長屋に住んでいた。
秋の風乞食は我を見くらぶる、元日もここらは江戸の田舎哉(「文化句帖」文化元年)
30歳の3月、四国・九州へ旅立つ。この旅は6年続く。この間、「君が世」という言葉を盛り込んだ句をたくさん作っている。
君が代や蛇に住み替る蓮の花(「寛政句帖」寛政四年)寛政年間の政治状況をもとに深読みすれば、「君が代」は徳川の世、「蛇」=田沼意次政権、「蓮の花」=松平定信政権と読めると青木氏は言う。
この「君が代」の言葉は、国学の隆盛と関連していると著者は説く。なるほど、寛政四年にロシア使節ラックスマンが漂流民大黒屋光太夫らを護送して根室へやってきた。この時、けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ(「七番日記」文化九年)と詠んで、シベリアから渡ってくる雁に「日本」と意識して描いている。「君が代」に「日本」一茶流ナショナリズムの吐露と言える。このように時代の状況をストレートに詠む姿勢は一茶の面目と言うべきもので、誠に興味深い。しかも基本は庶民目線で、節季候(せきぞろ)の見向きもせぬや角田川、節季候を女もすなりそれも御代(「七番日記」文化九年)などが詠まれた。節季候(せきぞろ)は歳末から新年にかけて二~三人で特異な扮装して門づけする人々のこと。
このように日本史家によって小林一茶の新側面が取り上げられたことは誠に喜ばしい。
一茶の還暦の句は 六十年踊る夜もなく過ごしけり(「文化句帖」文政五年)であった。