読書日記

いろいろな本のレビュー

京都ぎらい官能篇 井上章一 朝日新書

2018-02-20 08:48:50 | Weblog
 前著『京都ぎらい』(朝日新書)は26万部の大ヒットで、新書大賞も受賞した。その続編で、柳の下のドジョウを狙ったものだ。前著は京都人の中華思想の発言の具体例を京都弁で再現して、まことに面白い内容であった。今回は、王城の地京都の性的な隠微さを歴史的に概観したものだが、少々インパクトに欠けた。
 京都の観光地(例えば嵯峨)は若い女性に人気だが、それは「恋に疲れた女が一人♪」という歌詞にも有るとおり、傷心の女性を癒してくれる場として意識されているからだ。著者も学生時代よく道案内した経験を披露している。そのイメージが広がって、京都は上品な街であるとの印象を与えているが、それは虚像で、実はエロい街なのだというのが趣旨である。
 宮廷に奉仕する多くの女性たち、その王朝文化の中で京おんなの魔力が発揮される。後醍醐天皇は武士を籠絡するために「シースルーパーティー」を開催したとか、鎌倉武士は「美女をもらえれば、所領などいらない」と言ったという話や、京おんなが女であることを武器に商売繁盛を勝ち取っていく話とかが紹介されてそのエロさの歴史を教えてくれる。かつてはやったノーパン喫茶の始まりは大阪の阿倍野の「スキャンダル」ではなく、京都の北郊、西賀茂の「ジャーニー」だと著者は言う。これは大阪に対する誤解があると指摘する。著者曰く、「ノーパン喫茶は、男の助平心にねらいをさだめた店である。そして、そんな好色営業の走りは、大阪であったろうと、多くの人がうけとめた。それは大阪がそういう営業にふさわしい街だと見なされていることを、物語る。土地柄じたいが下品だと思われていることを、示している。一方、京都は、なかなかそういう目で見られない。大阪の方が、より淫蕩な街であろうと、なんとなく人々は思いこまされている。ノーパン喫茶の濫觴に関するかぎり、京都こそがいやらしかったのに。もう面倒なので、西賀茂にいちいち北郊や洛外といった言葉はおぎなわないが云々」とボルテージが上がる。著者は京都無垢幻想に果敢に立ち向かい、大阪の名誉回復に一役買って出ている。これは洛外人井上の洛中人に対する反逆とも言える。
一方で、著者の建築家としての面目が発揮された記述もある。それは桂離宮と遊郭島原の角屋のデザインがよく似ているという指摘である。それはなぜかというと、17世紀の初頭には、宮廷における性的遊戯が幕府にとがめられ、遊郭として権力の管理下に置かれるようになったことにより、宮廷文化の精華である桂離宮の造形と、遊郭の揚屋におけるそれが、通じ合うようになったかららしい。皇族の別荘の意匠を遊郭の揚屋の建築に取り入れるとは、京都らしいといえば、京都らしい。