読書日記

いろいろな本のレビュー

飛族 村田喜代子 文藝春秋

2019-10-22 17:37:27 | Weblog
 本書は今年度谷崎潤一郎賞を獲得した。私見だが、村田喜代子は現代女流作家の中では最も優れている。文章力と言い、構成力と言い、想像力と言い、彼女の右に出る者はいない。
 九州に近いかつて漁業で栄えた養生島という離島に、女がふたりだけで暮らしている。イオさんは九十二歳。海女友だちのソメ子さんは八十八歳。イオさんの娘で六十五歳のウミ子が嫁ぎ先の大分から帰省して二人を見ている。イオさんがウミ子に言う、「わしは生まれて九十年がとこ、この島に住んで、今が一番悩みもねえで、安気な暮らしじゃ。おまえは妙な気遣いばせんで、さっさと水曜の朝に船で去んでしまえ」と。ウミ子の心配をよそにイオさんは意気軒高だ。この三人が島の探索に出かけていろんなものに遭遇するという話だ。

 かつて男たちは漁場で遭難して死に、ミサゴになって転生する。ミサゴとはタカ科の鳥で、魚を常食にしている。そのミサゴとイオさんたちは交感するのだ。ミサゴは英語でオスプレイというと著者は書いていて、これは米軍の垂直離着陸機の名前だ。急に沖縄防衛の現実が喚起される。この辺の書き方はうまい。養生島は架空の島だが、辺境にあって他国との境界問題が課題になっている。ここを無人島にできないので、行政側は二人だけの住人にいろいろと配慮している。
 
 島内散策の場面で、カシの林のトンネルをくぐる時、ソメ子さんがふとつぶやいた。以下引用、「なんや、あの世へ行く道のようじゃのう」「ははは、こんな明るい冥土の道はなかろう」イオさんは笑ったがしだいにウミ子もこの薄明るさが気になってくる。人はみんないずれ死ぬものだが、あの世が真っ暗闇ではやりきれない。このくらいの明るい世界なら死んでも少しは希望がある。ウミ子は歩きながら首を上げた。希望? 死んだ後の希望なんて、そんなものがあるのだろうか。ふいに緑のトンネルが切れて視界が開けた。あの世とは何かまだまだわからない。三人はまだ疑心暗鬼の状態にある。その後三人は浜にある町の共同墓地を見つける。墓参の人々が造花を生けている。
 
 以下再び引用、「何や、生きとるのか死んどるのか、要わからんような気持ちになってきた。ここはどこじゃろか」「ははは、ここはこの世じゃ」ふいにソメ子さんはおかしな声を出し始めた。「おう、おめえさア、金谷のソメ子でねえか、おう、久しぶりに会って嬉しいぞ」ソメ子さんの顔を覗くと薄青い眼があらぬ方向を見ている。「ソメ子よう。ここは極楽じゃアー、よか所じゃアー、腹もすかねえし、仕事もせんでよか。たまには息子夫婦が孫たちも連れてくる。若いころ好きじゃったソメ子までこうしておれに会いにきてくれた。おめえもいっペン死んでみろ。そしたらおれの幸せな気持ちがようわかるぞ」
 死んだ男の霊が、ソメ子さんに乗りうつってあの世の快適さをアピールする。あの世は一体どうなっているのかという疑問を死者がソメ子さんの口を借りて語る。この世とあの世の境界が無くなる。あの世が良いところならば、死を怖がることはない。安心して死ねる。
 
 限界集落、老人問題を境界に生きるという現実的な問題の中で一挙に解決して、老後の安心をこのような形で提示してくれる村田喜代子の想像力に感嘆。当代一流の作家たる所以だ。