読書日記

いろいろな本のレビュー

教誨師 堀川恵子 講談社文庫

2020-05-28 11:43:25 | Weblog
 教誨師とは受刑者に対して徳性(道徳をわきまえた正しい品性・道徳心・道義心)の育成を目的として教育する者のこと。教誨には「一般教誨」と「宗教教誨」があり、前者の内容は道徳や倫理の諸話などで、刑務官・法務教官などが行う。後者の内容は宗教的な諸話や宗教行事で、各宗教団体に所属する宗教者(僧侶・神職・牧師・神父など)によって行われる。一般教誨は全ての受刑者に参加の義務があるが、宗教教誨は日本国憲法に定める信教の自由の観点から自由参加である。因みに教誨師の宗教別の割合は多い方から順に、仏教、キリスト教、神道であり、それ以外に天理教、金光教、大本教などであり新宗教の諸派の教誨師もいる。

 本書では作者が浄土真宗の僧侶であった、渡邉普相氏(1931~2012)に2010年、死刑囚の教誨師としての件でインタビューを申し入れた時から始まっている。最初は固辞されたが訪問を繰り返すうちに渡邉氏は死刑囚との日々について口を開くようになった。本書はその記録である。

 死刑囚は生きて刑務所を出ることはない。よって明日の生活の展望が開けない者に教誨を施すという意味で、大そう困難な仕事である。教え諭して、結果死刑囚が改心して真人間になったとしても、刑が執行されたらそれまでの話である。すべてが烏有に帰し、徒労に終わる。シーシュポスの神話のようだ。それでも渡邉氏は誠実に死刑囚と向き合う。その姿が感動を呼ぶ。ここでは死刑囚の諸相が描かれているが、自分の罪に対する向き合い方も、刑に対する反省度も色々である。死刑になるような人間は反省などしない。仮に釈放されれば必ず犯罪を犯すという発言をよく聞くが、善人と悪人がいて、悪人は善人に変わることはことはないのか。宗教はそれに力を貸すことは可能か等々、非常に難しいテーマである。

 さて教誨師として最もつらいのが、死刑囚の死刑執行である。東京拘置所では昭和41年から16年ぶりに死刑執行が再開された。死刑は国家による殺人で、これを禁止している国も多いが、日本は実施している。国民にアンケートをとると賛成が反対を上回るらしい。また遺族感情を踏まえると廃止できないという意見もある。決定するのは法務大臣で、彼は書類にハンコを押すだけ。官僚のトップは刑場に赴くことはなく、死刑に対する精神的負荷は刑場の係官に比べると少ない。死刑執行を実施する人間のストレスは想像以上で、体調を崩す者も多い。留置所から刑場に連れて行く者、首に縄をかける者、踏板を外すボタンを押す者、死を確認する者、棺桶へ入れる者等々。死刑を執行するシステムはまさに官僚制そのもので、これはジェノサイドの構造と同じい。上官はなるべく殺人の現場を見なくて済みようになっており、割を食うのは下っ端の人間である。全体主義の恐ろしさが死刑執行システムにシンボリックに表れている。

 死刑囚はいつ処刑されるのかという恐怖に怯えながら日々の生活を送るわけだが、これもジェノサイドの現場で繰り返された風景で、既視感がある。ある意味人道に反しているとも言える。私見だが無期懲役の他に終身刑を作ったらどうか。こうすれば再犯の可能性がある者は娑婆に出ることはない。死刑は残酷だ。