読書日記

いろいろな本のレビュー

第三帝国 ウルリヒ・ヘルベルト 小野寺拓也訳 角川新書

2021-04-11 17:11:21 | Weblog
 副題は「ある独裁の歴史」。ナチスドイツの勃興から終焉までを、簡潔にわかりやすく述べて、彼らが犯した暴力の恐ろしさを知らしめる好著である。小野寺氏の訳文もこなれていて読みやすい。独裁者はの統治のために自国民を大量に粛清して政治的正当性を主張することが多い。ソ連のスターリン、中国の毛沢東などがそれに当てはまる。しかしヒトラーはドイツ国外に侵略戦争を仕掛けて、他国民を大虐殺した。「生存圏」を東方に求めてそこに住む他国民を奴隷にして食糧などを確保するという発想で、ポーランド侵攻やソ連に対するバルバロッサ作戦が実行された。

 ヒトラーによれば、ポーランドは農業中心の従属地域として、圧倒的に農民人口の多いドイツの植民地となるべきであった。戦闘行動の一週間前に国防軍の司令官たちに彼が宣言した言葉は、「中心はポーランドの絶滅。目標は存在する諸勢力の除去。同情に対しては心を閉ざす。容赦ない行動。8000万人の人々(ドイツ人)がみずからの権利を手にしなければならない。その存在が保障されなければならない。正しいのは強者、最大級の非情さ。」ナチスの暴力の根源がここにある。この目標を遂行するために特別に作られたのが、ゲシュタポ、刑事警察、親衛隊の情報機関である保安部からなる行動部隊であった。彼らはポーランドの政治的・知的指導者、とりわけ知識人と政治指導部、高位聖職者を殺害する任務を与えられた。開戦直後、これらの部隊が国防軍部隊やポーランドに住む民族ドイツ人の活動家たちとの協力のもと拘束や射殺を開始し、1939年10月末までに2万人のポーランド人が殺害されている。

 ポーランドはナチの侵攻を受けると同時にソ連にも侵攻され、両国に占領された。その中で、ポーランド軍の将校、国境警備隊員、警察官など22000人が行方不明になる事態が起こった。後に1941年独ソ戦が始まると、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜は全て釈放され、ポーランド人部隊が編制されることになった。しかし集結した将校は1800人に過ぎず、ポーランドは改めて捕虜釈放をソ連に求めたが、ソ連は釈放したが事務や輸送の問題で滞っていると曖昧な返事を繰り返した。実はポーランド人将校らはスモレンスク近くのカチンの森で、殺され埋められていたのだ。1943年2月27日ドイツ軍はこの情報をキャッチして、実地調査をして確認した。ソ連は最初ドイツ軍の仕業だと、しらを切っていたが、後にソ連のソビエト内部人民委員会(NKVD)によって銃殺されたことが分かった。これを「カチンの森事件」という。ソ連は将来ポーランドを支配しやすいように将校や、警官、聖職者などのインテリを抹殺しようとしたのである。恐ろしい話である。ポーランドにとってはソ連とナチはまさに前門の虎後門の狼であった。

 そしてポーランド占領により、ヨーロッパでは最大の規模を誇っていた200万人を超えるユダヤ人が、ドイツの手に落ちた。しかしこのユダヤ人たちにどのような対応を取るか、この時点では具体的な計画は存在しなかった。しかし、実際には1939年9月以降、ポーランド系ユダヤ人に対する差別や暴力が始まっており、1940年1月の段階で彼らは完全に権利を剥奪されていた。後にアウシュビッツなどの強制収容所に送られ虐殺されるのだが、先述の「最大級の非情さ」が発揮されることになる。

 1941年のソ連侵攻、いわゆる「バルバロッサ作戦」は敵の政治システムを殲滅するためのものであった。ナチは共産主義をユダヤ人の仕業と見ていたため「ボルシェヴィズムの絶滅」は当初から「ユダヤ人の絶滅」を意味していた。一部のユダヤ人によって支配されたボルシェヴィキの支配層を排除すれば、ソ連全体を倒すのに十分だろうと考えた。しかしこれは事実誤認も甚だしく、敵を軽く見すぎた結果、敗戦に向かうことになる。しかしこの間、ソ連に対する絶滅作戦によって無辜の農民・市民の犠牲者は膨大な数にのぼった。これが後の赤軍のドイツ市民に対する暴力になって跳ね返ってくる。その詳細は本書後半に書かれており、戦争による領土獲得の愚を実感させられる。戦争による暴力の残虐さを今一度肝に銘じることが必要だ。