読書日記

いろいろな本のレビュー

茗荷谷の猫 木内昇 文春文庫

2023-07-08 14:13:43 | Weblog
 本書は幕末から昭和にかけて生きた名もなき市井の人々を描いた九編の短編からなる小説集だ。舞台が、巣鴨、品川、茗荷谷、市谷、本郷、浅草、池袋、池之端、千駄ヶ谷で、江戸~東京の風物詩という感じ。本書の腰巻に第八編の「手のひら」が2011年のセンター試験の追試問題に出題されて、過去問を解いた受験生を感動させたと宣伝しているので読んでみた。

 時代は昭和三十年代の東京、夫と二人暮らしの佳代子は田舎から上京してくる母と二年ぶりの再会を果たし、銀座、浅草、日本橋を案内する話。田舎の親を東京に呼んで案内するという話はたくさんあり、特に珍しくはない。たいてい親の都会慣れしない言葉や動作が、呼んだ息子や娘の羞恥心を表面化させるという設定だ。黒島伝治の小説や、小津安二郎の「東京物語」などを例として挙げることができる。子供もほんの少し前まで田舎者だったが、二、三年の都会生活ですっかり田舎者を上から目線で見るようになるのが面白い。

 センター試験追試の問題は、娘の佳代子と母のやり取りを心理的に分析して正しい選択肢を選ばせるという趣向である。田舎者の母と元田舎者の娘の心理的葛藤を読み取るわけだが、基本はわかりやすいので、逆に設問の仕方が難しい。第一問は、東京見物の前日、娘の家で娘の夫と食事しているときに、母がカエルの鳴くようなゲップをしたことについて。「母は愕然とした様子で口を押え、それから黙ってうつむいた」とあるが、この時の母の内面についての説明で最も適当なものを選べというもの。正解は「食事中にゲップをするという若い頃には決してしなかったはずの不作法が自分のことながら信じられず、娘夫婦の手前いたたまれなさを感じている」で、これはまあできるだろう。

 第二問は、母親がちびた下駄を履いていたので、新しいのを買い替えてあげようという娘の申し出を勿体ないと断り、甘味処で休みましょうという申し出も断ってしまい、一人で娘の昔話に興じる記述に続く「ちびた下駄の音がからからと空疎だった」についての設問。この「下駄の音」に対して佳代子はどのような感慨を抱いているかを選ばせるもの。これは難しい。正解は「人々の価値観のずれや老いをあらわにしてしまう東京に響く下駄の音に寂しさを覚え、東京を案内して母親を喜ばせようとする自分の思いが届かず、屈託なく昔話をする母の気持ちとの食い違いをかみしめている」である。「からからと空疎」をどうとるかがポイントか。

 第三問は、翌日上野公園の不忍池に行く場面。母は外食は勿体ないからと、おにぎりと日水のソーセージを二本包んで出かけたが、途中で通行人にぶつかり、ソーセージがポロリと風呂敷包みから落ちてしまった。これで佳代子の怒りが爆発、「そんなちびた下駄履いてちゃダメじゃない!こんなところでおにぎりなんか、みっともないんだわ」 佳代子は大声で泣きだしたかった。この小説の山場である。ここで「母を責める言葉が、止まらなかった」の部分について、佳代子の内面にの説明として適当なものを選べ、という設問。正解は「母をもてなそうとする思いが空回りしてしまい、意思疎通がうまくいかない状況へのいらだちを募らせる一方、佳代子は都会で暮らす歳月の中で変わってしまった自分と置いた母との関係を適切に結びなおすことができず、この事態に対応するすべを見いだせないまま混乱した感情を抑えられないでいる」で見事にこの小説の主題を言い当てている。

 あとは割愛するが、センター試験の作問は相当の技量が求められるが、よくできていると思う。廃止されたのは残念というしかない。