読書日記

いろいろな本のレビュー

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 管賀江留郎 洋泉社

2016-10-22 09:11:17 | Weblog
 著者名の管賀江留郎は「かんが えるろう」と読むらしいが、「考えるろう」の洒落かと思われる。実名を出すことが憚られる事情があるのだろう。著者プロフイールに「少年犯罪データベース主宰」とある。
 本書の前半は1941~42年と1950年に起こった兇悪殺人事件(浜松事件と二俣事件)についての細かな説明である。そしてそれが冤罪であり、首謀したのが静岡県警の紅林麻雄刑事で拷問によって自白を強制していたことが分かった。しかし紅林は犯人逮捕の功績によって捜査功労賞を受け、名刑事として君臨し、冤罪事件を重ねていくことになる。その間、警察内の紅林の操作方法に対する批判、遺族の状況、真犯人逮捕に至る状況などが細かく描かれる。これが「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」というタイトルとどういう関係があるのかわからなかったが、後半の第13章、421ページからやっとその説明に入る。
 冤罪加害者の紅林刑事は転落の後、耐えがたい境遇で憔悴しきったあげくに脳梗塞で頓死した。一方冤罪被害者の家族も無罪が確定しているにもかかわらず、世間から白い目で見られ、苦難の人生を送らざるを得なくなっている。このような「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」がどうして形成されるのか。その拠り所として著者が持ってきたのがアダム・スミスの『道徳感情論』である。スミスはこの中で、「利害関係がまったくないはずの他人の喜びや悲しみに対する<共感>を持つことが人間の本性だ。どんな悪人であっても<共感>をまったく持たないということはない。これが社会を動かしている原理だ」と述べている。人間は他人を見ただけではその感情は判らないので、他人の立場を自らに置き換えて感情移入する。自分の感情も他人に<共感>してもらいたいと欲する。これが犯罪被害者に同情し、またまるで身内が被害にあったかのように犯人を憎む源泉となる。それが周りの人たちの感情とも<共感>して先述の「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」は大きくなっていくのだ。それをコントロールするのが「公平な観察者」としての立場である。
 著者はこのような「道徳感情」が形成されるメカニズムを進化生物学、認知科学等の知見をもとに解明しているが、非常に興味深い。私にとって新しい知見が沢山あった。そして殺人の原理について次のように言う、戦場で英雄になりたいという華々しいものから、バカにされたのでカッとしたという詰まらないものまで、殺人はむしろ自分の〈評判〉のために行なわれることが多い。バカにされて黙っていれば〈評判〉が落ち、〈評判〉が落ちると自分にとって致命傷になると考えるからこそ、リスクやコストが大きいにも関わらず相手を殺そうとするのである。〈評判〉を気にしないものは、こんな無意味な殺人は犯さないと。この〈評判〉は世間的にどう評価されるかということだが、この世間がなかなか難敵で、息苦しい対象でもある。最近、寄り添って、共感することが流行りだが、少しズレると「善意」が暴走するリスクが生じる。アダム・スミスの「公平な観察者」が要請される所以である。