今年2/27の記事の中の「『どうも今川氏真にとっては井伊谷の領主が男であろうが、女であろうがそんな事はかまわなかった』と言う状況を想定できる事がわかって来ました。
それは何の事は無い、『今川氏真により都合の良い家臣に首を挿げ替える事』です。」 と言う部分、そして、3/1の記事の中の「井伊直親が1563年に討ち死し、同年に曽祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死してから、1565年に直親の娘である次郎法師が当主となるまで少し空白の期間が有ります。
そしてこの期間の初期である1563年には新野親矩も生きていたわけで、これから考えれば、井伊直親が1563年に討ち死にした後、1565年に直親の娘が当主となるまでの短期臨時当主として新野親矩の甥が代行していた可能性が或いは有るのかも知れません。
その場合、直親の娘が当主となって以降に新野親矩の甥と書かれた人物がどうなったのか、と言うのはわかりません。
今後、何か資料が出て来るでしょうか。」と言う部分ですが、関連すると思われるニュースが有りました。
引用開始(一部抜粋)
http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170411000003
「おんな城主 直虎」男説補強 京都で江戸後期の新史料発表
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・井伊直虎は井伊家の女性でなく、戦国大名の今川家から送り込まれた別人の男性だったことを示す2例目の文書を見つけた、と井伊美術館(京都市東山区)が10日、発表した。
現在有力な説では、井伊直盛の娘次郎法師が直虎を名乗り、戦国時代に遠江(とおとうみ)国(静岡県西部)の井伊谷(いいのや)を支配したとされる。同館は昨年12月にも、所蔵する彦根藩家老木俣(きまた)家の文書を基に、直虎は別人の男性と発表した。
今回の文書は、同館所蔵の「河手家系譜」。河手家は彦根藩の重臣だったが、本家筋は江戸前期に断絶し、1853(嘉永6)年に再興された。系譜は、分家筋の子孫良旭が1830(文政13)年までに記し、その子良寛が他の文書を引用して追記したという。
同館によると、直虎に関する記述は全て追記で、2カ所に「直虎」の名が読める。「次郎」や「井伊次郎」とも記され、前後の内容から、この「直虎」と同一人物とする。また河手家の先祖景隆(かげたか)について「景隆、井伊次郎に属す。この次郎は御家(井伊)の者ではない。今川のものなり」との記述があった。景隆は、女性の次郎法師を後見したとされるが、その次郎法師は直盛の娘だと朱で追記されていた。系譜の筆跡は、比較する史料がなく鑑定はできないという。
引用終了
井伊直親が1563年に討ち死にした後、1565年に直親の娘が当主となるまでの短期臨時当主としてやはり新野親矩の甥が代行していた可能性が高いのでしょうか。
そしてもう一つ。
引用開始(一部抜粋)
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%81%8a%e3%82%93%e3%81%aa%e5%9f%8e%e4%b8%bb%e3%80%8d%ef%bc%9f%e4%ba%95%e4%bc%8a%e7%9b%b4%e8%99%8e%e3%80%81%e9%80%9a%e8%aa%ac%e3%82%88%e3%82%8a%ef%bc%91%ef%bc%94%e5%b9%b4%e6%97%a9%e3%81%8f%e6%ad%bb%e5%8e%bb%e3%81%8b-%e4%ba%ac%e9%83%bd%e3%83%bb%e4%ba%95%e4%bc%8a%e7%be%8e%e8%a1%93%e9%a4%a8%e3%81%8c%e7%99%ba%e8%a1%a8/ar-BBzH8f9
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・井伊直虎について、永禄11(1568)年に討ち死にしたことなどが追記された古文書が見つかったと、井伊美術館(京都市東山区)が発表した。
(中略)
この中の文政13(1830)年に書かれたページで、河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記。この「井ノ直虎」の隣に「次郎也」と朱色の文字が付け加えられていた。
次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」として、今川家滅亡のきっかけとなった徳川家康らの今川領侵攻で直虎が討ち死にした、と書かれていた。直虎は文献から一般的に、天正10(1582)年に井伊谷(静岡県浜松市)で死去したとされていた。
引用終了
この資料の信憑性は時代がかなり後の資料なので何とも言えませんが、仮にこの資料が正しいとすると、1568年に討ち死したのは新野親矩の甥で、しかも1565年迄ではなく、1568年まで井伊直虎として領主となっていた、とも考えられるようになって来ます。
駿河崩れの時に井伊直盛の娘が討たれたと筆者は考えにくいです。
そして徳川方に討たれたのは今川方から送り込まれた領主である新野親矩の甥だったのではないでしょうか。
では井伊直盛の娘である「女城主」はどこにいたのか?
多くケースが想定されますが、一つは領主ではないが城内の要職にあり、「次郎」と言う「次期当主」として存在していた、もう一つは龍潭寺などにいた、もう一つは家康に匿われていた、と言った事などではないでしょうか。
裏付けとなる資料はあまりにも少なく、真相はわかりません。
ただ一つ言えるのは、以前にも書いた通り、明応地震で井伊谷とその周辺が東海道の主要ルートになって行った事で家康は井伊氏を重要視した事、家康について行った井伊氏が、その後に家康が天正地震を契機に秀吉に逆転して力を増して行った事などから、井伊氏もまた松平氏(徳川氏)同様に、自然災害が事もあろうに勢力拡大を後押しした、と言う事でしょうか。
それは何の事は無い、『今川氏真により都合の良い家臣に首を挿げ替える事』です。」 と言う部分、そして、3/1の記事の中の「井伊直親が1563年に討ち死し、同年に曽祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死してから、1565年に直親の娘である次郎法師が当主となるまで少し空白の期間が有ります。
そしてこの期間の初期である1563年には新野親矩も生きていたわけで、これから考えれば、井伊直親が1563年に討ち死にした後、1565年に直親の娘が当主となるまでの短期臨時当主として新野親矩の甥が代行していた可能性が或いは有るのかも知れません。
その場合、直親の娘が当主となって以降に新野親矩の甥と書かれた人物がどうなったのか、と言うのはわかりません。
今後、何か資料が出て来るでしょうか。」と言う部分ですが、関連すると思われるニュースが有りました。
引用開始(一部抜粋)
http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170411000003
「おんな城主 直虎」男説補強 京都で江戸後期の新史料発表
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・井伊直虎は井伊家の女性でなく、戦国大名の今川家から送り込まれた別人の男性だったことを示す2例目の文書を見つけた、と井伊美術館(京都市東山区)が10日、発表した。
現在有力な説では、井伊直盛の娘次郎法師が直虎を名乗り、戦国時代に遠江(とおとうみ)国(静岡県西部)の井伊谷(いいのや)を支配したとされる。同館は昨年12月にも、所蔵する彦根藩家老木俣(きまた)家の文書を基に、直虎は別人の男性と発表した。
今回の文書は、同館所蔵の「河手家系譜」。河手家は彦根藩の重臣だったが、本家筋は江戸前期に断絶し、1853(嘉永6)年に再興された。系譜は、分家筋の子孫良旭が1830(文政13)年までに記し、その子良寛が他の文書を引用して追記したという。
同館によると、直虎に関する記述は全て追記で、2カ所に「直虎」の名が読める。「次郎」や「井伊次郎」とも記され、前後の内容から、この「直虎」と同一人物とする。また河手家の先祖景隆(かげたか)について「景隆、井伊次郎に属す。この次郎は御家(井伊)の者ではない。今川のものなり」との記述があった。景隆は、女性の次郎法師を後見したとされるが、その次郎法師は直盛の娘だと朱で追記されていた。系譜の筆跡は、比較する史料がなく鑑定はできないという。
引用終了
井伊直親が1563年に討ち死にした後、1565年に直親の娘が当主となるまでの短期臨時当主としてやはり新野親矩の甥が代行していた可能性が高いのでしょうか。
そしてもう一つ。
引用開始(一部抜粋)
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%81%8a%e3%82%93%e3%81%aa%e5%9f%8e%e4%b8%bb%e3%80%8d%ef%bc%9f%e4%ba%95%e4%bc%8a%e7%9b%b4%e8%99%8e%e3%80%81%e9%80%9a%e8%aa%ac%e3%82%88%e3%82%8a%ef%bc%91%ef%bc%94%e5%b9%b4%e6%97%a9%e3%81%8f%e6%ad%bb%e5%8e%bb%e3%81%8b-%e4%ba%ac%e9%83%bd%e3%83%bb%e4%ba%95%e4%bc%8a%e7%be%8e%e8%a1%93%e9%a4%a8%e3%81%8c%e7%99%ba%e8%a1%a8/ar-BBzH8f9
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・井伊直虎について、永禄11(1568)年に討ち死にしたことなどが追記された古文書が見つかったと、井伊美術館(京都市東山区)が発表した。
(中略)
この中の文政13(1830)年に書かれたページで、河手家の人物を紹介する文章の行間に、墨字で「井ノ直虎は幼かったので河手が補佐した」と追記。この「井ノ直虎」の隣に「次郎也」と朱色の文字が付け加えられていた。
次の行には、墨字で「永禄11年の駿河崩れの時、落ち延びる直虎が討ち死にした」として、今川家滅亡のきっかけとなった徳川家康らの今川領侵攻で直虎が討ち死にした、と書かれていた。直虎は文献から一般的に、天正10(1582)年に井伊谷(静岡県浜松市)で死去したとされていた。
引用終了
この資料の信憑性は時代がかなり後の資料なので何とも言えませんが、仮にこの資料が正しいとすると、1568年に討ち死したのは新野親矩の甥で、しかも1565年迄ではなく、1568年まで井伊直虎として領主となっていた、とも考えられるようになって来ます。
駿河崩れの時に井伊直盛の娘が討たれたと筆者は考えにくいです。
そして徳川方に討たれたのは今川方から送り込まれた領主である新野親矩の甥だったのではないでしょうか。
では井伊直盛の娘である「女城主」はどこにいたのか?
多くケースが想定されますが、一つは領主ではないが城内の要職にあり、「次郎」と言う「次期当主」として存在していた、もう一つは龍潭寺などにいた、もう一つは家康に匿われていた、と言った事などではないでしょうか。
裏付けとなる資料はあまりにも少なく、真相はわかりません。
ただ一つ言えるのは、以前にも書いた通り、明応地震で井伊谷とその周辺が東海道の主要ルートになって行った事で家康は井伊氏を重要視した事、家康について行った井伊氏が、その後に家康が天正地震を契機に秀吉に逆転して力を増して行った事などから、井伊氏もまた松平氏(徳川氏)同様に、自然災害が事もあろうに勢力拡大を後押しした、と言う事でしょうか。