本能寺の変が起きた時、秀吉は備中高松城を水攻めしている最中でした。
この後すぐに秀吉は毛利氏と和睦して中国おお返しが可能となったわけですが、この和睦交渉の際、安国寺恵瓊に対して秀吉は毛利方重臣の殆どが秀吉(つまり織田方)へ同心する(つまり内通する)内容が書かれた連判状を見せた、と言う旨の事が、毛利家家臣である玉木吉保の日記「身自鏡」に書かれています。
この点については以前の記事でも書きましたが、これが何を意味するのか?と更に追跡して事象分析して行くと、「秀吉か或いは秀吉方の重臣らもまた毛利氏へ同心する内誓紙、或いは連判状を書いていた可能性が有る」と言う事ではないか、と考えるようになりました。
理由は単純です。
「身自鏡」に書いてある旨の通りに、毛利方重臣の殆どが秀吉(つまり織田方)へ同心する(つまり内通する)内容が書かれた連判状を書いているのならば、「その中の誰一人として主君である毛利輝元にこの件を相談しなかったと言う事など有り得ない」はずだからです。
必ず、家臣の少なくとも一人はこの事を毛利輝元に相談していたはずではないでしょうか。
つまり「毛利輝元は秀吉によるこうした連判状、内誓紙で敵方の家臣を内通させる調略方式を知っていたはずであり、ならば毛利氏方もまた秀吉か或いは秀吉方の重臣らも毛利氏へ同心する内誓紙か或いは連判状を書かせようとして、あらゆる手段を講じていた可能性も高い」、と言う事なのかと思えるのです。
だとすると「身自鏡」には書かれていないものの、秀吉か秀吉方の家臣が毛利方へ内通している証拠、つまり弱みを毛利方に握られていて、それを信長に知られたらオワリだと秀吉やその家臣らが恐れていた事も当然有り得るわけです。
仮にいずれそれがバレてしまうのならば「秀吉勢が毛利方に内通していないように見せかける為にはアリバイ工作に信長に援軍要請をする事、とそしてその織田勢がその準備をして京都を離れている最中に信長を討ってしまわないといけない」となるのではないでしょうか。
また明智光秀が秀吉のこの怪しさを見抜いて(或いは足の引っ張り合いも?で)毛利援軍を信長に進言した、と言う考え方については以前の記事で書きましたが、このロジックならば辻褄が合う事になります。
いずれにしても本能寺の変が起きた後に、首謀者とされている明智光秀自身が信長の首を確認できずに中途半端な対応しかできない状況になった、にもかかわらず中川清秀が「信長が落命した」旨の連絡をかなりの速さで秀吉に伝え、そして信長が決して許すはずもない「毛利氏との和睦」を秀吉が勝手に迅速に結び、更に中国おお返しをして明智勢に山崎の戦いで大勝したと言うのは「やはりなあ」としか思えないのですが、真相はどうだったのでしょう。