明智光秀が惨敗した山崎の戦いですが、この地を決戦の場に選んだのは明智光秀だったするのが通説のようです。
確かに大山崎あたりが隘路になっているため豊臣勢がここを通る時に兵が細長くなるわけで、その出口である東黒門で待ち構えていたり、更にその東の円明寺川あたりで迎撃すればかなりの戦果を得られたと思われます。
ところが何故か明智勢は無防備のまま、大山崎の東黒門を叩いて開けさせようとしたようで、そこを高山右近の部隊が突然に東黒門を開けて明智勢を急襲した、と言うのがこの戦闘の勝敗をわける大きな要因だったようです。
明智勢がなぜ無防備のまま(仮に有る程度は防備していたら高山右近側の戦死者が1名だけなどと言う事は有り得ない)東黒門を叩いたのか?については今も謎なのですが、明智光秀は大山崎の街が高山右近らに占拠されているとは知らなかったからなのか? 或いは大山崎の街に高山右近勢がいるのはわかっていたものの明智方に加勢すると思い込んでいたからなのか? このあたりは良くわかっていません。
ただせっかくこの隘路を利用して戦闘を有利に進めようとしたにもかかわらず、この街のサイドにあたる桂川と淀川の河川敷に何の柵も設けていなかったようなのはどうも気になります。
ここに通常の柵、或いは馬防柵などが有れば、池田恒興らの部隊にあのようにいとも簡単に進軍されなかったはずなのです。
数々の戦闘で熟練していた明智光秀が何故このあたりの防御を固めなかったのか?と言うのはかなり謎めいているように思えますが、もしかするとやはりこれは高山右近らが明智方に加勢すると思い込んでいたからなのでしょうか。
ルイス・フロイスの書いた史料でには「秀吉は山崎の戦いには到着できず間に合わなかった」と言う旨の記述がありますが、これは「山崎に到着しようとしたができなかったから」なのか? それとも「山崎には到着できたが敢えて大坂あたりまでしか到着していないように偽装した」のか? となるわけです。
仮に後者の偽装方式だったとすると、明智光秀は高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀らに援軍を送ろうとして応援部隊を大山崎の街を通過させようとして東黒門を無防備に叩いた、と言うロジックにもなって来るわけで、そうすると桂川や淀川の河川敷が無防備だったのも理解できて来るわけです。
秀吉は未だ大坂あたりにしか来ていないと言う偽装工作で明智光秀を誘き出したのかも知れません。
確かに大山崎あたりが隘路になっているため豊臣勢がここを通る時に兵が細長くなるわけで、その出口である東黒門で待ち構えていたり、更にその東の円明寺川あたりで迎撃すればかなりの戦果を得られたと思われます。
ところが何故か明智勢は無防備のまま、大山崎の東黒門を叩いて開けさせようとしたようで、そこを高山右近の部隊が突然に東黒門を開けて明智勢を急襲した、と言うのがこの戦闘の勝敗をわける大きな要因だったようです。
明智勢がなぜ無防備のまま(仮に有る程度は防備していたら高山右近側の戦死者が1名だけなどと言う事は有り得ない)東黒門を叩いたのか?については今も謎なのですが、明智光秀は大山崎の街が高山右近らに占拠されているとは知らなかったからなのか? 或いは大山崎の街に高山右近勢がいるのはわかっていたものの明智方に加勢すると思い込んでいたからなのか? このあたりは良くわかっていません。
ただせっかくこの隘路を利用して戦闘を有利に進めようとしたにもかかわらず、この街のサイドにあたる桂川と淀川の河川敷に何の柵も設けていなかったようなのはどうも気になります。
ここに通常の柵、或いは馬防柵などが有れば、池田恒興らの部隊にあのようにいとも簡単に進軍されなかったはずなのです。
数々の戦闘で熟練していた明智光秀が何故このあたりの防御を固めなかったのか?と言うのはかなり謎めいているように思えますが、もしかするとやはりこれは高山右近らが明智方に加勢すると思い込んでいたからなのでしょうか。
ルイス・フロイスの書いた史料でには「秀吉は山崎の戦いには到着できず間に合わなかった」と言う旨の記述がありますが、これは「山崎に到着しようとしたができなかったから」なのか? それとも「山崎には到着できたが敢えて大坂あたりまでしか到着していないように偽装した」のか? となるわけです。
仮に後者の偽装方式だったとすると、明智光秀は高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀らに援軍を送ろうとして応援部隊を大山崎の街を通過させようとして東黒門を無防備に叩いた、と言うロジックにもなって来るわけで、そうすると桂川や淀川の河川敷が無防備だったのも理解できて来るわけです。
秀吉は未だ大坂あたりにしか来ていないと言う偽装工作で明智光秀を誘き出したのかも知れません。