以前の記事でも書きましたが、石見銀山は100万石相当、これが御料地、即ち天皇、公家直轄領としてもその一括管理収益としての想定石高はおそらく50万石前後、更に出雲、石見の農産物などの石高を考えれば少なく見積もって20~30万石、多めに見積もって30~50万石、そしてそれだけではなく、宍道湖のシジミや日本海側の水産物などが農産物のように天候異変などに殆ど左右されずに収益が期待できるとして年間10~30万石と想定できなくも有りません。
そして、当時はエンジンを積んだ船は無く、手漕ぎか帆船であり太平洋側は危険な航路、日本海側はそれに比べればかなり安全な航路だったのでその交易利権の価値が無視できません。
当時の帆船や手漕ぎの船の能力と近代以降の動力船の能力をごちゃ混ぜにしてはいけません。
これらを総合すると出雲、石見は70~100万石相当、更に当時の信長は中国、朝鮮進出も考えていたようなので、その軍事物資や交易の拠点として、日本海航路の出雲石見は相当な価値が有ったと考えられるのです。
総じて考えると、本能寺の変直前の明智光秀の所領の実質石高と言われる約20~30、或いは30~40万石前後に比べれば、相当な加増となるわけで、出雲、石見への国替え案を信長から指示された事に光秀が不満に思ったとは個人的には到底考えられません。
斉藤利三が本能寺の変の首謀者となったと筆者も見ている理由は、寧ろ「四国征伐を進めようとし、光秀に出雲、石見への国替え指示した信長に、喜んで加増を夢見て追従した光秀について行けなくなり、例え光秀の立場が悪くなろうが知った事ではない、と斉藤利三が離反した」、と考えるべきではないかと筆者は考えています。
そして、当時はエンジンを積んだ船は無く、手漕ぎか帆船であり太平洋側は危険な航路、日本海側はそれに比べればかなり安全な航路だったのでその交易利権の価値が無視できません。
当時の帆船や手漕ぎの船の能力と近代以降の動力船の能力をごちゃ混ぜにしてはいけません。
これらを総合すると出雲、石見は70~100万石相当、更に当時の信長は中国、朝鮮進出も考えていたようなので、その軍事物資や交易の拠点として、日本海航路の出雲石見は相当な価値が有ったと考えられるのです。
総じて考えると、本能寺の変直前の明智光秀の所領の実質石高と言われる約20~30、或いは30~40万石前後に比べれば、相当な加増となるわけで、出雲、石見への国替え案を信長から指示された事に光秀が不満に思ったとは個人的には到底考えられません。
斉藤利三が本能寺の変の首謀者となったと筆者も見ている理由は、寧ろ「四国征伐を進めようとし、光秀に出雲、石見への国替え指示した信長に、喜んで加増を夢見て追従した光秀について行けなくなり、例え光秀の立場が悪くなろうが知った事ではない、と斉藤利三が離反した」、と考えるべきではないかと筆者は考えています。