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仕組みとアプローチ -  明智光秀と本能寺の変 水野監物守隆の親族が信忠と共に二条新御所にいたと言う話

2018-05-31 22:21:32 | 明智光秀
 今月30日の記事で書いた水野監物守隆の水野氏ですが、もう一人の水野氏、水野忠重が本能寺の変の時に織田信忠と共に二条新御所にいたと言う事のようです。
 そして脱出に成功。
 
引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D

水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。水野忠政の九男。母は華陽院。子に水野勝成、水野忠清、清浄院(加藤清正継室)。徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。法名は賢忠。道号は勇心[1]。

(中略)

三方ヶ原の戦いの時も軍功を顕し、家康より兜と鎧を賜った[5]。これは家康の影武者を務めていたのではないか、と考えられている[6]。

(中略)

天正10年(1582年)2月、信忠の甲州征伐に従軍。武田滅亡ののち、信長を三河池鯉鮒にて饗宴している[9]。

同年6月、本能寺の変が起こると、信忠と共に二条城にあったが脱出して三河国刈谷に逃げ戻り、以後は織田信雄に属した。

引用終了

 家康の親族であり容姿も似ていたのか、どうも家康の影武者もしていたようです。
 明智軍が二条新御所に攻め入った時も、脱出に成功。通常では脱出は不可能な状況と思われるのにです。
 家康の影武者をする位に容姿がにていたのに明智方が取り逃がした事について、これが何を意味するかと言われれば、「明智方は家康や水野氏を討つつもりは最初から無かったどころか救出するつもりだった可能性が高い。」と言う事になるのかも知れません。
 この時に二条新御所から脱出に成功したもう一人が織田長益、あの有楽斎との事です。
 水野氏は「親族が片方は明智光秀と一時でも同行、片方は織田信忠と同行していた」と言う事、更に「織田信忠も明智光秀もまもなく戦死したのに水野氏の二人は生き残っていた」と言う事。
 そしてあの「桶狭間の戦い」が起きた場所が当時は水野信元の所領だったと見られている事。
 歴史を変える大きな2つの出来事に何故か水野氏が登場しています。


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