武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

星の地下鉄(色鉛筆作品637)と 旧約聖書と西洋絵画

2021-10-02 10:19:48 | Weblog

中央に黒い星が、ドーンと描いてあります。

不自然と思うくらいに。

だけど、この絵は「地下鉄」です。

武内とは、長年一緒にいるせいか、「地下鉄」のテーマの絵はすぐ分るんです。

地下鉄が一瞬地上に出ることがあると思いますが、その瞬間の図。

なんだか偉そうな雰囲気。

子供が描いたような絵に思えるが、

子供がこんな絵を描いたら怖いと思うのです。

玄関先に、地面に歯ブラシを埋め、歯ブラシが樹立する林が我家にはありました。

子供絵画教室に来る生徒達に、

「何でハブラシが埋めてあるの?」と、質問攻めでした。

「私がしたのじゃない。パンジー(パンツ爺←こう呼ばれていた)が、したんです。」

「パンジーに聞いて下さい。」と言うと、

あの人ならやりかねんと子供心に思ったのか、

急にシーンとして、わかったという顔に変わる。

私は、内心「うちの旦那のことをどう思っているのか?」と、ちょっと不服であった。

「理解するなよォ~。」と。

こういう不条理な気持ちが、この絵を見ていると湧いてきます。

こういう構図の絵って、あまり見たことがない。

又、黒に映える赤い色は、夕焼けみたいで、どこか懐かしい気持ちもする。

本質は、おセンチな人なので、絵柄が突飛でも、

どこかに郷愁とか、夕焼けの寂しさとかはかなさを見て取るのでした。

「この夕焼け見て。」という、武内の声がどこからともなく聞こえてきます。

 

 

読書の秋。

ギリシャ・ローマ神話、アーサー王物語という流れから、聖書も読んでみようと。

絵画でも文学でも欧米のものは、聖書を抜きにしては理解し難いと言われている。

絵を観てもイマイチわからないまま、雰囲気だけで終わっているものがある。

ヒロクニさんに、その旨を言うと、

「いやァ、今ひとつ関心が持てない分野なんよ。」と答えが返ってきた。

キリスト教のことを“耶蘇(ヤソ)”と呼び、クリスマスのカードの仕事はいつもちぐはぐな絵。

クリスマス関連の仕事は、次々干されて、仕事は来なくなりました。

これに関しては、迷惑をおかけしても・・・と思っているので、

向こうもいい判断をされていると思っています。

未だに、「クリスマスって何なの?」と言うし、

イエス・キリストにも全く興味がないようです。

私は、物語が好きなので、聖書も物語として読むことにしました。

 

まず旧約聖書を手に取りました。

旧約聖書が繰り広げられる地域というのは、狭く、今で言えば、

シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、イラク、エジプトのあたり。

川で言えば、チグリス川、ユーフラテス川周辺。そして、スエズ運河。

また、地中海の東に面しています。地中海に面しているということから、ローマに比較的に近かったのだと。

神は「ヤハウェ」といい、自己紹介のようなところで「そこに在るものである」と語る。

アダムとイブ、サムスンとデリダでは、女ちゅうのはろくでもないことを企むというか、

目の前のことを優先する生き物だと思い、女である私は自戒するのでした。

イブが禁断の木の実をへびにそそのかされて食べてしまい、2人は楽園の外の世界へ。

↑この絵は、ルーカス・クラナッハ。(1526年作)

ルネッサンス期のドイツの画家によるもの。

このルーカス・クラナッハは、「アダムとイブ」の絵を数多く描いています。

この画家の描く女性の顔が、とても好きで画集を見るとそれをジーと眺めています。

 

神の加護のあったサムスンは、力を無くして奴隷に。その上、目をくり抜かれる。

「ペリシテ人に目をえぐられるサムスン」

こちらは、レンブラントの絵。バロック絵画。

光と影の画家と言われています。

 

 

ノアの箱舟では、地球を覆う大洪水に備え、神から啓示を受けたノアとその子孫が

大きな船にあらゆる動物をつがいにしてのせてゆく。

↑こちらは、「アララト山に到着したノアの方舟」サイモン・ド・マイルによるもの。

どうも16世紀の画家らしいという事しか分かりません。

過去の有名な画家達に埋もれてしまっている画家かもしれません。

 

洪水が引いていき、陸地が見え、そこを新天地とする。

この後で、外部の民族のエジプト人が出てくるところで、???と。

洪水で人類は滅んで、ノアの子孫しかいないと思うのですが、

いきなりエジプト王のもとに繁栄しているエジプトが出てきます。

あの洪水は、特定の地域のことだったのか?

疑問に思いながら読み進めます。

後に、エジプト人に、イスラエル人は、虐げられる。

モーゼという預言者が、予言によって、そのイスラエル人を引き連れて、エジプトを脱出します。

そこで、海峡を渡る時に海の水が2つに割れ、道が現れます。

このシーンは、映画でもよく見かけるし、とても有名。

↑こちらは、「紅海渡渉」。コジモ・ロッセリ。イタリア、ルネッサンス期の画家。

この絵は波が治まって、追ってであるエジプト軍が海に飲まれている様子。

 

物語には、いつも必ず1人、預言者が登場します。

2人になることはなく、常に1人の預言者がイスラエル人の中にいます。

その予言者は、神の声を聞くことの出来る人物で、神の意思の通りに行いを実行していきます。

政治やもろもろの取り決めをする人は、ずっと預言者が担う。

ただ、その神は“約束”を少しでも破ると、容赦なく懲らしめる。

約束は“契約”という意味合いが強い。

モーゼの話に戻りますが、イスラエル人はエジプトで奴隷のように扱われ、飼い殺し状態でした。

モーゼは、神の意志でイスラエル人の祭りをしたいと申し出ます。

(これが、脱出のきっかけとなる)

エジプト王は「よし。」、と返事をしたけれど、

後から快く思わなかったエジプト王は細かい条件を付け、じゃまをする。

イスラエルの神は、約束違反であるから、非常に過酷な仕返しをエジプトにするのです。

ナイル川の洪水、川の色が血の色にそして腐臭、魚の死と腐敗の臭い、蛙の多量繁殖、ぶよ(蚊に似た虫)の大量発生、おできの病、疫病、ひょうの嵐、イナゴの大群、灼熱地獄、エジプトでのすべての初産の子の大量死。

その仕打ちの容赦なさだけが印象に残り、ここまでするのかと・・。

神“ヤハウェ”は、約束を破るものには、激しく痛めつける。

そして、とにかく疫病神は出て行ってくれと嘆願されるようになり、脱出の契機を掴むモーゼ。

エジプトを出た後は、腰を据え、イスラエル人は侵略に力を入れていく。

「エリコの丘」という小説があったのですが、

エリコというのは、イスラエル軍が落とした城の名前でした。

そういう意味合いがあってタイトルにしていたのか・・・と分かりました。

歴史的的記述は、王の誕生と共に始まります。

サウル王、ダビデ王、ソロモン王。あと続く・・・。

サウル王は、民衆が強い王が欲しい!という望みから、サウルが王に選ばれました。

また、神が民衆の願いを聞き入れ、神が選んだ王でした。

しかし、時の預言者サムエルは、

「王のために奴隷になるようなことがあってもよいのか。

始めはいいかもしれないが、途中で傲慢になった王に使われるようなことになってもいいのか。

そうして、後で過ちだったと気が付いても遅いのだ。その望みは叶えられるだろう。

しかし、後悔もするであろう。しかし、それは叶えられるだろう。」と予言します。

そこから、王の治世が始まります。

 

 

旧約聖書の前半を読み、紀元前1000年頃と同じことが、

今でもパレスチナの辺りでは続いているような錯覚におそわれました。

そして、私は日本人なので、しっとりした雨にあじさいの花を見ると、

いいなァ~という情緒を思い浮かべる。

イスラエル人とは、全く違う情感だと痛感する。

オアシスや砂漠、暑さ、乾いた空気、聖書の中に見る激しい感情。

生存競争が元々激しい場所と地域であったのだろうなと思い、

イスラエル人の気質として沸点が高く、冷めやすい気性が登場人物から見てとれる。

異質な感覚を感じています。

旧約聖書は、イスラエル人の子孫の物語なので、地域的にもパレスチナのあたりに限定され、

イスラエル人意外は、すべて他民族扱いで、物語の範囲の地域はとても狭い。

イスラエルの民は、とにかく“戦う”。

生存がかかっているから、とにかく“戦う”。

まあ、凄いですよ。

「女も子供も、皆殺しせよ。」という神のお告げを預言者が叫ぶ時もあるし、激しい。

ついていけない・・・・・。と思い、途中で本を閉じたりしていました。

生存競争の厳しさを感じる物語なんだと。

ギリシャ・ローマ神話の神は、人間的な要素もあってユーモラスで身近に感じる要素がありますが、

旧約聖書の神は、厳しく、激しく、真面目すぎるような気がしました。

長々と、旧約聖書について、西洋絵画の理解に役立つようであればいいと思いつつ書きました。

ヨーロッパへは、キリスト教の伝播と共に、旧約聖書も普及していったのだろうと想像します。

 

ちなみに、西洋の宗教的な絵は、私にとってはエキゾチズムを感じる絵です。

異国のものに触れる楽しみになります。

最後に、この絵は、知っている方が多いと思いますが、取り上げます。

↑こちらは、「バベルの塔」ピーテル・ブリューゲルの絵。

オランダの16世紀の画家。今でも人気の高い画家。

バベル(balal)というのは、ヘブライ語で、ごちゃまぜ、混乱という意味だそうです。

ある時、「我々の街と搭を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように。我々の為に名をあげよう。」と。

そして、人々は、石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを使った。

それを見ていた神(ヤハウェ)は、

「彼らは、1つの民で、1つの言語を話している。それなら、彼らの言語を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できないように。」と、妨害したのです。

そのためにこの地を“バベル”と名付けられた。そして、人々は全地に散らされた。

「創世記」11章より

この絵は、廃墟となったバベルの地の絵なんですね。

言葉が多様化され、伝達がうまく出来なくなって、作れなくなってしまったというわけです。

隠されたドラマがあったなんて、知ろうと思わなければ、分らなかった。

これには、色々教訓があるようなのですが、解釈を書くとなるほどと思い、

そちらへ考えが言ってしまうので、物語の不可思議さだけを味わいます。

エキゾチズムを感じるだけから、少し前進。

ヨーロッパでは、聖書に裏打ちされた遺産がたくさんありそうです。

文化、思想、芸術においては、特に。

 

■注

文章がかなり、変でしたので、

10月3日。11:33に、追記、訂正をしました。

 

 

旧約聖書を読むと「古事記」に出てくる神様は、話し合いをしたりして、ホッします。

けっこう、ワイワイ、ガヤガヤと話合う。

やっぱり私は、「古事記」がしっくりくると思うのでした。

 

庭では、季節はずれの朝顔が咲いています。

↑青い色だったはずなのに紫色が多く出てしまっています。

↑この朝顔は、早い時間(6:30頃)に撮ったもの。

どうも、暑くなるにしたがって、紫ががるようだと気が付きました。

以前は、ズーと青色だったと思うのですが、種に変化が起こったのでしょうか?

移り変わりゆく時間というものを感じました。

 

いつになく長文になってしまいました。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

 

 

コメント (2)
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