武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

ダンス(色鉛筆作品紹介754)と ウィーン幻想絵画・ヴォルフガング・フッター

2023-11-27 18:35:08 | Weblog

色鉛筆作品。

ドクロを思わせる形は、人なのか?花なのか?

女性の顔が、そのドクロの顔と合体しているのは、ダンスを踊っているから?

老獪な紳士と踊る女性のようにも思えてくる。

音楽は、ワルツか?ラテン音楽か?

伸びやかに描かれた線からは、ゆったりとした空間を感じます。

出来上がったばかりの最近作なのですが、どことなく古風な感じもある。

それは、この絵にある男と女のありようからかもしれない。

骸骨と思って見ていると、退廃的な要素もあるのかもしれないと思えてきます。

顔にある小さい青い丸印が、ホクロに思え、人面の帽子を被った有閑マダムにも思えてきます。

人によって、見方がいろいろありそうな絵だ。

この絵にポイントがあるとしたら、

この画面からリズムを、音楽を感じるところ。

その音楽は、人それぞれにあると思います。

 

 

この絵を見て、「退廃的な要素もあるかもしれない。」と書いた瞬間、

頭の中で“退廃的な絵”って、どんな絵を自身が浮かべるか確認していました。

真っ先に浮かんだのが、「ウィーンの世紀末」の芸術です。

有名なところでは、クリムト(グフダス・クリムト)、エゴン・シーレになります。

クリムトは、性と死。官能の表現に退廃的なものがあります。

エゴン・シーレには、描かれた肉体に退廃が忍び寄って、エロスの中に死を感じさせるものがあります。

わたしは、エゴン・シーレには、痛ましさを感じてしまって、見ていると辛くなる。

素晴らしいと思う前に、辛さが全面的にきてしまい、あまり直視できません。

そう、なるべく見ないようにしている絵なのです。

この2人が代表する「ウィーン世紀末」の画家ですが、

「ウィーン幻想派」という片隅にある画家を取り上げたいと思います。

ウィーン世紀末の芸術の本流から外れたところに位置しているからか、

普段目にすることが少ない画家達であります。

あまり馴染みのない画家達でありますが、過去に日本で時々展覧会はあったようで、

好きな人は強烈に好きになる世界です。

まず、名前を挙げますと、ルドルフ・ハウズナー、ヴォルフガング・フッター、アリク・ブラウアー、

アントン・レームデン、エルンスト・フックス等がよく知られています。

わたしが知ったのは、高校3年生の時、

受験でデッサンを習いに行っていた教室で本棚から「ウィーン幻想絵画展」という画集を見つけました。

過去にあった展覧会での画集だったと思います。

その中で、ヴォルフガング・フッターという人の絵が強烈に印象に残りました。

まず最初に思ったのは、「変わった絵だ。」ということ。

次に思ったのが、「こういう絵も許されているんだ。」という事でした。

「では、その絵を。」と思い、ネットで調べてみましたが、

その画集に載っていた絵は見つからず、画集以降の作品しか見つかりません。

そんなことがあるとは・・・・。

ということで、わたしが見た絵に近いものを取り上げます。

↑タイトルは「不良少女」

わたしが画集で見た頃の作品と比べると随分おとなしくなった印象。

ヴォルフガング・フッターの絵の特徴、人工的な絵具の使い方、

リボンが舞っているようなところがある印象は変わりません。

画集に載っていた作品は、艶のあるリボンが何枚も重ねられていて、

それで絵が出来上がっていたことを思うと、少し物足りない。

↑もう一枚。

海の風景のような絵はこの度はじめてみました。

↑こちらは、陸地。

こういう表現がなんともいえない。

ヴォルフガング・フッターは、1928年に生まれ、2014年没。

わたしが絵を見た頃は、1979年。フッターは、51才。

そう考えると、若い時に描いた作品が画集に載っていたのだと考えます。

このあっさり感は、いい年齢になり、後半恵まれていたのかもしれません。

わたしが画集で見た作品は、熱い体温を感じさせるものでした。

ちょっと、ギラギラしているというか・・。

その絵が探せなかったのが残念ですが、と書きつつ、

もう一度探してみました。

こちら→Wolfgang Hutterで検索。

数点を見つけました。

↑この絵を見て、白菜を想像し、リボンのような表現とつるっとした表現に

目を奪われていたのを思い出します。

それと、雰囲気。

↑画集より色が浅く写っています。

鳥のような人をじっくり見た記憶が。

それと中央の仮面を被ったような鳥の人物。

この顔が気に入っていました。

↑こちらは、画集にないものでしたが、画集で見た仮面の人の顔が、

このようであったので取り上げました。

こういう絵が高校生のわたしにとって強烈な刺激であり、

今でも好きな画家です。

オーストリアは、ドイツ、チェコ、ハンガリー、スロバキア、スイス、イタリアが、

隣接しており、幻想派の画家達の絵を見ていると、

独特の幻想が、土着の文化になりたっているようで、

伝説が生きているのではないか?と思ってしまいます。

そういうことを感じさせる画家は、アリク・ブラウアーなのですが、

言葉で表現すると、「悪夢のおとぎ話」といってもいい絵があります。

不思議な色相の絵で、不気味さと可愛らしさが混ざっている。

↑色合いも変わっているが、光を感じさせる効果が不気味。

ウィーン幻想派の絵画はいかがでしたでしょうか?

変わった絵と何度も書いてしまいました。

だけど、思わず見てしまう絵。

今日取り上げた画家は、夫、ヒロクニさんはあまり見ない絵であまり興味もないようです。

画集がないので、話題にしにくいということもありますが・・・。

絵画って、本当にいろいろなものがあります。

私自身が高校の時からこういう絵に感心があったということは、

写実の絵には元から興味がなかったのだということに気がつく。

そういう趣向があって、ヒロクニさんと今一緒にいるのかもしれない。

「趣向」というものが、絶大な影響力を及ぼしているとしたら、

仏教で言う、「因縁」のようなかも。

「悪因縁」とは、言っていません。←ここがポイント。

 

 

今週は、実家、宝塚へ行ってきました。

歩く道々、やっぱり花が多いなぁ~と思いながら。

ヒロクニさんが言う、「宝塚は花が多い。」を実感します。

そこで、シクラメンなんだろうけど、花が開ききっているのが鉢植えされていました。

↑寄せ植えで、エリカ、ニチニチ草、しろっぽい茎と葉のもの。

中心に花の開ききったシクラメン。

このシクラメンを見て、ムムム?と思い、写真を撮ってしまった。

新種のシクラメンなのだろうか?

シクラメンも育てたことがあるのですが、このように咲いているのを見たことがない。

園芸店でも、見かけたことがありません。

ヒューケラや、葉牡丹も植えてあり、もう冬の花がたくさんあります。

この家の前には、向かいに小さい公園があり、小花とコキアが。

コキアの赤い色が、重なった部分が濃く写りきれいでした。

きっと、シクラメンを植えている方が、

公園の花を育てているのだろうな、と思われる。

やはり、花はいいなと思った瞬間でした。

 

武内の絵は、変わっていると思う方も多いと思いますが、

変わった絵というのを拾い集めていくときりがないぐらいあります。

今日は、変わっている絵VS変わっている絵で書いてみました。

美と言うのも、混沌とした美というものがあります。

そんなことを思って頂ければ幸いです。

偏狭なブログかもしれないと思いつつ、最後までお読み頂いた方ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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幻想の街(色鉛筆作品紹介753)と「 もしも・・・・したらどうなる。」

2023-11-20 17:02:42 | Weblog

6Bの鉛筆と色鉛筆で描かれた絵。

この絵は、以前取り上げたことがあったかもしれません。

中央の電車の部分とその下のわらびか、こごみが生えているような“波”の表現を見た記憶が頭の中でチラチラする。

電車と海辺は、武内の絵にセットで登場する絵は多いので、

違う絵のことを見たかもしれない。

引っ越しから、半年。

未だ見たことがない絵が、紙の束の重なりから見え、

「ちょっと見せて。」と武内に声をかける。

崩されたくない山の時は、「ちょっと待って。」と言われます。

そんな中から選びました。

この絵を見て、懐かしいと思うモチーフを発見。

左上にある、「コップに入った歯ブラシ」。

懐かしいモチーフで、最近は登場しない。

“97”と書き込まれているから、1997年作だ。

26年前に作品ということで、懐かしく思って当然だな、と思う。

黄色や赤色で縁取られた半円は、トンネルや地下鉄の入り口だ。

入り口にも表情があり、顔に見える部分がある。

街に人がいるというイメージと重複し、賑やかというか、絵がしゃべっているような雰囲気だ。

そう、武内ヒロクニさんは、よくしゃべる人。

この絵にも、そういう性格が表れていると見て取りました。

だけど、この絵の見所は、

多次元の空間がぎゅっと集められ、

1つの躍動する街の呼吸が感じられるところじゃないでしょうか?

「幻想の街」というタイトルが似合うかもしれない。

武内の中では、街の散歩で見たリアルな一画が、頭の中で融合され、

部分部分が重なりあうように、表現されています。

だから、幻想ではないと言っていますが・・・・。

見る方は、幻想と思ったほうが楽だと、わたしは考えます。

 

 

急に寒くなりました。

それで分かったことがあります。

今の家は、以前の家より機密性がよく、隙間風がない。

だから、意外と暖かく感じて生活しています。

外の風がピュ―ピュ―音を立てていても、わりと静かなんです。

以前の家は、窓ガラスが音をたてたり、風が直撃するとバン!という大きい音がしたりで、

ヒロクニさんは、「風ばっかり吹きやがって!」という罵りを・・・。

窓枠に入れられていたガラスにも隙間があったし、寒い家だったみたい。

わたしは寒いけれど、それは気にしなかった。

何よりも、透き通ったガラスから入る、陽の光りが好きだったし、

窓から見える庭を見るのが好きでした。

朝日が入るのが気にいっていたので、雨戸も開けっ放しでした。

寒さよりも、外を感じるのが好きだった。

夏は、網戸全開で、テントで寝ているかのような空気を感じて就寝。

家によって、過ごし方がありました。

そして、寒かった家から、暖かい家に。

この順序に感謝しています。

 

 

今、自分の中でゲームをしていまして、

「もしも・・・・・ならばどうなる?」

「もしもわたしが・・・・・したらどうなる?」という問いかけを自分にします。

ここで、つい思ってしまいがちな、

「もし、ヒロクニさんが死んだら・・・・、わたしはどうなる。」というのは、時々頭をかすめますが、

こういう問いは、いけません。

「わたしが」することであって、人がどうなるというのは「違反」という事です。

「もしも、透明人間になったら、何をする?」とか、

「もしも、わたしが男になったら、どうなる?」とか、

「もしも、わたしが人の心の中がすぐ分かってしまう能力をもったら、どうなる?」とかの想像をし、

その事態をこと細かくリアルに思い描くという脳内ゲーム。

透明人間になったら、人のプライバシーを覗き見したくなるに違いない。

そして、知らなくていいことを知って、落ち込む。

または、ホッとしたり、嬉しくなることもあるに違いない。

しかし、そういうことを続けていると、良心の呵責を感じていって、

「もう、透明人間じゃなくていい!普通の身体が欲しい!」って思いそうだ。

2番目の問いの男になったらは、まず立ちションベンをしてみる。

へーって思って終わりだと思う。

あまり思い付くことがなく、「わたしは女性であることに満足しているようだ。」という事に気づく。

男になりたいと思ったことがないのだ。

こんなことを思っていると、ヒロクニさんから、

「サホリって、女性に生まれて良かったって感じだね。」と言われる。

「どうして、そんなことが分かったの?」と聞くと、

「その方がいいよ。」と言う。

(質問の答えになっていない・・・、聞いてないと思われる。)

わたしは、読唇術のように考えを当てられて驚いてました。

ヒロクニさんは、男に生まれたのは当たり前だ!そこには一切の疑問はないという人。

男が絶対いいそうです。

人の心がすぐ分かってしまう能力をもったら、その人の本心がすぐ分かるわけで、

詐欺師なんかを察知するのにはいいかもしれないが、

人がわたしのことをバカにしているのを、はっきり知ったりすると、

複雑な気持ちになって、人間不信になるのじゃないかな?

薄々分かっていても、決定的というのはいけない。

人の本心がむきだしの状態をいつも見るわけだから、精神衛生上よくなさそうだ。

それに人の心は、流動的で揺らいだりしている。

その時、その時で変化するようなこともある。

悪心を抱く時期や、そこから開放され成長する時やいろいろだ。

その一時に判断出来ないこともある。

人の心の流れにも一喜一憂することになって、疲れるだろう。

やはり、特別な能力はいりませんとなりそうだ。

以上をやってみていましたが、発想に飛躍がありませんでした。

もう少し、楽しい問いをみつけたいと思うのですが、

頭が固いようで堅苦しい問いばかりに。

その上、想像するとどれも悪い結末になるものばかり。

いい問いを思案中です。

頭の中は、固い芯でもあるんじゃないか?と思うぐらい自由に動きません。

想像は自由でいいと思うのですが、意外とできないものだ。

頭の体操をしてみて、随分脳が老化しているというか、

あまり使っていない部分は錆びて動いていないというように感じました。

想像の部分も悪い方へ考えが行き勝ちだと自己判断。

何気ない語らいの時間に、

ヒロクニさんの「俺がねずみと結婚するの?」の一言の方がインパクトがありました。

わたしもその言動に合わせて、

「そうよ。特大のねずみよ。ちゃんと指が5本あるから、料理してくれるって。」

「顔にヒゲが当たると思うけど、我慢しなさい!」

と言う。

ヒロクニさんは、とんでもないことを思い付くのです。

やっぱり、変人。

「ねずみと結婚する。」そんなことを口走るなんて!

ヒロクニさんの横に、大きなねずみが寄り添っているのを想像すると、

笑えます。

後、笑った事といえば、道路にあるカーブミラーで立ち姿が全身映る所があって、

くっきりと私たちの姿が並んで見える。

歩きながら、それを見て、「あー、お爺さんとおばさんがいるよ。」と言い、

「おばさんも時々お婆さんが入っているし、爺&婆(じじあんどババア)がいるよ。」と鏡を指差すと、

「さほり、やめてくれよ。」と言いながら、頭をかいていました。

(やめてくれと言われると、もっとやりたくなる性分なわたしだ。)

「だって、見てごらん。」

「ズボンからパッチが見えていて、見事なお爺さんだよ。」と言うと、

笑いながら家に帰っていきました。

しかし、意外と長い付き合いになっているなと改めて思いました。

 

 

 

最後はささやかなわたしの楽しみのビオラ。

↑やっと花が咲きました。

黄色と茶色のビオラで、もう何年も種を継いでいます。

シックな色合いが気に入っています。

↑こちらは苗を生育中。

植え付けが遅かったので、つぼみを付けるのは、まだのよう。

春に賑やかに咲いてくれると嬉しいのですが・・・。

花を植えると、春が来るのが待ちどうしくなります。

 

今日は、寒かった宝塚の家のことなど。

今の季節は、柿がたわわに実り、柿の収穫をしていたのが思い出されます。

こっちへ来てから、何年かぶりに「柿」を買いました。

「もしも・・・・・ならばどうなる?」の訓練は、妄想ではなく、想像力を養う訓練のつもり。

楽しい想像力を使いたい。

1人遊び全開の話は、わたしだけが面白かったりしそう・・・。

このような内容を最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

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創造の女神(作品紹介752)と 黒澤明監督の「用心棒」

2023-11-11 18:58:57 | Weblog

マジックで描かれた作品になります。

右に描かれた丸い月のようなものの顔の表情が気に入って取り上げました。

真剣な真顔に、少し鼻の穴をふくらまし、厳しい表情をしているのが、いい。

左のアメーバーのように口を開けている生物は、だらしがない。

やわらかい餅が、どうとでも形を変えるさまに似ている。

これって、もしかしたら、

夫とわたしの関係?と、思えてくるから情けない。

夫には、手を焼いています。

長年一緒にいても、空気のようになりません。

手強いといつも思っている。

当人は、そんなふうに自分のことを思っていなくて、

「俺のような素晴らしい人間と居れて、とても良かっただろう。」と思っていると思う。

実際に、このようなことを口ばしっている。

確かに、素晴らしいところもありますが、

非常に困ったところもあり、わたしには、激怒とストレスが交互にやってくる。

その感情で、自家中毒みたいに疲れている。

そのせいで、瞑想なるものにも入り込み、

なんとか太刀打ちしなければいけない!というわたしだ。

怪我の巧妙というか、1年と半年程瞑想なるものに励み、

人はくり返す、ループしていることってあるな、という事に気がついてきた。

わたしが繰り返し持つ感情があるということです。

その感情を一言でいうと、「怒り」「我慢出来ない」が多い。

それは、武内によって喚起されているのですが、

もし、武内と一緒でなかったら、

違うことや違う人からの事で、

同じ感情を使うのではないだろうか?という結論に至っています。

その感情を観察するという行為が、瞑想にはある。

観察して思うには、それは、なかなか厄介なものだという結論。

この繰り返し持つ感情に打ち勝ちたい。

見ているのですが、この根本が、恐怖なのか?不安なのか?が判別しにくい。

未だ、どういうものなのか見続けています。

怒りの根底に、恐怖があるような・・、それとも緊張に近い?というふうに

ピタッとわかるまで見ていくのです。

皆様も自分はこういう気持ちによく陥るとか、

こういう感情をよく使っているということはありませんか?

わたしの場合は、きっと自分の中に、そういう元があると思いました。

元があるから、その感情が浮上する。

はっきり、まだその元の正体はわからないけれど雰囲気はつかめてきたという段階です。

こういう道に気がつかせてくれた、武内ヒロクニさんには感謝かもしれません。

でも、素直に感謝しにくい。

ここまで書くと、この絵はヒロクニさんとわたしに思えてきて、恥ずかしい限り。

【夫婦喧嘩の図】て感じで。

ついでに、また恥ずかしい想像をすると、

「夫を改造しなくっちゃ!」

「よいしょ。」

「よっこらしょ。」

「こっちをこねこね。」

「ここもこねこねしなくっちゃ。」

「ここの部分は気に入っているから、おいておこう。」

と、この月なる人物が言っていたら面白い絵だな、と思いました。

【奥様、夫を教育する図。】

そして、“創造の女神“この絵にこういうタイトルをつけてみたくなりました。

 

 

急に、黒澤明監督の「用心棒」という映画を見たくなった。

「強い主人公を見たい!」と思い立って。

youtubeで予告編を見たら、絶対に見たくなりDVDを買った。

↑こちらが見た予告編。

予告からして、堂々たるものだ。

強い主人公に、強い悪役。そして、悪役はちょいと2枚目。

この対比に魅力を感じ、上等な娯楽映画の真髄というところに引かれた。

以前、ヒロクニさんとも観ているのですが、

今回観ると良さがさらにわかり、粋だなとゾクゾクしながら鑑賞しました。

外国映画でいうと、西部劇なんですね。

ヒロクニさんは、西部劇が好きなので、

一緒に、ありとあらゆる西部劇を観た。

そのせいで鑑賞能力が高くなっていたのかもしれませんが、

用心棒は、一切の無駄がなく、映画自体が締まっていました。

古い白黒映画に出てくる「三船敏郎」は、胸板が厚く、堂々たる風貌だ。

若い「仲代達也」は、悪党の弟だ。

その悪党の弟は、木枯らしが吹く荒れた宿場町に、ふらりとピストルを忍ばせ帰郷する。

ストライプの着物にスカーフのように巻かれた手拭が気障でよく似合っている。

見開いた目は野獣のようで、歯をみせた笑い顔に冷酷さが帯びる。

いい感じた。

この2人は、お互いなかなかやるなという感じで、牽制をみせながらも敵対はしない。

この三船敏郎の役どころは、侍であり、自分の強さを武器に、

敵対している双方に気をもたせたり、無碍にしたりとして、頭脳プレーで丸く治めようというものだ。

さして、騒ぎを大きくして、うまく敵対している勢力同士の喧嘩をさせ、自滅するようにもっていきたい。

そして、悪しかいない宿場町で敵対している双方が卑怯さを競うように見せてくれる。

相手の裏をかいたつもりが、さらに卑怯な手を使うという具合に。

そんな所だからこそ、愉快そうに振舞っていた用心棒のお侍に人情というものが降りかかり、

ちょっと、人助けをした為に半殺しの目に会う。

ある親子を助けるのですが、そのお親子がお侍に頭を下げて土下座している姿を見ると、

急に顔を曇らせイライラし、「そんなことするな!」と怒鳴る。

このシーンを見ている時のわたしの心境は、

「このお侍の気持ちがわかるなら、そんなことをせず自分だけのことを考え、早く逃げるのよ。」というもの。

わたしも、お侍の気持ちに同化してしまい、

そのシーンでは冷や冷やした。

その時は、親子を逃がしたのはばれなかったが、

お礼の手紙を手渡された時に、その手紙をワルのピストルの仲代達也が見つけるのだ。

それで、半殺しの目に会う。

この辺で、ハードボイルドでもあるのね。と、変に納得する。

重い身体を引きずって戸を叩く。

そして、倒れた目の前には錠の開いた葛篭が・・・。

そこに隠れ、敵が慌てている隙に逃げる。

めし屋の爺さんに匿ってもらい、墓場の小さい小屋で復帰を待つ。

小屋の隅から吹く風で、舞う枯葉をじっと見るお侍。

その葉が舞うめがけ、包丁を投げると、すっと命中する。

そのめし屋の爺さんがお侍を助けたかどで、捕まる。

その知らせを受け、決闘に望む。

その歩いている姿がまたいい。

身体のゆすり方や、歩く感じがすごくいい。

この映画を見ると、細かいことや、どうでもいいことが多い日常から開放され、

シンプルな人間らしい気持ちを取り戻します。

「強い」っていうことも、大切だなと。

強くないと、弱いものを助けられない等と思いました。

堂々とした映画でした。

 

最後は、我家の愛猫。↓

パソコンが置いてある場所に来て、窓を見ています。

締め切った窓を、何故見る?

未だ、引っ越しの荷物が片付きません。

今は、触りたくないのです。

 

今日は、絵の解説が所帯臭くなりました。

私たちを想像せずに、「宇宙の創造」という方向で見て頂けたらと思います。

よく使う感情の話は、個人的な話で思う内容も、

わたし独特の考えかもしれないと思いながら書きました。

「用心棒」は古い映画ですが、見ごたえがあると思い、

つい、熱く語ってしまいました。

黒澤明監督って、シェイクスピアがベースにあるみたいですね。

必ず、道化役にあたる役があるのです。

デンデン、デンデン、デンデン・・・がヒントですが。

そんなことも初めて感じた映画鑑賞でした。

今日もこのような文章を最後までお付き合い頂いた方、ありがとうございます。

 

 

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CAR(色鉛筆作品紹介751)と 家電売り場での葛藤

2023-11-03 15:25:52 | Weblog

この作品は小さくて、13.7cm×9.8cmのサイズ。

車の行く手を遮り、骸骨のような人物が挨拶をしています。

実際にこのような事に出会えば、恐ろしいだろうが、

この絵を見る限り普通の事で、楽しいアクシデントに会ったワクワクした日の出来事という感じだ。

私達は、車に乗るといえばタクシーぐらい。

だから、すぐタクシーを想像する。

ネオンの灯かりの中をくぐり抜け、

人の行き交う様子を見ながら、急ぎ足で目的地へ行く。

タクシーを利用する時は、焦っていることが多いので、

見ているうちにハラハラしてきました。

時間に遅れそうになる要因を作っているのは、武内の行動にあります。

やいやい言っても、急がないし、

何も言わないで待っていると遅すぎるし、究極のマイペース。

自分中心のマイペースな人。

こんなふうになれたら幸せかもしれないとため息。

わたしは横でイライラすることが常で、

やはり、人様に迷惑をかけてはいけないと思っているます。

そんなわたしですが、普通の車に乗せてもらうと、

自分で扉を開けないといけないのに驚くわたし。

事態を呑み込むのに5秒かかります。

 

当人のことはさておき、

この絵の色鉛筆のバラバラと乱れたタッチがいい感じ。

仕事台のベニアパネルの筋がフロッタージュみたいに浮いている箇所もあり、

風合いを出しています。

こういう絵って、描けそうで描けません。

 

 

少しブログの更新が遅れました。

所用もあったこともあって、よく外に出ていました。

ビオラの植え替えなんかもしたり、家電製品を買いにいったりと。

この家電製品を久しぶりに見たら、いろんなものが進化していて戸惑いました。

炊飯器は、とても高価なものもあって、「何で?」と思い続けていました。

10万円以上する炊飯器を見た時は、

「そんなに美味しく炊けるものなのか?」という疑問で頭が一杯になり、

「さほど美味しくない米が錬金術のように、美味に変わるのなら凄いけど・・・。

 そんなことはありえないだろう。」という考えに落ち着いた。

やはり、今のオンボロの炊飯器と同じタイプのものを見つけると、8000円だった。

しかし、ここでわたしは欲を出し、

これより少しましな、ランクアップしたものを買ってみようと決意した。

圧釜というやつ。

それも値を下げているもの。

買わないけれど将来買うとしたら・・・、とオーブンレンジを見た。

高いものは17万円。安いものは2,5万。

今あるオーブンレンジは、クッキーを焼く時にあまり乗せられないという欠点があるので、

丸い形をしたものでなく、四角い形をした鉄板がいいと思いながら見ていました。

そして、次に注目したのは機能。

扉に多くの料理が並んでおり、番号などが振ってある。

おもむろに老眼鏡を頭から引きずりおろし、読んでいた。

読んでいる内に疲れがドッと押し寄せ、

「オーブンの温度さえ調節出来ればいい。」となり、

現品処分の物に目がいった。

そう、買ってしまいました。

そして、オーブンレンジは送ってもらうことにし、炊飯器は持って帰ることに。

会員カードを持っていたので、期間限定の一割引きになり、

またお安く。

しかし、1人で電器屋のフロアでのたうつように思案しながら長くいました。

最後の締めに近づき、店員さんに声をかけ、疑問をはっきりさせねばと思いいろいろ質問。

店員さんは、わたしの予算に寄り添ってくれ、

電卓をひたすら叩いて、一割を引きながら計算してくれました。

その数字をメモにとりながら、わたしも考えを詰めていきました。

その結果が現品処分品。

わたしの心の中では、これぐらいのレベルのものがあったらな・・・、と思っている時は、

欲が渦巻いているのが解りました。

やっぱり現品処分品だけど、これで十分かな・・・、と思っている時は、

身の丈に丁度いいものだとあきらめの境地。

過剰に感じた欲を切り捨てたというわけです。

炊飯器では、ちょっと欲を出したので良いさじ加減でお買い物できたのかもしれません。

その炊飯器は、手で下げて持って帰りました。

圧釜が重かったようで、持ち手を持っていた手がしびれ、

「61歳女性って、こうやって皆手に提げて持って帰ったりしているのかな?」と思いながら、

坂道を上っていました。

家に帰ると、「開けてみていい?」とヒロクニさん。

釜を取り出し、「重い釜やねぇ。」と一言。

「君は、凄い!」だって。

わたしは、「君は気楽だね。」と言ってやりたい。

(言ってない)

変わりに、「この年齢で、皆こうやって荷物持っているのかな?」と言うと、

「けっこう、おばさんはやるからな。」と。

おばさんというより、自分の姿が映りが悪い時、

お婆さんに見える時があるのですが・・・。

私達は、れっきとした爺&婆になりつつあります。

久しぶりに電化製品を買うと疲れますね。

 

 

最後は植え替えたビオラの苗の様子を。

↑育苗中のビオラたち

ピートバンに種を蒔いたものをポットに移し変えています。

1ポットに5~6個の芽を植えました。

↑このように鉢に植え替え、日当たりの良い、家の横に。

こちらはクラッシックな感じのクリームイエローのビオラと茶色のビオラ。

濃い紫の鉢。

同じ色でまとめています。

↑左はイタリアンパセリ。

大きな鉢にはビオラ。

ビオラは、レモンイエローと濃い紫、ブルーがかった紫、ピンク系の色の花をランダムに。

これも、もう一方の家の横に。

家の前は路地になって、秋からは日当たりが悪くなるので、

空いている家の横に鉢を置いています。

 

この大きな鉢の横に1本のセイタカアワダチソウが咲いています。

↑白い壁によく栄えているので撮りましたが、夕方に撮ったので日陰に。

右は、わたしのママチャリ。

神戸は坂が多いので、自転車に乗らなくなってしまいました。

その変わり、スポーツシューズが活躍しています。

↑コンクリートの割れ目から、大きく根を張り、1本だけ咲いています。

セイタカアワダチソウというのは、強い植物なんだと思いました。

何もないところに1本だけが咲いているので、

感心して見ています。

 

11月というのに暖かい日が続き、温もりが気持ちいい。

我家は、寒がりの住人がいるので、助かります。

今日は、電化製品の売り場での心の葛藤を書きました。

こんなふうに葛藤する人っているのだろうか?と思いながら。

我家は、お金に縁が薄い職業なので、電化製品が壊れたら、

「誰か、あまっているのを譲ってくれないかな?」等と思ってしまいがちなんです。

今使っているオーブンレンジも、「新しいの買ったからいらない?」と言われて、

譲られたものなのです。

今使っているガスコンロも。

だから、買うとなるとかなりの決心なわけ。

久しぶりに見た家電は、かなり進歩していました。

自分で買うというのも大事なことだと思いました。

今日も、こんな内容を最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

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