武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

ヌード(作品紹介706)と ゴシック小説について

2022-10-31 17:00:51 | Weblog

ドンと女性の裸体を描いた絵は、かなり古い作品と思われる。

この絵もヌードがかなりデフォルメされているが、

現在はもっと形が単純化されて、わたしは“人型”と言っています。

女性の髪は渦を巻き、カールが跳ね上がっている。

武内の描く女性像は、すべてこの髪型をしています。

絵をじっと見つめていると、油絵などで、ソファに寝そべる女性の裸体を描いた構図と似ているなぁ、

と思ったりして、古い日本の洋画の面影を感じたりした。

ただ、決定的に違うのは、頭の中で生まれた人工的な絵だという事。

武内は「私の絵は、観念だから。」とよく言います。

この絵は、その部類に入ると思います。

背景に唐突に描かれた縞模様が、エキゾチックな雰囲気を出しているのが不思議に思う。

よく見ると、☆×◎が羅列してあって、それだけで雰囲気を作っています。

うまくするものだなぁと思いました。

 

 

図書館で返却されてすぐの棚を見て、何気に手に取った本がありました。

「ゴシック小説を読む」小池 滋著というもの。

パラパラとめくると、「ウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック』という作品から話を始めることにします。」という箇所を見つけてしまい興味を持った。

この『ヴァテック』というタイトルの小説には思い入れがあって、

搭とか、その搭に女性が幽閉される。嵐が起こる。おとぎ話のような中世のロマンイメージを抱いていましたが、この本を読むと、

「欲望に飽きた男が、今度は悪の欲望を完全に満たそうとして、最後には地獄に落ちていくという恐ろしいテーマが中心にきている物語」となっていて、

まるでそのストーリーを覚えていないという・・・、わたし。

わたしにとっては、イメージだけが強烈に残こった小説だと分りました。

時々、バロックとゴシックが頭の中でごちゃごちゃと入り混じり、どう違うのだったけ?となる時もあり、

この本は、頭の中を整理するのにも役立った。

バロック小説の始まりは、1960年誕生 クロード・ロランというフランス生まれのイタリアで活躍した画家の絵から。

どういう絵かと言うと、↓

『海港』油彩

イギリスの画家、ターナーの絵を思わせる絵だと思いながら見ました。

これは、理想郷を描いたものらしい。

『イタリアの海岸風景』油彩

↑もう一枚紹介します。

こういう絵なのですが、この絵も風景の写実ではなく、空想の風景画ということ。

朽ちた中世を思わせる建造物に人と天使がいます。

こういうクロードロランの絵をイギリス人はたいそう好んだらしく、

イギリスにはかなりの数の絵があるそうです。

イギリスのお金持ちは、この絵に登場しそうな奇妙な中世ふうの建物を競って建てたとか。

イギリスのお金持ちの中でも、金持ちの息子で語学、学問、教養の天才教育を受け、

お金のために働くこともない人物が、遊びとして小説を書いた。

ロランの絵と同じく、想像だけで世界を作り人工的な小説が登場した。

それが、ゴシック小説の元祖となっていると、著者が流れを丁寧に分りやすく教えてくれます。

その元祖が、ホレス・ウォポールの「オトラント城」であり、

ウィリアム・ベックフォードの「ヴァテック」だった。

「ヴァテック」は、ヒロク二さんに勧められて読んだ本でしたが、深い印象を残した書物です。

これらの本は当時、意外な人気を呼び、時間の流れで発展していくことになります。

特徴は、“恐怖”で読者の心をとらえ、心理的にハラハラさせること。

それまでの小説は、教訓的なものや道徳的なことを目的とした小説が大半だったせいもあり、

ドキドキ、ハラハラで、現実からちょっと離れることが好まれたということです。

後に、推理小説に発展していく流れも、解説されていて、なるほどと思うのでした。

頭の中で世界を作り上げる人工的な小説は、

女性の小説家が出てきたりするきっかけにもなったようで、

普通の主婦が、恐怖小説を書いていたり、残虐な物語を書くということもあり、

それを想像するといい時代で、何か楽しそう。

「フランケンシュタイン」は、メアリー・シェリーという女性が書いたもの。

これは、意外だった。

男性が書いたと思い込んでいたから。

(付け足すと、「フランケンシュタイン」というのは、スイスの科学者の名前で“怪物”という意味ではないらしい)

この小説は、SF小説の走りということです。人造人間という発想が凄い。

この小説も、たいくつでしょうがないから物語を作る競い合いをしましょう!という遊びから生まれたそうです。

新しい分野の幕開けです。

 

また、推理小説を完璧に作ったのは、エドガー・アラン・ポーというのを知る。

奇抜な摩訶不思議なことが起るのではなく、起りうることが可能なことでまとめ上げた。

そして、恐怖。推理小説の1つの手本を作った。

やっぱり、内容や、描写を芸術的ともいえる高尚さに持っていく力は、男性の方が凄い。

そんなことをヒロク二さんに話していたら、

さっそくゴシックロマンと書かれた段ボール箱を台所に持って来た。

「いやあ、君がゴシックロマンについて語るなんて、いいね。」

「もっと、話をして!」と。

そして、続けていうには、

「アッシャー家の崩壊の始まりのシーンで妹の亡霊が現れるシーンがあるだろ、

 やっぱり現れる時は、足を踏み外してドコドコドッカンってなったらいかんよねぇ~。

 そう思わない?」

困惑顔のわたし。

わたしはふり向き、「ねえ、元々そんなふうに無邪気におかしなことを思いつく人だったの?

それとも、性格変わったの?教えて。」と言った。

自分の言ったことに受けていて、返事が返ってこなかったのでした。

ゴシック小説が流行りだしたのは、18世紀から。

イギリスって国も面白い。

本気で遊ぶ精神を感じます。

 

今日は、創造を頭の中だけで作りあげたヌードと、

観念小説であり人工的な世界のゴシックについて書きました。

本の内容をかいつまんで抜粋していますが、

乱暴な紹介の仕方なので、意味が通じている不安だ。

最後に、代表的なゴシック小説を紹介します。

ああ、こういうのがゴシックか!と思うと思います。

◆吸血鬼ドラキュラ ブラム・ストーカー著
◆フランケンシュタイン 上記にあり メアリー・シェリー著
◆嵐が丘 エミリー・ブロンテ著
◆アッシャー家の崩壊 上記にあり エドガー・アラン・ポー著
◆オペラ座の怪人 ガストン・ルルー著
◆領主館の花嫁たち クリスチアナ・ブランド著

嵐が丘が、ゴシック小説と思って読んでいなかったので、意外でした。

吹き付ける風が、ヒースの暮らす家に・・・。

そして、風が死んだキャサリンの声をのせて「ヒース!」って叫ぶのです。

このシーンが印象に残っています。

こんなことが現実に起ったら、怖い・・・と思いませんか?

 

 

今日の庭。夕日を浴びているジニア。

↑白い花とオレンジ系の花でまとめているせいか、夕日によく映えます。

 

↑ゴシック小説にちなんで、荒れた庭ふうに撮ってみました。

手前にネギが見えていて、これが台無しにしている。

今、ネギは重宝しているのですが、こういう食べる植物はロマンがない。

荒れた庭に咲き誇るバラとか、退廃の美がゴシック小説には似合いそう。

 

今日は、2人で盛り上がってしまったゴシック小説について書きました。

イギリス人の絵画嗜好、また趣味から生まれた文化と思うと面白い。

この時代、イギリスは戦争もなく平和が続いた時だそうで、国民も豊かになり

多くの人、特に女性が字を読めるようになったこともあって、

こういう小説が流行る素地が出来ていたそうです。

武内の絵にも通じるものがあると思いました。

偏狭な内容ですが、最後まで読まれた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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「やあ!」と言う。(作品紹介705)と すすきの戦い

2022-10-24 12:04:47 | Weblog

「こんにちは!」と絵が言う。

描かれているのは、人型。

「やあ!」と言って手を上げているのが、男性で、右にいるのが女性だ。

そして、フムフムと眺めていました。

武内は、もう、絵で遊んでいるのだなぁ~と思いました。

蠅叩きのような手に、足先が四つもある。

左にある足では立っている姿、右にある足を見るとつま先立ちをしてバレエを踊っているみたいだ。

脳裏に、こういう光景が浮かんだ。

子供造形教室をしていた時に、バレエを習っている子がいて、

そのバレエが嫌だったらしく、居残る子がいた。

「そんなに嫌なの?」と聞くと、うなずく。

次がバレエの教室へ行く予定になっているらしく、

バレエの時間をなるべく少なくなるように時間稼ぎをしているのだと言う。

そんな話をしていると、武内がやってきて、

「ゆいなちゃん、そんなに嫌なのかぇ。」と言いい、

目の前で、タイツ姿にTシャツを着た武内が、バレエ風につま先立ちで踊っていた。

わたしとゆいなちゃんは、唖然としてその姿を眺める。

「どう、ゆいなちゃん?」と武内。

「・・・・・・・。」ゆいなちゃんの反応。

「・・・・・・・。」眉間にシワ。わたしの反応。

ゆいなちゃんは、「きもちわる。」とポツリ。

唾を飲み込み、うなずくわたし。

でも今となっては、武内のおちゃめな部分が面白くもあり、無邪気なところが憎めない。

分別がないところも凄いと思う。

この絵を見ている内に、変な思い出が出てきてしまった。

右下に描かれている女性は、横目で悪戯のある目を向けています。

夫のこういうことばかりを覚えているわたしのことを思うと、

右下の人物は、私かもと。

要するに、この絵は、武内とわたしという夫婦かもしれません。

なかなかお似合いな2人。

そんなことを思いました。

そんな思いはさておき、この絵は、

黒く太い線がリズミカルで、この線の感じがいいと思います。

鉛筆と色鉛筆を使用。

 

 

天気の良い日に、良人と散歩&リハビリで歩いてきました。

近所の御所川の沿って。

用水路を見ながら歩いていました。

鯉やフナ、雑草を見ながら。

そして、目に付いたのは、すすきとセイタカアワダチソウ。

「ああ、すすきとセイタカアワダチソウの戦いが繰り広げられているなぁ。」と思い、

「すすき、頑張れ!」と思う。

↑これが、御所川。

頑張れと思った状態。

すすきというのは、日本では万葉集などにも詠まれているくらい古い植物です。

また、茅葺の屋根の材料に使われていたり、家畜の餌や箒、すのこ、炭を入れる籠の素材として

非常に役立ってきた植物です。

茅葺の屋根を作るのには、大量のすすきが必要で、その為の“茅場“というのがあった。

それくらい、日本では無駄がない利用価値があった植物なんです。

また、すすきが生えた土地は栄養分がたっぷりあり、土も肥えていました。

それが、外国から来たセイタカアワダチソウによって、すすきが駆逐されていったのです。

強い植物であるセイタカアワダチソウの方がどんどん増えていった。

すすきのある肥えた土の養分で、どんどん増えた。

ところが養分を吸い尽くしたせいか、セイタカアワダチソウの増殖の勢いがなくなってきたそうで、

再び、すすきが復活してきているのが今だそう。

この御所川では、毎年その様子を見ていたので、

すすきが増えてきているのを実感したというわけです。

↑では、もう一箇所。

すすきの方が多くなってきています。

すすきとセイタカアワダチソウの因果関係を知ると、

「すすき、頑張れ!」もう、こう思わずにはおれません。(笑)

すすきの生えた土地は肥え、セイタカアワダチソウの生えたところは土が痩せるのです。

秋にぴったりなすすきの穂は風情があって好きです。

そんなことを思いながら、良人と歩いていました。

リハビリと言われているヒロク二さんは、どのぐらいで歩くのが辛くなるのかの把握をしました。

ちょっとの距離なのに、途中、パン屋でパン買う。

その後、煙草を買う。スシローで寿司食べる。珈琲豆買う。

寄り道の好きな人です。

少しの距離歩くだけで、こんなに散財するなんて、思いもしませんでした。

 

そんな日の夕食。

↑いわしが半額だった。300円なり。

オリーブオイルににんにくをいれ、塩こしょうして焼きました。

しじみも半額だったので、みそ汁に。

パプリカは素焼きにして、オリーブオイル、酢、塩、砂糖少量でマリネに。

バター風味のいり卵。

マカロニサラダ。きゅうりとスライスオニオン、パプリカ、鳥のささみを裂いたものを和えています。

カブの漬物。(自家製・塩味)

煮物は、昨晩の残り。

食卓の左の端に、拾ったカエデの葉も。

散歩したせいか、食事は美味しく感じました。

 

今日も変な思い出やら、毎年思っている“すすきとセイタカアワダチソウの戦い”の事などを

秋の陽射しを感じながら思ったことを書きました。

今日も最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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風が舞う(作品紹介704)と 万歩計を持つ

2022-10-17 14:31:58 | Weblog

この絵はメモか?作品か?と悩む。

いたずら描きが、作品になったというところか。

鉛筆とクレヨンで描かれている。

これは、作品のファイルに収納されていたので、作品として武内は入れています。

わたしは、風がいたずら描きを残していった。

そんなふうに絵を見て感じていました。

また、踊っているようにも見えます。

「詩人が描いた絵」として見たら、許容されそう。

いわゆる一般的な画家が描いた絵として見たら、疑問符が付きそうだ。

「ふざけてるのか!」と。

まさにふざけている絵だ。

左上にある顔を見ると、調子にのった詩人と言ってもいい。

このふざけた顔が悪戯という性質を思わせる。

日本人的な感性と、ちょっと違う。

武内は、情緒はとても日本人的でヒューマニズムを大切にしています。

おもむろに台所で、

「幾山河超えさり行かば寂しさのてなむ国ぞ今日も旅ゆく。学校で習った。」と言い、

若山牧水の短歌をつぶやく。

「よく、そらで言えるねぇ。」と感心して言った。

わたしは、自慢じゃないが覚える能力はあまりない。

トランプの神経衰弱をすると、すぐどっちだったけ?となり疲れ果てる。

単語を覚える英語も苦手だ。

まあ、たくさんの固有名詞を覚えているヒロク二さんは記憶力がいいのだろう。

固有名詞だけを並べて、話をするときもあり、そういう時は難解だ。

その固有名詞を知らなかったりして。

それよりそんな話し方って、あり?と思い黙っている。

 

話がそれそうなので、もとに戻します。

日本的な人なのですが、海外の文学や音楽も好きで親しみ、

もうそれが体内に宿っていて身についてしまったものが自然に出るのだと思います。

バタ臭さと日本人的なところが、混ざり合っている感性になってしまっているのでしょう。

この絵を見ながら、そんなことを思いました。

しかし、この詩人が武内に見えてくるのが困りもの。

悪乗りしてふざけている時の武内の感じがする。

妻から見ると、ね。

この絵を見ていると、身体を動かして、伸びをしたくなりました。

そして、腕をのばして振ったりした。

風で舞う木の葉の様子にも見えてきたり。

変な絵だ。

 

 

今日は雨。

静かに雨の降る音を聞きながら、書いています。

そして、万歩計のことを考えている。

毎日毎日、制作に励んでいるヒロク二さん。

その姿を見ていると元気そうに思う。

しかし、外出するとすぐ足が痛くなり、歩くのが困難になるようなのです。

本人は、大丈夫だろうと高を括っていて意思はあるにも関わらず、足が痛み出すみたい。

そりゃそうだろうと思う部分もある。

コロナ以降、ほとんど家にいるので足の裏とかも摩擦に耐えられなくなっているのです。

靴すら履かない生活を3年程送った結果。

外出したら、足が痛いせいか、機嫌が悪くなり悪態をつかれるという・・・。

トホホな事態が。

そして、なんだか優しくなれない自分がいる。

悪態をつかれているうちに、腹が立ってくるのです。

よくあるパターンなのですが。

ヒロク二さんは夜、散歩に行っているので安心していましたが、

たぶん歩く量が足らないのでしょう。

12月で85歳になります。

そう思うと元気な方だとは思うけれど、

これから先の事を考えると認識を変えないといけない時期に来ているのだなと思った。

年の差婚なので、やはり想像で補うことが必要なんですね。

さあ、どんなふうに変化させていこうか?と思案中。

まずは、万歩計を買って、一緒に歩こう!と。

近所の御所川(ごんじょがわ)沿いでは、高齢の夫婦がそろって歩く姿が見られます。

そこへデビューということです。

以前は、お年寄りが歩いているなぁ~と眺めていましたが、

そこに飛び込むつもり。

こういう時思うのは、もっと面白い道があればいいのにと思います。

道にも好き嫌いがあるのです。

それは、ヒロク二さんにも。

歩こうと思っている御所川沿いはちょと単調なので、飽きたりしないか心配だ。

2人とも道に関しては、五月蝿いのである。

これから多くの変化を迎えることでしょう。

時間の流れは止まってくれません。

人は時間の流れで変化していき、その中で何かを感じ、何かを知ります。

振り返ると過去にもいろいろな事があり、いろいろなことを考え、分ったことも。

これからもそうなんでしょうね。

どんな新しい発見があるのかと思いながら、変化を受け入れようと思います。

 

 

庭では、ジニアが花を多くつけ始めました。

↑花の株が大きくなってこれから咲くつぼみもたくさん。

↑秋の育苗。

ビオラとルピナス。

↑ルピナスは特徴的な葉姿が、もう見られます。

花は春。

↑庭の金木犀。

いい匂いがしています。

この匂いをかぐと幸せ感がするのは何故?

 

↑今年は生らないと思っていた柿の実がちらほら。

数が少ない時は、大きい実をつけます。

生らないと思っていたものが生ると嬉しいものです。

 

秋は落ち着いた気持ちをもたらせてくれます。

この度は、年齢の変化から人生の秋を感じました。

節目ってあるのですね。

万歩計を思いついたのが、秋の入り口でした。

今日もお読み下さったかた、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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歩く女(作品紹介703)と アンドレ・ブルトンのナジャについて

2022-10-09 16:28:21 | Weblog

裏にタイトルと日付、使用した画材の明記があります。

「歩く女」

1988年6月

クレパスと。

とてもグラマラスなご婦人で、コルセットで縛ったようなウエストに目を見張る。

手足の感じから、可愛らしい女性らしさを感じます。

一番の驚きは、顔が黒いハート型なことだ。

紫に塗られた背景と、色気ムンムン的なボディから、

艶かしい感じもするのだが、顔が“ブラックハート“なので滑稽味があり、

なんともいえない感覚。

あの有名なムンク作の「叫び」という作品にも匹敵しそうなシュールさ。

いつの間にこんな絵を描いていたのか?

昨日、資料をパラパラとめくりながら、どの絵をブログに上げようかと思いながら見ていました。

そうすると見たことがない、この絵を見た。

見た瞬間、ゆるい衝撃が起こり、脳震盪を起こしているかのような・・・、脳が空白状態でした。

「いったい、どういう発想でこういう絵を描くのだろう・・。」と、正直思います。

この絵には、怖いという感覚はなく、

どことなくコケティッシュで、悪戯好きな感覚だ。

それとも、武内の好きなシュールレアリズム宣言をしたアンドレ・ブルトンの著書に出てくる

“ナジャ”なのか?

もしかしたら、武内にとっての“ナジャ”的な作品かもしれません。

 

この“ナジャ”というのは何か?

少し、分る範囲で説明します。

家には、アンドレ・ブルトンの著書はまとめて積み上げられ、

本の箱や、本自体に絵具やマジックで彩色されていて、自分の持ち物となっている。

そうされている本は、愛蔵している本である。

とても大事な本なわけです。

「ナジャって読んで見て、可愛い少女の話だよ。」と言われ、読んでみました。

ブルトンが出会った少女で、この少女とブルトンは街で会えば、

お茶を飲みながら、話をしたり、ナジャが描いた絵を見たり、もらったりの交友をしていたんです。

そのナジャの話が、とてもシュールで日常生活からかなり乖離した話をするので、

ブルトンは書きとめていました。

どこに住んでいるのか、何をしているのか、まるでつかめない少女で、

それを知りたいというような質問をすると、はぐらかされたり、約束をすっぽかされたり、

その子悪魔的少女にブルトンは魅了されていくのです。

しかし、ある時を境にして、少女は街で見かけることもなくなり、

消息を人に尋ねてみるのですが、分らずじまいで姿を消してしまう。

その後、それを文章にしたものを発表しました。

それが、この本なのです。

ナジャと話したことやナジャが描いた絵を修められていて、日常から隔離されたような世界。

感覚のエッセンスだけが詰められた文章です。

その本を武内から薦められました。

わたしは全集で読みましたが、単独でも本になっています。

↓それがこちら

↑この本の表紙は、ナジャが描いた絵を使っています。

小麦の妖精というタイトルだったと思うが・・・。

(うろ覚えなので、間違っていたらすいません。)

 

↑そして他にも、ナジャが描いた絵の図版もあって、不思議な絵だと思いながら

本を眺めていました。

この可愛いシュールさに、少女というものの特性を見出したのがブルトンだった。

武内は、私にこの密やかな秘密めいた少女の感覚を共感して欲しかったのだと思う。

わたしも文学少女、美術少女の時であれば、ときめいたかもしれないが、

少女じゃないせいもあって、

「究極、精神を煩った女の子だろうね。」というと、

ロマンや、神秘主義を踏みにじったのを感じた。

「そういうことはありえる。でも、この絵いいだろ。」と言われ、

「並の少女には描けないと思うわ。」と言うと、

「そこが素晴らしいし、こういう絵は誰にも描けない。」と言って締めくくっていました。

ヨーロッパには、独特な少女をめぐる感性の芸術作品があって、

美意識まで高められていて、面白いな、とよく思います。

ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」もそうですが、少女文化を高めるているのは、

男性というところも面白い事実です。

一応、武内にも「少女」というテーマがあるのです。

この度のこの絵は、「女」ということで、少女ではありません。

しかし、武内の持つ「少女趣味」の片鱗は表現されていると思います。

 

 

先日は、神戸の北野ガーデンにてめでたい集まりに出かけました。

久しぶりに会う、芸術関係の人の集まりです。

初めての場所に行った北野ガーデンは、清々しいお天気の中、庭の景色の緑が目に心地よく、

「なんて綺麗な庭でステキなこと!」と思いながら、主人の付き添いで同行しました。

心の中で、「でしゃばらずに、控えめにすること!」と、言い聞かせながら。

つい気を許せる人に会うと、つい意気込んで話してしまったりする。

また、主人に家で偉そうにする態度が、出るのを防ぐために懸命でした。

ヒロク二さんもわたしに偉そうにします。

要するに、お互い偉そうにする夫婦なのです。

ヒロク二さんの性格に対抗する習性と言ってもいい。

しかし、この度は、ヒロク二さんや他の方々の席なので、

謙虚な態度で臨むのが筋だと思ったのです。

 

わたしの謙虚さが生かされたのか、ヒロク二さんは、多くの人と話したようで、

「久しぶりに人と会って、ちょっと疲れたかな。」と、話を満喫していました。

ヒロク二さんには、ライバル?がいるらしく、絵の売れている作家の方に、

「彼と話すと、最近、あんまり絵が売れないらしいんだ。

 彼も正直にになったものだね。」と言う。

聞きながら、彼は元々正直なんですけど・・・、

何か認識がおかしいぞ?と思いながら首をかしげました。

人の後ろからワッと肩を抱いて、話しかける武内の姿を見ながら、まあ楽しそうで何よりと思った。

この集まりは、年配の方が多かったのですが、どうもヒロク二さんは最年長だったようだ。

その中で、動きまわって話している姿を見せてくれているのは、

ヒロク二さんならではかもしれない。

意外と社交的なところもあって、ここがわたしと違う。

自分からどんどん話しかけます。

「兄貴!」とヒロク二さんを呼ぶ声があると思えば、杖をついておられたりするので、

「お前、もうついているのかよ。俺も時々考えるのだけどねぇ。」と、驚いたりしていました。

帰りながら、「歩けないと好きな街も散歩出来ない。もっと、歩けるように訓練しないとダメだ。」

と言い、毎日の歩きの量を多くすることを決めたみたい。

「街が好き」これが、原動力のようで、好きなものがあるっていいことだなと痛感しました。

 

 

家に帰ってからは、さっそく音楽。

↑この2枚のアルバムがよくかかっていました。

ホットツナは、落ち着いたアルバムで、くつろげるようなギターの音色。

情緒的だなアルバムだなと思いました。

マッカートニーのアルバム、これ聞いたことがなかったのですが、

とてもシンプルだけど、けっこう好きになりました。

音楽は、ヒロク二さんの啓蒙でいろいろな音楽に接するという恩恵を感じる次第。

 

最後はピーちゃん(猫)で締めくくります。

↑チュールを食べているところを写真に撮ろうとしたら、急に嫌がりだして。

ぎゅーと抱いて、写真を撮ったらこんな顔に。

ちょっと前まで、膝に座っていたのに。

 

暑かったり、急に寒くなったりと、落ち着かない秋ですが、

秋は、芸術の秋でもあります。

好きなことを深めたり、好きな芸術に触れたり、少しの努力で体力を温存したり、

好きに逍遥してみてはいかがでしょうか?

秋は、いい季節です。

急に冬がすぐ来たりしませんように!(勝手なお願い)

今日もお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

10月10日0:09 文章を若干、手直ししました。

        いつもおかしくてもまあいいや・・・となるのを反省して。

 

 

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阪急電車(作品紹介702)と 金木犀の頃

2022-10-02 23:02:34 | Weblog

横長の作品で、大きさは33cm×54.5cm。

マジックのみで描かれています。

関西、それも京阪神。

道のりは、阪急電車での西宮北口から、三ノ宮の往復。

そして、散歩風景だ。

ピンクで描かれた記号、

四角を挟む三角形がCDラジカセの巻き戻しの表示のようで、クスッと笑いました。

右上は、窓に映る景色のようだ。

武内の絵には「電車」が出てくる絵が多くあり、「子供と一緒だな。」とよく思う。

子供の絵画教室をしていた時、男の子は電車をよく描くと思いながら、見ていたのです。

「うちの先生も、一緒なんだろうな。」

よく思いました。

描く絵は、イメージ、または妄想が違うが・・・。

今日は、こういう一面が強く出ている絵です。

一部を切り取ってみてみると、

↑斜めに走るピンクの線が電車の速度を感じさせ、

右上の人物は運転士と思いたい。

だけど、過去の武内の絵判断すると、野球のキャッチャーだと思う。

もう一部を。

↑青のブルーの線で描かれたのは、「自分自身か?」

時々、こういう感じが本人からするもの。

(ひどい妻だ)

四角で囲われた右下は、「笑う骸骨」。

楽しげで、おしゃべりで賑やかな骸骨で可愛い。

四角の上には、生き物が歩いています。

得たいの知れないものを描いている時って、

どういう気持ちになって描いているのか知りたい。

いつも思うけれど、どことなく愛嬌があって、憎めないモチーフ。

描いている時は、きっと口を尖らせて、真剣な表情で描いていると思っている。

また、身近なマジックで、こういう作品が出来るのに、驚きます。

 

 

金木犀の咲く頃、とても眠たくなって睡魔に襲われます。

10月1日がそうでした。

朝起きて、ふと昼を過ぎる頃、風がそよぎ眠気に誘われます。

枕を出し、ちょっと横になると寝ていました。

1時間ぐらい。

起きると、横で猫のピーちゃんが、倒れるように寝ていて、

ヒロク二さんはどうしているかな?と思うと、そちらも押入れでスヤスヤしていました。

とても静かで、風がそよっと部屋に入っていて、

我家の全員が倒れるように寝ていたのです。

「なんと平和な!」

そして、「わたしが平和と思えば、平和だ。」

わたしは夫によって、気持ちの上がり下がりの階段を登ったり、降りたりして気持ちがいつも忙しい。

この何もない、あるのはそよ風だけのけだるい昼下がりという瞬間に平和を感じた。

ヒロク二さんは、疲れて寝ているだけかもしれないが・・。

よく思うのですが、環境や状況によって人の心は左右されます。

状況が悪い中、「自分が思えば平和」を自分の中で、

時々作りだせることが出来ればいいのにと、思いついた。

いや、ちょっと近づけることは出来るかも、自信ないが・・。

同じ環境にいても、人それぞれ捕らえ方が違うという事があるので、

なるべく前向きで楽しい気持ちを選択できるようになるといいなぁと思う。

庭の金木犀を見ると、一部花が咲きかけていた。

必ず金木犀の頃に感じる、この感じというのが分り、納得した。

 

こういう日は、あまり無い日なので、もう少し寝ようとしたら、急な来客の知らせ。

そんなに構えておもてなしをするわけではないので、気楽なのも。

しかし、眠くて目を開けていても、頭が眠っているのか、変な感じでした。

それと、コロナの弊害なのか、ヒロク二さんは、よくしゃべった。

相手の方も、あまり人に会っていなかったようで、楽しそうでした。

わたしは、近頃自分の世界に浸っていたせいか、

外界からの刺激を浦島太郎のように聞くことになってしまい、戸惑った。

高度なお話も多くて、固有名詞が何のことか分らないという。

相変わらず、ヒロク二さんは「神戸の生き字引」と言われて、

「あなた歴史の一部だね。」と言ったぐらい。

来客がある時にケーキを焼いてあることが多く、お茶とケーキでほんと、よく話していました。

わたしとヒロク二さんは、読書については全く違う。

その違うヒロク二さんよりの人なので、何かメモをとっておられました。

そのあと、2人でタンゴの話で盛り上がっていて、知らない名前がどっさり。

ポーとした顔で、話の行方、流れだけを感じていました。

↑出したケーキ。

モカケーキになります。

見かけが悪いが、切ってお客さまに。

「次は、絵の話で来ますが、よろしくお願いします。」と言って帰られました。

ヒロク二さんは、「3人で、よくしゃべったね。」とわたしに言うのですが、

わたしは、ほとんど話しに口を挟めない状態だったのよ。

あまり人を観察してなくて、ヒロク二さんらしい。

この適当感、いい。

コロナからも徐々に、開放されていく予感。

 

 

庭では、今インパチェンスが多く花をつけています。

↑右にたんぽぽの花が咲いていて、一緒にとりました。

遅がけに植えたジニアも。

里芋の葉も枯れてきて、もうすぐ収穫に入ります。

↑ニチニチ草、朝顔、ひまわり。

朝顔はもう終わりで、種の採取をしています。

↑こちらは、玄関前。

ビオラ、ルピナスの育苗を。

毛虫にやられてしまうので、毎日注意をして見張っています。

ルピナスはたくさん並べるたら、庭はどんな感じになるかな?と楽しみ。

 

 

平和と言えば、ウクライナの平和を願っています。

わたしの願い方は、「ウクライナの勝利」。

もう、勝つしか道は残されていないのだから。

それと、心の中での平和。

結局、自身が強くならないといけないのかも?

あまり強い人間ではないので、自分で書きながらヒヤリと冷汗が出そうだ。

今日もお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

コメント (2)
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