神戸にあるジャズ喫茶jamjamのことを思って描いた絵だと思います。
港が描かれている。
遠くに見える山。
その山には、髪がカールした、いつもの武内の女性像が。
のっぽの人物も左に見える。
顔は正反対の方向を向いていて、お互いは感心がなさそうである。
縦に描かれた絵ですが、その視線のゆくえから海が横へ伸びているようで変な広がりを感じます。
右下の文字があるところに段々になった線があり、
店への降りていく階段のように感じた。
地下にあるのです。
名前が書き込まれているのは、一緒にいた人物?
日記のような絵なのかもしれません。
ここの珈琲は、苦味があっていつも美味しいことも思い出されてきました。
また、この鉛筆の線は、いつも独特な削り方をしている鉛筆でないと出来ないのだろうなと、
アトリエにある鉛筆の先まで思い浮かびます。
jamjamにも長く行っていない。
本当にコロナから、出かけない癖がついてしまったものだ。
今は、ヒロクニさんと御所川(ローカルな川)沿いに、リハビリと称して歩くのが精一杯な惨状。
しかし、歩くとじんわりと身体が楽になるようで、距離を伸ばしていっています。
気分屋なので、時々休むのが玉に瑕なのですが。
「今は、制作を続行していたい。」と言われると、取りやめになることもあります。
「今日は、パンを買わなくてすむ。」と思い、ホッとしたりして、
散歩に行くと散財するパン代が浮くことに喜びを感じるわたしがいる。
“堕落の勧め”を奨励しているようで、この気持ちはなんだ?と自分を省みた。
パン代意外に、わたしもめんどくさく思う気持ちがあるのも発見した。
また、損得勘定をしないよう自身に言い聞かせる。
歩く方が大事と。身体が動かなくなる方がいけない。
こういう出来事から、
損得勘定だけでを考えていると、虚しい人生を生きるような気がしました。
だからといって、損ばかりする生き方がいいとは思わないのですが・・・。
今日思ったのは、「損しようという前向きにな損。」について考えたのです。
以前、一度だけ、はっきりと損をしてもいいと思ったことがあります。
子供の造形教室をしていた時のこと。
まあ、もともと大雑把なので、「こういうことをしたら面白いだろう。」と思い、
“植木鉢に紙粘土で立体を作る“というものをフランスの美術家からヒントを得てしたことがあります。
芯には、針金(やや硬い)を長く2つ折にして、鉢の穴に4cmぐらい出し、
抜けないようにそれぞれ別の方向に曲げ、長くなった針金を好きな形にして曲げます。
芯の長さも好きに。
芯は自在に曲げられるので、わりと自由な形が出来き、我ながらいい感じだと思っていました。
芯にタコ糸をグルグル巻きにして、粘土を付きやすくする工夫も。
鉢は小さめだったので、重さがいると思い、普通なら新聞紙を丸めて入れ、
その上から紙粘土で土台を塞ぐのですが、倒れたらいけないと思い、
どんどん紙粘土を使ってもらったのです。
かなりストックもあるし、大丈夫と思いながら。
「先生、粘土がない。」という声とともに、どんどん使わせました。
「紙粘土、こんなに使っちゃった。3個目だ。」という声がしてから、
「4個目。」「5個目。」と増え、「8個目。」にまでになった。
個数を使ったということが、子供達には新鮮だったみたい。
また、作品に重量感が出たりして、それも面白かったようで、
粘土を使うことに意義を見出している子もいた。
そこまで、使うとは予想していなくて、「凄いな・・・。」と思っていると、
「先生は、損している。」という声が上った。
それから、細かく計算する子が出てきて、「お月謝はいくらなのに、これでいいのか?」と。
その発言は子供にとってインパクトがあったのか、
粘土が幾らとして、だれだれが8個使ってと、各自に計算ばかりして、
大声で話して盛り上がるという事態になった。
「子供って、親にお金のことをうるさく言われているのかな?」
「細かいなぁ~。」
と思いながら聞いていた。
しかし、ひつこい。
そこで、思わず言った。
「いつも、金勘定ばかり、あんたらはしてるの?」
(怒ると言葉ずかいがやや悪くなる)
「大人はね、たまには損をしていいの。分った?」と、豪語した。
豪語したついでに、「そんなに言うのなら、遠慮したらどうなの!」
「口ばっかり動かしてないで、手を動かさんか!」となり、乱暴な口調に。
ちょっと静かになり、「先生、粘土下さい。」の声だけになった。
だけど、ユニークなものが多く出来き、彩色にも気合が入っているのが多く出来たのを見ると、
「これでいいのよ!」と思い、
粘土をおしまず使わせて良かったと、自分で納得しました。
一度だけ、というのが、世知辛いかな?
子供を前にすると、大人なふるまいをせねばならない時ってあるのだなと、思いました。
これは、わたしがした唯一の前向きな損で、これ以外ないというのが怖い。
お金ではないけれど、上の立場の人が間違っていることをしている時、
進言して正すというのも難しいと思う。
言った後で、嫌われてしまう、上司のような人であれば気分を害されるなどの恐れがある場合、
言った後のことを考えて、自分に損害が降りかからない方を選ぶ。
つまり、悪意ではないのに、悪意に捉えられてしまいそうな場合。
これも、一損をしたくないの一種だと思う。
しかし、これは難しい。
自身の立場も失いかねなく、勇気や強さまで要求される。
そういう人が現れるまで、待つことになりそうだ。
これを、皆が常にしていると、全体が悪い方へ落ちていくのだろうと思う。
こういうことを書いたのは、近年“五常八徳”という孔子様の言う、五常のことを知ったからです。
「仁・義・礼・智・信」というもの。
それぞれ、意味を簡単に知っただけなんですが、全部出来そうにない。
日本の江戸時代、明治時代は、こういうことを実践出来ているような人が、
上に立っていたように感じるのです。
わたしは、年齢が入ってからなのですが、
戦後教育を受けてきた自身のことを、腑抜けな世代だと自分のことを思います。
今日は、朝から国会中継を見てましたが、
予算のことを話し合うはずなのに、
週刊誌のレベルのことを話す議員が偉そうにしていて、
予算と関係ないことを議論しているのを見て、義も信も忠もへったくれもないことに気がつきました。
日本が心配になります。
そんなことを思いながら、庭にあるジニアを摘みました。
↑背丈が随分伸びて、倒れる花が出て来ました。
↑摘んだジニアを紅葉で黄色くなった葉を添えて。
色は、黄色と白だけを選んで。
夏の花のジニアですが、秋っぽくなり、まずまずと思って眺めています。
「今日の花いいねぇ~。」とヒロクニさんから言われ、ちょっと嬉しい。
↑そんな時間の間、我家の家族の猫のピピ。
陽だまりで、いつもの風呂敷包みの上で、だらりと寝ています。
(写真を撮ろうとしたので、薄目が開いています。)
身体が溶けているような寝方。
猫が羨ましい。
ヒロクニさんは、「なんか、こいつ面白い猫ちゃんだ。」とよく言われています。
今日は、散歩(リハビリ)か、パン代か?
そこから、損得の話になり、孔子の“五常”の話しに飛躍しました。
“五常八徳”と言ったほうが、分り易い人もいるかもしれません。
実行してこそ意味があることなので、読むだけでは、「論語読みの論語知らず。」になるということです。
ヒロクニさんに対して、大人な対応を実践できればいいのですが、
なかなか出来ません。
「お前も大人だろう!」となってしまいます。
仁は、愛であると書かれていて、冷っとしました。
多分、まだまだ自分優先なんだと思います。
今日も、最後までお読み下さった方、ありがとうございます。