この絵は、10月22日に出来上りました。
このところ絵柄のスタイルががらりと変わる日々。
こういう混沌とした時期のようです。
ヒロクニさんは、「何かを見つける」「何かに気づく」為の絵画行為だ。と、朝よく話します。
「気づく」というのは、大切なことだよね。と返事します。
「気づく」というのは、教えられることでもないし、自身でなるほどと納得することだと思っている。
だから、ハッと「気づく」ことがあれば、一歩前へ進むことだと思うのです。
私自身のことで言えば、「隣の芝生は青い」ということに、気づくのに時間がかかりました。
だから、ヒロクニさんのことを「ふがいない夫」と思い、30代~40代前半は、喧嘩が耐えなかった。
しかし、ある日ヒロクニさんの良さや、優しいところに気づき、もしかしたら違う面で恵まれているかも?
と思い始めたら、気持ちが楽になり、人生が楽しくなった。
何よりも「絵画が好き」な私は、ヒロクニさんと一緒になって楽しみを広げている。
私らしい生き方でもあるなぁ~と納得するのです。
きっと、こういう風に考えられるようになったことが「人間が成長した」ということなんだろうと思う。
「気づく」ことが、多ければ多いほどいい。
「気づき」は、人を豊かに幸せにしてくれる。
しかし、「気づく」というのは、けっこう難しいことでもある。
その為に、困難が寄り添ってくれているのかも?
ヒロクニさんは、画面の中での「気づき」を求めての制作に励んでいます。
夕方、制作が終わって、晩御飯の時にはフラフラ状態な日があり、すごく少食な日があります。
湊川公園でスケッチをするヒロクニさん。
急に、自分の靴にらくがきする。
この後、元町に出て、三宮に行き画材を買ったのでした。
いつも思うけれど、神戸に行ったら歩きまくりです。
なんたって「俺の街」なので、いきいきしています。
少し花が咲きかけていた周明菊が、たくさん咲きました。
花が風にゆられている姿を見ていると、くつろぎます。
地球上に、風というものが吹かなかったら、なんか寂しくなるのでは?
一筋の風が頬を撫ぜるたけでも、爽やかになったりすることってあるなぁ~と快い風のことを思ってしまいました。
なんとなく、難解な作品をとりあげてみました。
いつも私は、作品として額に入れられた作品をみているわけではなく、
「紙切れ」を見ている。
「紙切れ」で絵を見ると、メモなのか、完成作品なのか?実験作品なのか?判断が難しい。
個展などは、意識して作品を選択している。
ヒロクニさんと私の間で、納得した作品を額装しています。
一括して冷静に絵を選択している。
日常では、ヒロクニさんは失敗作やメモ、たくさんの絵がある。
ヒロクニさんは、出来上がりすぐは、「すべて素晴らしく思う」のです。
時間が経ってから、やっぱりこれはいまいちとか、やっぱりいいとかと判断して、嫌なものは破ってしまう。
こうやって、残っていった作品の中から、個展用の作品をさらに選ぶ。
これの繰り返しが、もう何十年も続いています。
この作品は、正直いって私は「いいとも、悪いとも、判断することなく、へぇーという感覚」で受け止めた作品です。
時間が経って、「風の吹く、けっこう強い風の吹く風景」みたいだなぁ~と感じるように。
そして、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」のあらすじなどを思いだしていた。
嵐が丘のあらすじは、愛と復讐の物語で、イギリスの片田舎ヒース(草)の生い茂る、荒れた土地が舞台。
イギリス・ヨークシャーのハワースだそうです。
孤児だったヒースクリフを引き取り、娘のキャサリンと幼いころから2人は慕い会うようになる。
ところが、上流階級の生活に憧れたキャサリンは、違う人と結婚する。
絶望したヒースクリフは、その土地を離れるが、非常に裕福になってこの地に帰ってくる。
そして、復讐がはじまる。というあらすじなのですが、
その復讐として起きる出来事で、キャサリンは発狂して死んでしまう。
そして、嵐の日には、吹く風から「ヒース」とヒースクリフの名を呼ぶ風が吹き荒れ、
ヒースクリフは、窓を閉め切った家で暮らしている。
そんな所に、田舎暮らしを夢見た若い男性が訪れる。
物語は、この男性が訪れる所からはじまります。
(あらすじの紹介の順番が逆になってしまってすいません。)
嵐の日に「ヒース」「ヒース」と風が叫ぶのです。
この描写が非常に印象に残っています。
この難解なヒロクニさん絵もきっと風景ではないだろうか?
美術評論家でもない私が、そう思いました。
周明菊が咲き始めました。
鉢に植えていたのが、鉢の地下から根を張り、繁殖中なのです。
風にゆらゆらと揺れている様子を見ていると、心がなごみます。
まだまだ、満開になりそうです。
我が家の猫ちゃん、ジルくんが水を飲んでいるところ。
ジョウロの開いているところに手をつっこんで、水をすくい、手についた水を飲みます。
いつも、「水を入れろ」とジョウロのところをクルクル回ります。
足が可愛い感じだったので、写真を撮りました。
背中からお尻にかけて白くなっているのは、ハゲているんです。
いつもケンカに負けてるらしく、ハゲが薄まったら、またやられてハゲるの繰り返し。
「ジルってケンカ弱いみたいだ」。とヒロクニさんに言ったら、
「そんなジルが好きだ」と言います。
この絵は、10分ぐらいで描いてしまった「いたずら描き」。
イラストとも思える絵ですが、なんかオシャレな感じが気に入り、紹介することにしました。
この秋、ヒロクニさんは急に意欲的にJAZZを聴く意欲に走り、
中古CD屋に足繁く通い、すでに3枚のCDを買った。
その後に、すぐしてしまったドローイングであります。
「アネモネ珈琲」という題の絵にも似ています。
1枚目は、フリーJAZZを購入。
家で久々に聴いたフリーJAZZを聴くヒロクニさんを横目に「気合がはいっているなぁ~」。と感心し、
2枚目に買ってきたCDは、下のCD。
ディジー・ガレスピー&ザ・ダブル・シックス・オブ・パリ | |
ディジー・ガレスピー | |
ユニバーサル ミュージック |
↑クリックすると試聴できます。
これは、私は聴いたことがなくオシャレな感じで、フランスでレコーディングされたものらしい。
ちょっと変わっている?とも思いました。
ヒロクニさんは「精神が広がるなぁ~」と言い、
「ああ、この眠った町!」と宝塚への非難をしながら、この音楽に酔いしれるのでした。
まあ、確かに宝塚市はやや田舎で、人もおっとりしているし、平和な感じなので、
いえているのですが・・・・。
ヒロクニさんは、神戸の街育ちなので、なんか空気が肌にあわないのがよくわかる私なんですけど。
神戸へ行けばもう庭みたいなものらしく、縦横無尽に歩き、
「ああ、俺の街!」と叫び、まとわりつく浜風に身をまかす。
離れた所に住んでいるせいか、いっそう「ああ、俺の街!」というセリフを言う。
(私の前で・・・、キザなセリフも真面目に普通に言える夫であります)
「俺の女」というタイトルの絵もあり、時々クスクス笑いながら
「このタイトルやめたほうがいいんちがう?」クスクス、
「せっかくの絵がこのタイトルだとちょっと・・・・」クスクスと、
個展の時に静かに私に教えて下さった方もいた。
「俺の・・・・」という言葉はよく頻繁に使う。
ラブレターのような日記のようなものを会った当初、ドバッと送られたことがあるが、
勝手に「俺のサホリうんぬん」と書いてあり、いつ俺のもんになったんじゃ!と、
反撃に出たこともあったが、ヒロクニさんのいう通り「俺の妻になってしまった」。
そして、25年の歳月で「俺のお母ちゃん」に変わってしまい、なんだか世話役に・・・。
これからも「俺の絵画」「俺の愛するもの」「俺の芸術」と
「俺の・・・・」はヒロクニさんならではの愛情表現。
「俺の・・・・」と言う言葉には愛があるっていうことですね。
葉の浮いたような言葉を普通に言えるヒロクニさんによくとまどった事をよく思い出します。
この絵は同じ時期に描いたものですが、このドローイングはちょっと趣向が違う。
しかし、やっぱり音楽を感じる絵です。
この絵は、自身が営業していたVOXヒコーキ堂のことをちょっと思いだして描かれています。
そういう時間の流れがあって、今日は神戸からのお客様が来客。
「この絵、いいなぁ~」と。
「もう一枚の絵も、これもいいなぁ~」と。
なんか、JAZZを聴いて、カラッとした作風をここ2、3日の間に描いたヒロクニさんです。
身体と脳が音楽に対しては、スポンジみたいに吸収するのかしらん?
三枚目は、ビル・エバンス。
私は知らない間に、名曲ばかり聴いているのかもしれません。
あまり音楽に詳しくなくても、あれれ~~?これは、いまいちかも?と、
何か差を感じることがちょっとだけあるのです。
質をかぎ分けられる時が時々あるのです。
これって、ヒロクニさんからの教育が実ってるってことか?
庭はすっかり秋。
春へ向けての準備に入ります。
土の再生や、球根を植える準備、秋まきの種をまいたり。
ビオラの芽をポットに分けたり、そして育苗します。
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「さほりさんの自虐史観からの脱却」というブログです。
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