この絵のタイトルは、「まさこの夢」。
40年ぐらい前、武内が40代の頃に描かれました。
使用している色鉛筆は、カステル社のものになります。
色鉛筆の使い方も、先を尖らせて、細い線で描いています。
渦巻きから伸びている線になにかが付いていて、シューと渦巻きにとりこまれそうだ。
その間に“まさこ”さんが、ふわっと浮いている。
この絵を見ていると、「夢」すなわち深層の中での世界に侵入しているような気持ちもする。
しかし、深層の中は意外に暗く、不条理な物の存在がある。
“まさこ”は、漂い、どこに行くのであろうか?
こんなことを思っていると、武内から聞いた夢の話しを思い出しました。
武内の話から、何度も同じ夢を見るストーリーがあり、それに渦巻きが出ててきます。
自分は子供で、駄菓子屋に行くと、必ず同じお婆さんが店番をしていて、
あれ欲しい、これ欲しいと言っても取ってくれない。
違うものを渡してくるのだそう。
子供心に何で、言うものを取ってくれないだろうと思っていると、
そのお婆さんが手を出しなさいと催促する。
手を出すと、お婆さんが手のひらに見えないようにして何かを置くのだそうだ。
それを見ようと手を近づけると、手のひらに“渦”がのっている。
その渦を見ながら、「渦だ。」と。
じっと手のひらを見ているのと、「渦だ。」と思っていると必ずそこで夢が覚める。
この夢を何回も見ているそうで、話しぶりから、
この「渦だ・・・。」の瞬間が最重要箇所らしく、
発見と驚きの瞬間に軽いショックのようなものを受けるらしい。
夢を象徴していると思うのは、やはり右端の渦。
それと、関連があるのかどうかは分らないが、武内の絵には“渦”がよく登場します。
この絵を見ながら、武内がよく言う、
「俺はシュールリアリスト。」というのは、こういう絵を見た時よく分ります。
妹の三回忌にあたり、久しぶりに我家の親族が集まった。
コロナ禍に亡くなったので、今回は遠くの親戚も交えての三回忌になった。
久しぶりに見た親戚も皆、歳を取っていた。
寒くて、お通夜の晩も凍るような風が吹き、コロナ禍だったのでドアはどこも開放していて、
非常に寒い日だった。
あれから、3年。
なんと月日の経つのが早い事と思いながら、皆の顔を見ていたのです。
家に帰ってから、ヒロクニさんに
「ヒロクニさんが亡くなって、ヒロクニさんの友人も亡くなっていって、
わたし1人になってしまったら、寂しすぎる。
どうしよう。」と言った。
すると、「君もわかってきたじゃない。」と言われ、
大丈夫だよ等の言葉を期待してしたが為に、しんみりしてしまった。
その間、透明度のある気持ちが続き、これが時間なんだと感じた。
時間はいつだって同じように流れているものなのだけど、
時折、大きく人の営みを感じさせる。
「生まれて死ぬ。」
時間が流れている証拠だ。
「大丈夫。」と気休めでもそう言われていたら、
「そうよね~。」と雑事に耽溺していたかもしれないのだが、
「君もわかってきたじゃない。」と言われたので、分ってしまった。
わたしは、普段どちらかというと、浮ついてウキウキしていたい性質なので、
こうやって静寂にも似た、時間の流れをこの時感じながら、
“寂しい”という感情もいいと思ったのです。
今まで、経験してきた寂しさと違い、
今日思った“寂しさ”は、人が必然的に、ふと感じる寂しさのような気がしているのです。
それは、時間と関係がある。
こんなことを思った時、こういうテーマを持った文学作品を読んでみたくなります。
「ヒロクニさん、教えて!」
と言ったら、どんな本を紹介してくれるのでしょうか?
やはり、フランス文学を推すのかもしれません。
わたしは、フランスのものは、古典的な「モンテ・クリスト伯」なんかが好きなのですが・・。
いつも読んで下さっている方がいるならば、
今日は、「夫婦喧嘩は犬をも食わん。」と言われている、
言い争いの言葉を書き連ねた内容でないので、良かったかしら。
ヒロクニさんは、考えられないことを言ったり、したりするので、
つい書いてしまいます。
こんなわたし達ですが、これからもよろしくお願いします。
最後に、ビオラ。
↑紫ぽいピンクなのですが、紫色に写っています。
あじさいみたいに。