武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

オートマティズム的、メモ(作品紹介670)と ゴーギャンについて

2022-04-30 21:13:49 | Weblog

この絵は、海。

波がよせ、海原には船が見える。

空に浮かぶ雲。

どうもこの雲にはかなりの湿気が含まれている。

トリコロールカラーで表現されていて、フレンチな感じである。

鉛筆は濃い10Bを使っていて、先はすりへって平になったまま、

グイグイ描いています。

線のありようをジッと見て、

「こういう線って、なかなか描けないんだよな。」と、

思いつつ見ていました。

絵本の絵をよく描いていらしゃる、坪谷令子さんが個展にいらしゃって、

武内とよく雑談していました。

以前、5弁の花が並んでいるだけの絵を見て、武内の前で、

「こういうこと、なかなか出来ないのよねぇ~。」と話しているのを聞いた。

話のじゃまにならないように、遠くから2人の話を聞いていて、

「そうなのか・・・・。」と佇んでいた。

そんなことを思い出しながら、この絵を見ています。

雲の線のゆがみや形を見ながら、

「どうしてこんな風に描けるのか?」と感嘆している。

それに、絵に流れがあって、吸い込まれそうな感じもいい。

何かから解放されるような爽快感がするのも不思議なんです。

 

 

はがき大に描かれた絵は他にもあって、描きなぐっていた様子。

他にもあったけれど、失敗も含めるとけっこうな量。

その中から、この絵を選びました。

線の伸び方や、描き方で自由でいようという意志が感じられる。

赤く塗られたところも変に美しい。

自動手記、オートマティスムの領域のようで、

シュールレアリスト達もこの領域にふみこんでいたような・・・・。

そんなことも思い起させます。

今でも、『アンドレ・ブルトン』の本を大事にしている武内は、

シュールレアリストかもしれない。

そんなことを考えさせられます。

 

わたしはシュールレアリストではなく、現実派なので、

この度、ヒロク二さんに「実務派」宣言を、今朝した。

きのうの夕方から、小説家・福永武彦の「ゴーギャンの世界」を読んでいたヒロク二さんは、

「ゴーギャンは、野蛮を求めてタヒチへ行ってねぇ。

 メットという堅い妻がいて、株式仲買人で絵のコレクターだったのが、

 絵を描き出すようになってねぇ。

 このメットという妻は、まるで絵のことがわからんというのでね。」

「メットにしたら、子供もいるし、ゴーギャンの変容がまるで分らなくて・・・・。」と、

こんなふうに話し出した。

わたしは、「メットは、確かゴーギャンと離れてから、政治活動にも勤しんでいたぐらいだし、

 随分、資質の違う夫婦だと思うけど・・・、

 確かそれでも実務的なことはよく出来る人だったと思うよ。

 フランスからお金を送ったり、コレクションしていた絵を売ってあげていたと思うけど。」

話の途中で、「そういうことは、どうでもよくて。」と、話を遮られた。

人の話は聞かないという、扱いをされたので、おもわず、

「自分の話すことのみで、あなたは、人の話は聞かないでしょ。

 そんなことだから、だんだん話を聞いてもらえなくなるのよ。」

と、言いながら、ちゃぶだいの前から立ち上がった。

船酔いのする話し方も我慢して聞いているのに・・・。

「わたしは、もう実務だけしかしないよ。抽象的な内容はどうでもいい。

 具体的に指示して欲しいわ。もう、わたしは、実務をするだけで、芸術論は自分でしたら?

 絵画論も書いたらろうなの!」と、興奮気味になってしまいました。

「君は、わからないんだな。」と言われた。

「そう、急に“それ”とか、“あれ”とか言うけど、それが何か分らないことが多くて困ってるの。

 長い抽象的な話は、あたまがこんがらがるの。」

話している内容と次元があってない、私達2人。

「ケーキも食べたいと言っていたでしょ。焼く時間も確保したいのよ。」

と言うと、自分が食べる具体的なケーキに納得したのか、アトリエに去って行った。

台所でよく口論になります。

 

それから、時間が経ち、夜になってから、またゴーギャンの話しになった。

「『ノアノア』というゴーギャンの本は、読んでいるよ。」というと、

「ゴーギャンはの行ったタヒチというのは、フランスの植民地で文明化されてしまっているということで

 もっと奥にゴーギャンは行きたかったみたいでね。

 野蛮というものを肌身に感じたかったようで、それは何だったのかという・・・。」

と、延々話が続きました。

ゴーギャンとゴッホが共同生活していた時に、ゴッホが自分の耳を切ったという話が有名ですが、

この2人の組み合わせを考えただけで、凄まじいものを感じます。

高校生の頃、サマセット・モームの「月と六ペンス」を何気に読んでいると、画家の物語でした。

ゴーギャンのことだったのだと、後で知ることになる。

読むと芸術家達は、お金に苦労するというのだけは、身にしみます。

それと、お金が出来ると、すぐ使いきる。

ゴーギャンは、そうだった。

ヒロク二さんは、その辺は日本人らしく質素で、

通帳とカードでお金を引き出すことすら、出来ないという人。

ATMを前に固まる。

(これは、ありがたいことかも。お金の管理はわたしである。)

ヒロク二さんと違い、ゴーギャンが株式仲買人で有能でだったというのが驚かされる。 

そんな能力のあった人が、ここまで絵画にのめりこむ不思議。

ゴーギャンの後半の人生は、過激に映るが、到達したいものがはっきりしていたのかもしれない。

そういうゴーギャンの人生を知らずに絵を長い間だ見ていました。

穏やかで美しいものを感じ、あの暖色系の色の美しい調和にただただ感嘆していた。

ゴッホと同様、日本の浮世絵の影響も見て取れる。

浮世絵を昇華させ、自身の美意識として新しく発展させたことにも脱帽します。

少し、ゴーギャンの晩年の作品を紹介します。

↑“アレアレア”というタイトルの絵。

 

↑“黄色のキリスト”というタイトルの絵。

ゴーギャンの生き方の激しさとは対照的に、穏やかなこのキリストの顔が心に残ります。

ヒロク二さんは読書中なので、またゴーギャンの話が聞けるでしょう。

「人の話を聞かないから、聞いてもらえないのよ!」は、効き目があったようで、

「さほりは、今、何読んでいるの?」と、低姿勢で寝る前に聞いて来ました。

「ミス・ビアンカ シリーズ、地下の湖の冒険。

 美女のネズミが囚人を救う話しよ。囚人友の会というのがあってね・・。」と、

 説明すると、無言で去っていきました。

今日は、私の方が、機嫌が悪かったかも。

 

 

季節は新緑。

我家の柿の木は、萌黄色の葉を茂らせ葉が日増しに大きくなってきています。

今年は、“柿の葉寿司”を作ってみようか?思ってみたり。

葉が一杯ある。

チューリップも咲き終わって、青々とした庭。

気分がいっそうします。

↑柿の木の葉が大きくなりはじめています。

黄緑色が眩しい。

↑チューリップが終わって、ジャーマンアイリスの蕾が大きくなってきています。

 

↑種を継いで育てているビオラ。

この黄色いビオラがとても気に入っています。

左上にあるタイプの姿が一番好き。

重いクロームイエローにクラッシクな刺繍の柄にあるように、

花びらの端に薄い灰色が入るっているのを見ると、いいなぁ~と眺めます。

シックな感じがなんともいえない。

 

過去の絵画作品でも、本当に理解されているか?と思う時があります。

生前、ゴーギャンを理解し、絵を購入していた1人は、

文中に出てきた“月と六ペンス”の作者「サマーセット・モーム」。

私自身は、ゴーギャンの絵の良さを、すべて理解していないだろう。

そんなことを思いました。

しかし、あせらずそんな時があるかもしれないと思うことにしています。

急いで、理解?。

う~ん、理解ではなく、「あ、そうか!」と思う瞬間を待つことにしています。

絵画を見るのに、肩や頭に力をいれないで見る方がいいと。

きょうも、読んで下さった方、ありがとうございます。

(お辞儀)

 

 

 

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静かな飛翔(色鉛筆作品669)と 地道な努力

2022-04-23 17:44:31 | Weblog

静かで密やかなところでの飛躍。

誰にも気づかれることなく、ひそやかに。

孤独な時間が発酵するが如く。

夜の海か・・・。

二次元の絵に重力を感じます。

濃い鉛筆と色鉛筆の絵。

 

鉛筆の塗り込め方に特徴があって、もう黒光り。

鉛筆の粉はまったく感じない。

印刷のような表面。

裏も鉛筆で黒光りしていて、紙は圧縮されたようになっています。

紙のふくらみのことを、よく話すので、

「こういうことをいつも言っているのか?」と思いながら、見ています。

実は、こういう効果が出る紙は、絵を描く用の紙ではない。

ロール状になった、印刷用紙です。

幅は、1m以上ある筒型のもの。

使い出した頃は、メモというか、いたずら描きに使っていましたが、

途中でつい、この紙で絵を仕上げてしまい、それからのめり込みました。

そのようだったと記憶しています。

筆圧の強い武内の描き方と、この紙の組み合わせで、こういう印刷のような絵が出来上がる。

今回の絵は、静けさを感じる作品です。

武内の飛び跳ねる感覚の作品で動きのある絵を見たあと、

夜のしじまのような感覚の作品を見ると、そのギャップに驚く。

しかし、ある種の独特さは、共通している。

わたしは、この絵は、夜の波に乗って人が飛んでいるようにも思え、

夜のサーフィンのような印象も。

抽象的な作品なのですが、重力ある地球上のことのように思いました。

形が優雅に感じられ、シンプルさが心地よい作品なのでは?

アトリエにあるファイルの中のものを失敬しました。

 

 

よく人が思うことなのですが、「年とったな・・・」と。

年配の方からすると、若いのに何をいっているのだとお叱りを受けそうだ。

今年で60歳になる(まだ、ですが・・)と思うと月日が経つのは早い。

1つの節目で、年齢のことを感じているところ。

これも人はよく思うことの1つで、今の自分の姿を省みて、

若い頃と気持ちは変わっていないということ。

それが、怖い・・・・。

わたしの場合は、年齢のわりに、簡単にいうと子供ぽい。

しかし、身体は甘やかすとすぐ劣化する。

しかし、30代ぐらいの若い人と話すと感覚が違うらしく、

世代差をくっきり感じ遠くを見つめる眼差しになる。

「わたし古いのね。」という具合。

お祖母ちゃん子だったので、八百屋さんのおかみさんから、

「あんた、若いのにそんな古いおかず作るの?」と言われたり。

それは、“ささげ”(細いさやいんげんみたいなもの)となすの煮物のこと。

さっぱりよりは、甘辛く煮る。

米粒は、祖母は子守唄の間に、

「一粒の米に、12升の水」が必ず入った。

そして、どれだけ大変で重要なことかと教えられるので、

その教育のおかげか米粒を残さなくなった。

ヒロク二さんが、茶碗に米粒がついているのを残すと、

目玉が飛び出そうになります。

最近は、老眼がひどいので、もしかしたら見えていない時もあるかもしれないと思い、

それほど厳しくしないようになりましたが・・・・。

近い将来「一粒の米に、12升の水。」とか言い出す、老婆になりそう。

残し物をしない人を見ると、「あんた、出世するわよ。」と言ってしまう。

でも、これはわたしにとっては、道理なのです。

「自分は運が悪いと思うなら、まず食べ物を粗末にするな!」もある。

今では、習性になった。

自分に教訓をたれるようになったのは、40代ぐらいから多くなった。

今、節目として、若い頃と変わったと思うことを1つ上げるとしたら、

「努力は大切だ。」と心から思うこと。

子供の頃、親から「勉強しろ。」と言われ、「努力しろ!」と言われると、

辛気臭く感じ、「嫌べ~!」って舌出す感じでした。

「ど根性感覚って嫌ね。」と軽蔑すら感じていました。

それが、こつこつと階段を上がるように努力することは、

自分の生きている間に、何が起こるかわからないという、

楽しみを与えてくれると思うようになった。

これが、一番大きい。

このブログも人から勧められて書くことになったのがきっかけですが、

2008年9月から初めて、今で14年になる。

その間に、「しあわせ食堂」の本が出版されたりした。

その上、出版社の社長さんから、

「本を出版するにあたって、奥さんの“面白おかし解説”付きが条件です。」と言われ、

普通なら「わたしは、そんな大それたことは・・・。」とか、

「いえ、いえ、わたしなんて・・・。」と、

今までの性格を考えると言いそうなのですが、出てきた言葉は、

「是非、わたしやらせてもらいます!」とふたつ返事。

意外な勢いに自分で驚いた。

たぶん、切羽詰っていて躊躇する暇もないということもあったが、

随分前向きだったのです。

若い頃から趣味でしている読書や、ブログをコツコツ書いていたという

地道な下地があって、前向きだったのだと思う。

もちろん、ヒロク二画伯という存在があってのこと。

ヒロク二さんの周りで、することがたくさんあった。

思うのですが、なりゆきとはいえ、自分の長所や好きなことをコツコツ努力していると、

「あれ?」というような意外なことが、どんな人にも起こる可能性ってある。

ブログを書くのを勧められた時、「何かめんどくさい。」って、

言い放ったりして、とても失礼な答え方をした。

「ヒロク二さんのブログを書いて下さいよ。」と何回も言われ、

「これ以上忙しくなるのはちょっと。」とか、

「いや、ネットとかどうしたらいいかわかないから・・・。」とも言い逃げていた。

ところが、病気になって療養しないといけなくなってしまい、

空いた時間にパソコンをさわっているうちに、やり方が分って書くように。

急に方向転換して、「あ~な~た~の・た・め・に、エンヤコラ!」と歌っていた。

ヒロク二さんに聞こえるように言いながら書いていると、

「自分の為だろ!」とヒロク二さんの声する。

「あなたの為でしょう?」と、当人の顔を見据える。

なんか迷惑そうな顔をしているヒロク二さん。

ロマンティストだから、サナトリウムに入っているような感じのほうが好きなようだ。

だけど、サナトリウムで療養している人に「今日のおかずは何?」と聞くような良人。

だんだん、「あなたの為に~。」ではなく、そんな日常を書くようになった。

そんなこんなで、文章の良し悪し抜きに、ただ続けています。

「ただ、続けている」という事実は、継続は力なりと思い、

米粒の話がわたしの血や肉になったように、

これも何かになるかもしれないと思いながら書いています。

文才があるとか思っているわけではなく、書きながら何か発見することがあると思っています。

「自分はこういう努力をしよう!」と、

ワクワクするような感じで考えてみると楽しいなと。

ある人から「苦労も楽しく。」と言われたことがあり、

「えっ!」って驚いたことがあります。

それから時間が経って、「努力する楽しみっていうのもある」と思い至ったわけです。

ただ、努力は人目につかないし、地味なものだけど、

じわ~とした血や肉になると思います。

「人に優しくしよう!」とかでもいいと思う。

「夫に優しく!」でも。

自分で書きながら、「夫に優しく」は、難しいかもというのが、怖い。

「夫に厳しく」だとやりやすいのですが、これじゃ、ヒロク二さんが可哀想だ。

努力しなくてもすぐ出来そうというのは良くない。

自分に何かを課す、実は思いついたことがあるのです。

(自分の中でのことなので、割愛しますが・・・)

ヒロク二さんは、特殊な人。

今年で、85歳だが、テレビもチラッと見るだけだし、大抵は絵を描いています。

長年の生活で、絵を描く以外のことはあまりしない。

茶碗の後片付けをしたあとは、これみよがしに、

「大変なんだよ。洗っといたからね。さほり。」と名前をつけて報告してくれます。

何となく、怒り気味な感じで言われるので、

「ありがとう。」と言いながら、顔は真顔になります。

この人の場合は、1つのことに絞られているのが見事すぎて、

絵を描くことしかないので、努力を超えているような感じ。

茶碗洗い、嫌なんでしょうか?

 

 

今日は、甘えん坊の我家の猫、ピピちゃんで終わります。

↑今、毛が抜ける時期らしく、服に毛がやたらつきます。

こうやって、膝の上や抱っこが好きなピー。

手の感じが可愛い。

模様のせいで、目を閉じたら、顔がどうなっているのか、さっぱりわからなくなるピー。

そこが、飼い主には可笑しく、ヒロク二さんは、

「おい、お前、顔がわからないよ。」とよく話しかけます。

わたしは、「ピーちゃん、そんなことでいいと思っているの?」

「顔、ちゃんとしないといけないのと違うの?」と、

無理難題を言って、笑います。

 

↑膝に乗せたまま寝かして、鼻を押さえた。

鼻に指をあてても、プイッとしない猫はめずらしい。

うっとりしているようで、いかにも甘えん坊な感じ。

この感じも愛おしい。

↑これは、丸く寝ていたところ、顔を持ち上げて写真を撮りました。

身体に比べて、顔が特に黒い。

「えっ。」って顔。

新しい言葉を覚えて、「ピーちゃん、来てごらん。」と呼ぶと、

テクテクという足音をさせて、しっかり歩いてきます。

「ピーちゃん、賢くなったね。」と、頭を撫でてあげると、自分からスリスリします。

ピーも、進化しているようで、なにより。

 

 

楽しく努力することって、何かワクワクしません?

もっと、若い時に気がつけば良かったと思いますが、それはしょうがない。

思い立ったら吉日。

そんなことを思いつつ・・・。

ブログにしては、長い文章をお読み下さり、ありがとうございます。

 

 

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何が描かれている?(作品紹介668)と ヒロク二さんの憂鬱

2022-04-16 16:37:42 | Weblog

アイスクリームの絵?

枯れたバラの花の絵?

新しいタイプの骸骨の絵?

爆発物?

人の顔が見える・・・。

人に想像を強いる作品だ。

実は、この絵を取り上げようと思った時、こんなふうに見ていました。

2

逆さまに見ていて、腕組みする男の肖像か・・・、という具合に。

こう思いこんでいました。

サインを見たら、逆さまに書かれているので、間違っていたと思い、

武内に「わたし間違っていたわ、この絵の向きはこうだったのね。」と、笑いながら言うと、

「いや、この絵はこう向き。」と言って、「2」の絵であっているという・・・。

また、混乱して、あっち向き、こっち向きと絵を眺める。

武内は、確かに上記の「1」で作品を仕上げたのだけど、

久しぶりに、この絵を自分で見て、

「こっち向きの方がいいよな。だから、こっちが正しい。」

と、方向転換したと思われる。

「こっちのほうがいいじゃん。」と思ったら、

それまでの考えや思いは、簡単に捨て去る。

制作で独特の軽いノリを発揮している時は、

わりと「イケているとき」のようです。

しかし、生真面目というか、頑固というか、堅苦しいわたしの性格によって、

正統派の向きの絵を一番上にもってこられているのでした。

(こういうのを奥様が、権力を持っているというのでしょうか?)

アクリル絵具とクレヨンを使用。

何が描いてあるのか、人によって捉えかたがいろいろありそうな作品。

わたしは、「枯れたバラの花」に。

 

 

この絵は、ちょっと重い感じがする絵。

このところ、ヒロク二さんは、憂鬱らしい。

静かに台所でじっとして黙って座っているのを見かけると、ギクッとする。

「そこにいたの?」と声をかけずにはいられない。

「いや。」と、言いながらしんみりした様子。

急に「こんな世の中で、どうしたらいいと思う。」と聞かれる。

生真面目なわたしは、一瞬「どうしたらいいか?」を考え始め、

脳がギュッとそのことに集中していくようすを感じながら、

脳がなんだかしんどそうに動く。

急に「何で、わたしが考えないといけないの?」いう思いがして、

「普段、俺のいうことをきけ!みたいなんだから、どうしたらいいかはそっちが考えなくっちゃ。」と、

切り返した。

「問答、切り返し」の術とでも名付けようか・・。

まあ、一種のバリアーのようなものかも。

そうやって、一日の終わりの頃、夕食後ちょっとしたら、

「実は、あのウクライナのことを他人事とは思えなくて、なんか憂鬱になってしまって・・。」と。

「いや、自分は一緒に憂鬱にならなくていいのも分っているのだけど・・・。」

「それに、幼少の戦争の体験なんかも思い出して、やっぱり戦争で傷ついたりしていたのかな・・・、

 とか思って、なんか嫌なんよ。」

「ウクライナの人を見ていると、ある種の親近感も湧いてね・・。」

そのことで、憂いていたんだと分り、少し安心した。

わたしは、「憂鬱になるというけど、それだけ親身になって憂えているのは、悪いことじゃないと思うよ。

ヒロク二さんのいいところだと思うけどな。」と言った。

「そう?」

「そうよ。」と、わたし。

それから、「こんな世の中で、どうしたらいいと思う。」と言わなくなった。

なんか、子供を諭す親みたいな感じの調子になってしまい、

それがヒロク二さんにとっては良かったのかも。

毎日、ウクライナのことで気を揉みながら、制作しています。

 

わたしも又、早く終わらないかと思っているひとりですが、

「平和とは?」どういうことを言うのでしょうか?

簡単にいうと争いがなく、日常が送れることですが、これを維持するためには何が必要なのか?

こういうことを考えます。

やはり平和である時から、悪い流れにならないように、未然に争いを防ぐことが大切だと思いますが、

それを判断する智恵のある人がいなくてはならない。

また、そういう人を見る目がある一般大衆がいなくてはならない。

一般大衆というのは、烏合の衆なので、好き勝手だ。

もちろん、わたしも烏合の衆の中のひとり。

しかし、烏合の衆とは言え、その質が上がるとレベルが上がり、

よき方向へ行くことが可能ではないかと思う。

その為には、感情に振り回されず、謙虚にものごとを受け止め、論理的に考えることが必要と思われる。

こう書きましたが、これ自体が難しい・・・・。

やはり、こういうことが起きるたびに、学ばねばならないことがあるのだと思います。

 

 

マキャベリの名言に、(イタリアの政治思想家、外交官 / 1469~1527)

■自らの安全を自らの力によって守る意思を持たない場合、いかなる国家といえども、独立と平和を期待することはできない。

また、他にも

■決断力のない君主は、多くの場合、当面の危険を回避しようとして中立を選ぶ。そしておおかたその君主は滅んでしまう。

■議題が何であれ、進むべき方向と反対に議論は進み、本当に有益な意見を述べる者ではなく、うわべを取り繕った意見を述べる者が会議を支配する。

■愚者が最後にすることを、賢者は瞬時に行う。

 

時代が違うけれど、真理を突いていることが多い。

(『君主論』というのが有名で、時々読んでみようか?と思うことがあるけれど、

文章が難しそうだったらと思い、敬遠してしまっている。)

女は、現実生活で忙しい。

 

 

 

アトリエから見える庭。

↑ヒロク二さんのアトリエから写真を撮りました。

チューリップは、ヒロク二さんのリクエストで植えています。

 

↑近寄りました。

今年は、50個まとめ買いしたチューリップで5色セットだったはず、

そう、はずなのですが、赤い色とピンクが同じ色で、思っていた色が一色ない・・・。

赤がかったピンクの花が、多量に咲いています。

手前のチューリップは、昨年のもの。

ミニチューリップに、ワイン色と白のツートンカラー、くすんだオレンジがそうです。

 

↑陽の方向を向かって咲いているのが、横からとると分ります。

傾き方がいいな、思う。

 

↑チューリップの根元には、タンポポが。

ムスカリもチラチラ見えます。

花が咲くのは、ほんの一時。

昨年の秋から植え付け、冬の寒さに球根があったって、それが咲く合図だそう。

球根が寒いということを感じると、

春が来ることを知り、花が「咲かないと」というスイッチが入るらしい。

何事も、水面下で結果が出るまでに時間がかかり、

こつこつ努力したことが表面に出るのには時間がかかるのだと思いました。

世には、悪人の努力というのもあります。

悪人がゆえの無慈悲な努力。(こういう人のパワーは凄いから、怖い。)

だからこそ、善なる人よ、頑張れ!と思います。

最後の締めくくりが、変なわたしの意見でした。

 

今日も、ブログにしては、

長文になりがちな文章を読んで下さりありがとうございます。

 

 

 

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春の少女(色鉛筆作品紹介667)と ねずみのデグーの話

2022-04-10 10:54:35 | Weblog

我家の庭も花で華やかになってきています。

春のうららかな日に近い作品を選んでみました。

A2サイズの紙に濃い鉛筆と色鉛筆で彩色されています。

武内の言う「一本足の女の子」。

簡単に説明すると、奥様じゃない(所帯臭くない)、

ちょっととっぴな少女というイメージの女性像なんだと思います。

春、花が咲き乱れている中、あやうい少女が楽しげに歩いている。

こんな雰囲気なのだと思う。

よく見ると、この少女の髪が、跳ね上がり渦を巻いている。

それは、風がまいあがり、気流を感じさせ、春一番の風のようでもある。

片目を閉じ、もう一方の目は空虚だ。

目の下の小さい黒い形は、付けホクロのような感じもする。

それが、ある種の妖艶さではなく、キッチュな感じを出し、

おもちゃのような少女像。

この少女は、武内の内なるの少女なのだ。

 

やっと、春の陽気と戯れる。

庭に行くと黄色いマフをしたクマンバチの羽音がする。

必ず2匹が交差して飛び、近くをよぎる。

この羽音は、春の陽気といつもセットになっていて、

日があったって白茶けた地面を見た後に、羽音をさせる蜂を見上げる。

この瞬間、「春らしい」と思う。

我家の庭は、やっと咲き始めたビオラがこれからが本番という感じで、

昨年植えたチューリップが咲くと庭がピークを迎える。

まだまだ、楽しみな季節です。

連作障害のおそれがあるので、トマトは今年は植えなくて、

違うものを植えるのに何がいいかな?とホームセンターへ行った。

トマトはナス科らしく、じゃが芋もナス科ということで諦めた。

いつもホームセンターでは、必ずペットコーナーも見る。

猫は、いつ見ても飽きず、今のところ“ブリティッシュショートヘア”が気に入っている。

あのグレーと茶色い瞳と、地味目な雰囲気が味わいがある。

普段は、それで帰るのですが、小動物も見ておこうと思って小さい部屋に入った。

そこで、見たのは?

 

“デグー”という種類のねずみ。

ハムスターとは違って、ねずみらしい風貌。

目がとても可愛く、しっぽも毛が生えていて、先っぽのところがポワッと膨らんでいた。

手で、草を持って食べる姿がとても愛らしい。

続いて見ていくと、“ドブネズミ”と書かれた檻もあった。

こっちは、太いしっぽは、ミミズの太いのが付いているようで目も幾分か鋭い。

“デグー”を見た後では、凶悪な雰囲気に見え、

“ドブネズミ”がペットとして売られていることに驚愕した。

飼う人いるのか?と思っていたが、数日後行った時にいなくなっていました。

ドブネズミは「デグー」よりはるかに大きく、うさぎを小さくしたぐらいの大きさがありました。

その「デグー」を見てから、少し調べて、飼い主になつく様子も可愛いものだと思い、

その話をヒロク二さんにした。

まず、“歌うねずみ”と言われていることや、ペルーに住むこと。

おやつ、餌を隠す様子、手に持って隠す場所を探して決めたら、まず置いて、

その餌を手でカサカサと忙しく動かし、草を被せたりする。

草がなかったら、そのしぐさだけして、丸見えなのにかくしたことになっている可愛さ。

飼い主に駆け寄る姿、ピピピと鳴きながら、足からよじ登って、手のひらへ。

怒る時もあって、かなりビービーいう姿や、脱力して飼い主の膝で脱力し寝ている姿を説明した。

急に、ヒロク二さんは、「それは、いくらぐらいなの?」と。

「えっ、飼いたく思ったの?」

「いや、そういう話って、癒されるじゃない。

 変な話だけど、夫婦ってそんなところもあるじゃない。」

わたしは、テグーを可愛がっている自分の姿と、

ヒロク二さんを可愛がっている姿を思い浮かべ、

ペットにはすぐ優しく出来るのに、

ヒロク二さんの場合には無条件ではなく、

判別して優しくするかしないか思ったりしている自分に気が付いた。

しかし、ペットのようにされたいのか?と思うと気色が悪い。

だけど、わたしはヒロク二さんに優しくするのには、

常に心で取引しているようなところがあるのに気が付いた。

「えっ、なんか心狭い。」と思った。

以前、動物病院へ行くと、奥様同士で、

「主人が具合が悪いと言っても、『あなた、寝ときなさい』って、ほったらかしているのに、

 猫ちゃん(犬の場合もある)が具合悪いっていったら、ほっとけないものね。」

「そう、そう、そうなのよ。」という会話を聞いて、

わたしも「やっぱり、そうなるか・・・。」と頷いたことがあります。

「デグー」の可愛さに目覚めたわたしは、ヒロク二さんが共感してくれたことは嬉しかった。

ふたりとも、この話の時はほんわりして。

だけど、ピピという猫がいるから無理なのです。

だから、ヒロク二さんに「デグーはねずみだから、ピピにとっては獲物だから無理なの。」

ヒロク二さんは、そのデグーを見たこともないのに、その気になっていたのが不思議。

「そうかぇ。」と言うと残念そうだった。

話題を変え、「この家の周辺には、イタチもいるし、以前アナグマも出て、

庭を掘り起こしていたでしょ。」

「ハツカネズミだっているってよ。近所の方が、『この中で泣き声がする。何かおる。』と、

ジーと穴を見つめながら言っていたし、アライグマも出るって言ってたし。」

ここまで言うと、「そんなにいるの?」と驚いている。

実際いる。アライグマ以外、わたしは目撃している。

イタチは、ねずみの天敵だし、ふくろうはイタチの天敵だし、

猫もねずみの天敵よ。ああ、イタチの天敵には鷹もいる。」

すると、ヒロク二さんは急に「サイモン&ガーファンクルのコンドルっちゅうのは、

どんなものなんだ。」と言い出し、ああそう、日本では鷹も飼われているねぇ。」

「鷹!?あの腕にのる鷹のこと?」

「そう、カナリアが家に飛び込んできたことがあって、それを飼ったことがあってね。

 呼んだら、首を傾げてね。その様子がね。だけど、逃げてしまって。

 もともと、飛び込んできたカナリアだったから、いなくなって寂しいというのもなんだけど。」

我家が、動物の話で盛り上がるというのはめずらしい。

ヒロク二さんはデグーに癒されたのか?

どんなねずみを想像しているのか興味深い。

今度は、わたしはピピ(猫)が大きい“デグー”のような気がしてきたり。

膝でダラ~ンと寝たり、ピ・ピと鳴きながら朝、顔を叩いたりするし、

部屋をあっちこっちいって、点検している姿や、

チュールを抱きかかえて、口元で手をやっている姿を見ると、

大きい“デグー”のようなものに思えてきた。

猫はねずみの天敵というのは、しょうがない。

ピピに怯えて、早死にする“デグー”の姿が思い浮かぶ。

さっと、あきらめた。

冒頭の“ブリティッシュショートヘア”は、古代ローマ人がイギリスに渡るとき、

船のねずみを退治するためにつれていった猫だ。

こういう関係は、道理というもの。

厳しい。

動物はどうしてかわいく感じるのか?と考えたことがあります。

動物は、身体に毛にが生えていることが、ほっとさせる要因だと思い至ったことも。

毛がない動物は可愛いいか?

ヒロク二さんに聞くと、

「やっぱり、嫌だねぇ~」と。

久しぶりに、話が盛り上がりました。めずらしいことです。

ふたりとも春で、頭が緩んでいるのかもしれない・・・・・。

ヒロク二さんが「癒し」という言葉を使ったのも、新鮮でした。

どちらかというと、「毒を持って毒を制す」の人と思っていたから。

うららかな春の日の一日でした。

 

庭も春です!

↑庭では、やっとムスカリが咲き始めました。

チューリップの球根とダブルデッカー植え。

いい感じの雑草は、残しつつ手入れを。

↑こちらは、鉢植えのムスカリと自生している花ニラ。

↑これは、水菜の花。

うしろに見える花は、すべて花ニラ。

どんどん増えていっていて、庭の奥は花だらけ。

この満開感が気持ちを上昇させます。

↑写真が暗いのですが、またキャベツに花の目がついてきたので、もぎりました。

ヒヤシンスの花を多めに切って、ビオラと。

小さい種を採取していっているビオラは、花が色々なのでそれを添えて。

 

↑真上からみるとこんな感じ。

キャベツとヒヤシンスだけでは、華やぎがないので、

カラフルになるように色を選んで。

その時、その時なので、コップの花も一期一会なのかもしれない。

そんなことも思います。

 

 

くつろいだ日の会話でした。

その他に、わたしの天敵のことも思い出します。

30代の後半の頃、「天敵」と呼んだ上司がいました。

わたしにチクチクと細かいことで、いつも文句をいいにくる上司。

その上司を「わたしの天敵」と命名しました。

さらに“天敵”と同僚に宣言したとたん、その上司がわたしに嫌味を言いに来ても、

“天敵”なんだから、当たり前になり、

お昼の時間、同じ店で食事をしているのを見つけると、

「天敵がどうしてわたしと一緒の店で食事をするわけ?」と冗談を言ったり、

「天敵は、あそこにいる。」とか、

「来た!天敵が来たわ。」と言っているうちに、

面白おかしくなってきて、気持ちに距離が出来た。

チクチク言われながら、ある日、

「(天敵さん)わたしもだいぶましになったと思いません?」と投げかけたら、

「よくなった。」と同意してくれました。

天敵と呼ぶことで、わたしの心に余裕が出来たのだと思います。

当たり前のことと受け止めているうちに、上司にもゆとりが出来たのか?

それからは、上司と友好的に仕事が出来るようになった。

天敵がいなくなったということです。

不愉快感をもうひとりの自分が見つめることに「天敵」の言葉が役に立ったのだと思います。

自然界の天敵は、掟のようなもの。

人の天敵は、変わるのですね。

ヒロク二さんとわたしの会話も、脈絡なく変わるし、

わたしもその要素があって、また、長々と書いてしまいました。

このところ長文になる癖がついているようで、

読む人は大変かもしれないとよく思います。

読まれた方、ありがとうございます。

季節は新緑へ向かいます。

その勢いを感じながら・・・。

 

 

 

 

 

 

 

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循環(ドローイング紹介666)と 環境問題と正義

2022-04-03 17:59:06 | Weblog

このところ空間の把握をしているような仕事をよく見る。

半円と流れる線で描かれた矢印のようなもの。

矢印が絵の印象を左右して、見るものに印象を残す。

どうしても人の顔に見える線の組み合わせ。

横切る線は水平線か?

靄がかかった世界から、

何かがたち現れてくる途中の経過のようでもあり、

それを感じてじっと見ている存在がいる。

そんな風に思いながら、絵を見ていました。

 

もっと、詩のように文章を書いたらどうだろうか?と、

頭に一瞬ひらめきましたが、

現実的であまり詩的ではない自分のことを考えてやめました。

こういう時、自分を知っているということは、大切で良い事だと。

不遜なことは考えてはいけない。

ヒロク二さんがニュースを見ていた。

4月1日から、プラスティックの製品、お弁当のスプーンや、

その他のプラスティックをなくす政策の報道だ。

なんと愚かな・・・と、近視眼的な政策をと思い不機嫌になった。

環境問題で、プラスティックと二酸化炭素の問題が語られることが多くなりました。

ヒロク二さんは、意外と素直なところがあるので、

「人類はいろいろ考えないといけないのだねぇ。」と危機感を持ったりしている。

わたしは、ちょっと反抗的な気持ちが起ってしまって、

「今年の冬、寒かったよね~。温暖化していると思う?」と聞いた。

寒さを憎んでいて、「日本はだからダメだ。」というような人なだけに、どう答えるだろうと。

「温暖化してない。」と答えた。

あのスーパーでのレジ袋の対策は、効果があるとは思えない。

だって、わたしなんかレジ袋をスーパーでまとめ買した。

例の丈夫なプラ袋も持っているし、景品でそういう袋がついてくることも多くなった。

こういう政策を政治家、この場合は「小泉進次郎」ということになるが、

他にも考えた人物がいるはずだ。

小泉環境大臣は、不評の嵐で、

いきなり「レジ袋有料を考えたのは自分じゃない。」と言い出す始末。

あの、自信満々にいう顔はなんだったんだ!

考えたのは前原田環境相だと言い訳している、情けなさ。

その前原田環境相も1人で決めたのではなく、官僚と一緒に話を進めたのだろう。

よく思うのですが、この官僚という人達は表に名前が出ることもなく批判も受けない。

こういうポジションにいて、いいように政治家を洗脳して、

自分達の思う方にもっていけると思うのです。

また、無能な政策を推し進めても、政治家のせいに出来る。

どんな官僚が、決めたのか知りたくなります。

時々思うのですが、この官僚のチームが考えましたというふうに、

分るようにしてしてくれないかな?と思う。

名前を出さないと隠れて、省益ばかり考えるようになってやりたい放題になりやすくなるし、

まあ、財務省の官僚などは、国民を貧しくさせることしか考えていないのではと、

わたしでも薄々感じるもの。

まあ、名前が調べたらさっと分るぐらいに、政策に関わった人の情報を公開して欲しいと思います。

知られたくないと思うのなら、影でコソコソしているということ。

こういう人達が、大事な国の政策を考えているとしたら怖い。

 

話を戻します。

環境問題の中のプラスティックとCO2の問題を分けて考えてみます。

■まず、よく言われるCO2の問題に焦点を当てます。

その他のプラスティックの問題と一緒にしないことも大切かと。

燃やしてしまうプラスティックはただのゴミ扱いとします。

これは、環境省からのグラフ

日本は、まあまあ多い。

しかし、中国とアメリカが半分近くを占めています。

日本に環境ガー!といってきて、最終的に、言うことは、「金だせ。」

何故か、中国には一言もいわない。

このことが、わたしは環境問題の活動家という人達に信頼をおけない理由です。

中国は、後進国だからが理由だそう。

世界に進出して、核を持ち、他国を金で牛耳って、領土もねらうくせに、後進国だそうです。

片腹痛いと思うのは、わたしだけか?

アメリカにもあまり「環境ガー!」って言って、「金だせ!」も聞かない。

日本に向かっての言葉ではないので、知らないのかもしれないが・・・。

まあ、わたしはとりあえず、その2国が努力せよ、と思うわけです。

また、CO2のことを考えると、原発を稼動した方がいいと思うのですが、誰も言わない。

EUは、原発はクリーンエネルギーだ!と方向転換しました。

ドイツも考えを改めてきているのは、現実を見直しているようでなかなかラジカルな思考をしている。

こうなった時、日本は考え直したり、行動に移すのが遅い。

反原発の人の声が報道される。

だから、たくさんの人がそう思っているかのような印象を受けるけど、

わたしの甥っ子や、若い人はそう思っていないみたい。

周りに、反原発の活動家の人達もいますが、論理的に話すのが難しい人達で、

原発という言葉だけで「悪」になるみたいで、「許せません!」となるから、

こっちはこういう考えなのですよ~と伝えること事態が難しい。

それに、マスメディア自体が反原発なんだろうともよく感じる。

あまり原発賛成の意見は取り上げられていないと思う。

(わたしは、安定した電力の供給には、今ある原発は動かした方がいいいう意見。

太陽光は役に立たないと見切りを。)

というわけで、わたしの考えは歩が悪い。

なんか、しょんぼりとしてしまいます。

 

 

■次は、海洋プラスティックに焦点を絞ります。

先の考え方と同じで、陸地でのプラスティックは燃やされているとして考えないことにします。

これも環境省からのグラフ。

日本は30位。

中国の排出量を見てごらん。

日本のほぼ59倍の量。

世界は、中国に、働きかけてないと思うのですが。

しかし、意外と多いのが、東南アジアの国なのだというのは知りませんでした。

日本で、ゴミを投げ散らかすような人がいる環境にいないからかもしれませんが、

川とか海、その他の場所でもゴミを捨てる人がいるというのに驚く。

普段、周りでそんなことをしている人を見たことがない。

たぶん、ゴミを捨てる人物がいるとしたら、同じ人がいつも捨てているのだと思ます。

この環境問題で、まったく中国に働きかける姿勢がないのであれば、おかしすぎる。

わたしは、お金を出したら、どれだけ環境が良くなるのかということを知りたい。

お金がCO2を減らすことはない。

そのお金で、「これだけCO2や、環境が良くなりました。」という結果はまったくでないと思う。

ただ、お金を出しただけであって。

何も付加価値のつくものに、変えていない。

変な例えですが、空気を浄化する機械でもあって、お金を払ったらこれだけきれいになったとか、

なんらかの行動で、これだけ環境がよくなりましたという成果が知りたいと思うのです。

その環境団体に、貢献しても地球は変化しないと思う。

何となく、どこの国はこれだけ出資して環境に貢献してくれましたというだけで、

実際の地球は変わらないままなんじゃない?

出資したお金は何に使うか、何に使ったかきちんと報告してくれるのだろうか。

入金先だけ、しっかりしていたりするのかな?

 

この環境問題に関わる人達は、どうやってこの問題を解決しようとしているのか?

今日1つ道筋がたっていないにも関わらず、ただ声高に言っているだけのような気がするの。

活動には、かなりお金をかけているような気がするけど、

そのお金はどこから来ているのか?

人は生活するのにお金がかかるものだけど、

結局その環境団体で食べているとしたら・・・・生業だし。

そのお金が続くようには資金がいるという。

そのためのお金になってしまわないかな?

人に危機感を煽るだけでなく、道筋を示してもらえたらと思います。

心がけがいい人がさらに工夫して、ゴミを減らす努力をして、

啓蒙ですっかり環境オタクになって、生きがいを感じる人や、

環境団体に入ってすごく活動的になる人や、

政治家なんかはこういうことを言うと良い人になったような感じがして、つい言うとか、

人はそんなふうだ。

健気なのは、「心がけがいい人がさらに工夫して、ゴミを減らす努力」というやつ。

わたしも、ややこちらの部類。

普段、道や川にゴミを捨てる人っているのか?

言われなくてもゴミなんか捨てない人は一杯いると思う。

このわたしだって、ゴミなんか道に捨てないし、洗濯の洗剤も川が汚れない洗剤を使っている。

環境問題の前から。

しかし、宣伝から熱心さは感じる。

洗脳しようと必死なのかも?

環境ビジネスというのもあるのかもしれない。

まあ、ヒロク二さんは報道に関しては素直ですが、わたしは疑り深い。

とにかく、あの中国が心改めない限り、無理だと思う。

環境問題で、中国に圧力をかけない限り、そして実際に取り組んで減らしてもらわない限り、意味がない。

こういうことを言うと、環境に問題意識のない身勝手な人のように扱われそう。

ただ、中国が嫌な人とか。

普段、ゴミも分別しているし、道やそのへんにゴミも捨てないし、洗濯の洗剤も大丈夫。

家では、食べ残しというのもほとんどない。

「残り物が腐りかけてても、戦時中と思って食べるべし」を実行している。

(ヒロク二さんには、強要していません)

その環境問題に関わっている人達は、普段どんな生活をしているのかチェックしてやりたい。

国際的な詐欺だったりしてと、妄想する。

温暖化はゆっくりとしているとは思っていますが、

その環境問題の団体の主張は、すべて正しいか?と言われれば、そうではないかもと思う。

特にお金の面で、あまり信用できないと思っています。

 

環境問題について、私見を書いてしまいました。

また、スプーンとかを標的にしているが、何でこんなに幼稚なの。

そんなことから、書いてしまいました。

ヒロク二さんに話しても、聞いてもらえないし、

いきなり人に話しても、相手を間違うと嫌な顔されるしと思うと、

つい、ブログに書いてしまいました。

同じように感じている方がいれば、嬉しく思います。

自分だけじゃない!と。

 

 

今日は、曇って薄暗い天気。

それでも、咲き始めたビオラの花を点検ということで、庭に出ました。

↑やっとお気に入りの茶色いビオラが咲きました。

中央の黄色の中心に赤茶色のビオラ。

種を採取し続けて、毎年咲かせています。

同じものが咲くかどうか分らないので、ドキドキするのです。

左の茶色のビオラは、ちょっと好きでないタイプ。

後ろにあるビオラ2種は、はじめて咲いたタイプ。

採取した種からは、こういうことが起るのです。

↑これは、茶色のビオラが変わってしまって赤紫に。

薄っすらと茶色が残っている部分があって、元の花を思い浮かべました。

↑透き通るような黄色のビオラ。

同じ種類のから、2種類のビオラの花姿。

ビオラの種なのに、花びらが大きくてパンジーのようなのがいきなり咲いて不思議。

↑とても変なビオラが。

花が大きくて、パンジーみたい。

今回は、かけあわされていたパンジーの品種が強く出たものがあって驚きです。

採取した種は、すべてビオラなのに。

この出来損ないのビオラを見ると、とても変な気分に陥ります。

無言という感じ。

↑やっと、鉢に植えたムスカリが、咲き始めました。

鉢のヒヤシンスと同時に咲いていて、今年はムスカリが遅かったなと思っております。

となりにある、鉢に植えたチューリップは早く咲きそう。

 

もう、レジ袋を見るたびに、「しんじろうめ・・・・。」という思いが。

めんどくさいというより、愚か過ぎることに腹が立つのです。

だから、環境問題について、疑問点を順番に考えてみていました。

ただ、この頃思うのは、自分が絶対正義というのは、

正義対正義の戦いになってしまうので、

もしかしたら、自分にも間違いがあるかもしれないという姿勢がいるかも・・・・。

間違いを認めたら、素直に訂正すること。

話し合いというのも双方の力量がいるものだと、感じています。

人って難しい。

今日も、ブログを読んで下さった方、ありがとうございます。

ヒロク二さんは、暖かくなったら活動を始めます。

今後ともよろしくお願いします。

 

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