武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

貴婦人(色鉛筆作品紹介597)と 春の庭

2021-03-31 09:22:19 | Weblog

この絵は、2日前に手渡されたもの。

最新作です。

「これ、見といて。」と言われました。

色鉛筆と鉛筆で描かれています。

最近、鉛筆の8Bという濃い鉛筆をまとめて購入したので、使っているかもしれません。

線が野太くなって、シンプルな絵です。

タイトルは「貴婦人」と名付けてみましたが、隕石が落ちてきたような図にも見えます。

この絵と対になる絵があると説明されましたが、どの絵なのか???

まだまだ、見たことがない作風が出てくるヒロクニさん。

彼の年齢(84歳)を考えると、まだ未知な領域があるのに驚きます。

現在進行形であるところが、とても良い。

 

 

昨日、朝、ヒロクニさんは、「さほりは、昨日とても素晴らしいことを言っていたよ。」

「女房がそんなことを言うなんて、嬉しいよ。」と、言われる。

何を言ったけ????と、まるで覚えていない。

「昨日、なんて言ってたの?覚えてないのだけど。」と答えた。

気持ちを台無しにしたようで、プイと横を向かれ、アトリエに消えていった。

今も思い出せない・・・。

何を言っていたのか気になります。

再度、「私は何を言っていたの?」と、ヒロクニさんに聞いても、無視されます。聞いたら、機嫌が悪くなるよう・・・・。

もう、ガックリきているのでしょう。

「消滅」という言葉がぴったりです。

ヒロクニさんの中で、灯火が「消滅」したのでしょうね。

私の中では、空ですから。

女房が・・・、恋人が・・・、のシチュエーションにすごく敏感な人なのです。こだわりを感じる。

例えば、映画「ゴットファーザー」を映画館で一緒に見たことがあります。

アル・パチーノが扮するマイケルは、マフィアの世界とは別の堅気の人だったのだが、抗争の末、兄が死に、マフィアの世界に入り込むことに。復讐で人を殺害し、その後、アメリカを離れ、イタリアへ。

そのイタリアで見初めた女性と式を挙げ、ささやかな幸せを。そんな中、追手のマイケルの暗殺の魔の手が・・・。車の爆破で、その彼女が、マイケルの目の前で死ぬ・・・。

このシーンで、私の隣でヒロクニさんは号泣して、嗚咽をあげて泣くのです。凄い涙だし、ハンカチを貸し、そのオーバーアクションが凄い。私は、珍しい動物を見るような感じで、驚きで一杯になりました。私は、そこのシーンでは、まったく涙は出る要素がなく、冷血漢の女って感じで横に。

たぶん、「身を隠して生きている寂しい心境と、見初めた女性とのささやかな幸せ」が壊れた瞬間に、悲しみが湧いてくるのだと思います。そして、ヒロクニさんのキーワードは、恋人なんだと思います。感傷を揺さぶられるワードであると確信しています。

この辺が、私には可笑しく感じてしまうのですが・・・。

(冷酷な妻です)

「恋人が死ぬ。」これが、ヒロクニさんの感情を揺さぶります。

 

映画で泣くシーンって、人によって違う。

私は、「わが谷は緑なりき」を見たら泣く。

この映画は、炭鉱の村で暮らすモーガン一家の物語なのですが、炭鉱が花形だった時代から、斜陽になっていく時代を生きる人達の葛藤や家族のあり方が描かれている。一番若い末っ子フューが、学問をあきらめて炭鉱夫として家族を養う決意をする辛い部分もあるのですが、そのフューが理不尽ないじめられ方をするのです。耐え忍ぶシーンがあるのですが、そのシーンになると必ず、泣いてしまう。その辛さを一緒にかみ締め、しかし、心まで折れてはいないその姿にジーンとするのです。

そして、奥歯までかみ締めて、号泣します。

人は、同じ所で泣くようで、ビデオで何回見ても同じところで泣くのですね。

ヒロクニさんが映画ゴットファーザーを見る時は、ハンカチとかティッシュを用意しています。

あれ?何で映画の話になったのだろう?

朝のヒロクニさんとの会話から、

予想外の内容になりました。

私は、いじめが嫌いなようです。

付け足しておくと、本格的ないじめをする人は、いつも同じ人です。

そういう人を知っているから、確信しています。

 

 

今年は、桜も3月から咲き始めました。

我家の庭も本格的に春の様子になりました。

↑ムスカリ。

この球根は増えるようで、近所の方にも分けたので、違う場所でも見れるように。太陽の方へ向いているのか、同じ方向を向いています。

↑チューリップもつぼみが大きくなってきています。

ヒロクニさんは、「チューリップの葉の曲線って、きれいなんだね。」と。

 

↑こちらは庭の花の全体

ニラ花が自生していますが、それも咲き始めているので随分賑やかになってきています。

ニラ花は、またの名を「イフェイオン」と言います。

 

↑この「イフェイオン」は、庭の奥の方まで続いて咲いています。

繁殖力は旺盛のようで、どんどん増えていっているよう。

この季節は、外で椅子に座って、花を眺めています。

ガーデニングを始めて、植物から教えてもらったことがあります。

■待つこと

■虫が怖くなくなったこと

この2点の内、「待つこと」は、重要でした。

最初の頃、種をまいたら、すぐ芽が出ると勘違いしていて、

待つことが出来ない性急な性格だったのに気がつきました。

すぐ結果を求める忙しい性分は、今は減ったのではないかなと・・・。

今は、絹さやの収穫を楽しみにしています。

 

 

 

 

 

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春にいいなぁと思って(色鉛筆作品紹介596)と 我家のビオラ達

2021-03-25 09:38:50 | Weblog

春の訪れ。

一雨ごとに暖かく・・・・。

この絵がこの季節に合うのではと思い取り上げました。

このシュールな絵とピンクが、とてもイイ。

私は春になるとこの絵を思い浮かべます。

この絵は、色鉛筆で描かれています。

 

こういう絵は、写実とはかけ離れているので、一般的にはあまり受け入れられにくい作品なのかもしれません。

武内の絵については、こういう事はよく考えます。

私は、どちらかと言えばすんなり受け入れることが出来たのも、元々の好みがあったと思うのです。

絵を描くのは好きで、小学校ぐらいからよく描いていたでしょうか?美術の教科書を眺めては、この絵が好き、この絵はいまいちかな?と自問自答を繰り返す癖がありました。高校生ぐらいになると、写実より断然抽象というか、プリミティブな感じのものに軍配が上るようになっていて、どうしてだろう?と思うように・・・。パウル・クレー、カンディンスキー、ディビュッフェや、モランディって変わっているな・・・と思ったり、特別に好きな花の絵があったりと(写実のようで写実でない)。

元々、写実の絵よりプリミティブな“何?何故?”と思う絵が好きでした。ヒロクニさんに限り、絵だけじゃなくて、当人まで接近してしまっています。

もう1つ不思議なことが・・・・・。

私は、美術学生の頃、飯田三代さんの絵がとても好きになって、よく個展も見に行っていました。学生だったので、バッジしか買えなかったが、とても好きだった。

その話をヒロクニさんにすると、

「三代?知ってるよ。高校生の頃、家によく来ていたよ。」と言うのです。

「えっ?どういうこと?」と言うと、

「三代は、ギター持ってよく来ていた。写真があると思うよ。」と。

写真には、明石公園で、笑っている三代さんが写っていた。

本当に不思議に思いました。

何か、絵の資質でつながっているように感じたのです。好き資質とでも言っていいかもしれません。

今は、飯田三代さんとの交友はありませんが、人は資質で巡り会い、そして離れてそれぞれの道があると思いました。会えば、「やあ!」って言うのでしょう。

その飯田三代さんは、神戸での「しあわせ食堂」の絵の個展に来て下さり、その時は、その頃の旧友達も集まって、珈琲店でワイワイ言いながら、談笑をしていました。ヒロクニさんは、「おい、ミヨ。」と言って、古い思い出話をしていました。

ヒロクニさんは、飯田三代さんに、

「こいつ、お前の絵が好きなんだよ!」と大きな声でいい、紹介してくれた。私は、もう照れくさくって、「個展も何回も学生の頃行ったし、ファンなんです。」と言うと、近作をカメラの画像で見せてもらった。やっぱり、線と形が好きで、いいなぁ~と思いました。イラストレーターとして活躍していらしたけれど、やっぱりこの方は、美術家だと思いを新にしたのです。

ヒロクニさんは、「ミヨ。ミヨ。」と呼び捨てにしていました。

ほんとに鎌倉から来て下さっていたことを思うと、こんな感じで、好きな作家と会えるなんて贅沢。感激でした。

私より少し上の年齢の集まりで、ヒロクニさんより少し世代が若い。

ヒロクニさんの悪友も来ていて、ヒロクニさんの過去の汚点を私に吹き込んでくれたりと、このざっくばらんで気安い雰囲気はかなり心地よく、「えー、そうだったのですか?」「私が聞いていた話と違う・・・。」とか、ヒロクニさんの弱み握ったような感じの話です。

この集まりは、文化的な不良めいた人が多かったので、独特な感じで、日常からは遠い世界。皆、あくが強い。その中心人物が、ヒロクニさんなんです。ヒロクニさんから、派生している集まりでした。この集まりは、不良少年少女の資質の繋がりかもしれない。(私を除く)

ヒロクニさんは、私と違い、子供の頃から絵を描くのが好きというタイプではありません。中学生の時にいきなり油絵を描いたという人で、中学生の時に描いた絵で、もう芸術家になると決心を固めたと言います。最初は、小説家がいいかな?と思っていたらしいが、「絵って、見たら分かる。」というのがイイと思ったそうです。

この話を聞いた時、意識の持ち方が全然違うのだなぁ~と、出発の仕方が男だ!と思いました。早くから芸術家としての意識を持とうとした出発点というのに驚きました。「作家意識」を持つということから出発したヒロクニさんで、今に至っています。

芸術家の方は、皆それぞれの出発点があるのでしょうね。

 

 

↑こちらが、飯田三代さんの絵

イラストレーションという雑誌に載っていたものです。

この雑誌は、今でも大切にしています。

不思議な可愛さと、色の重なり具合が今でも好き。

「自分の好きなもの」について、どこが好きなのか?どうして好きなのか?を自身に問うのは、自分を知ることにつながると思っています。

私は、ヒロクニさんの絵で好きだと思うものを見て、何に反応しているのか?と思っている内に、形とか色だけに反応して見ているだけかも?と思ったことがあり、それだったら、情感は私の中では無視されていることになる。と、考えを深めていきます。

嫌いなものを見つめるより、好きなものを分析するのは楽しい。

嫌いなものは、頭にくるから身体によくありません。

 

庭では、私だけの先祖帰りしたビオラが花を付けだしています。

新種のタイプも生育しています。

↑採取した種と同じものが咲きました。

この薄曇った黄色が、クラッシックな風合いがして好きで、このビオラの種を昨年採取しました。

↑黄色の花の種から先祖帰りした茶色と黄色のビオラ。

茶色の入り方がいろいろです。

花の形が、細長くて「うさぎビオラ」と少し似ています。

↑このタイプの種も採取しました。

茶色が濃いビオラです。

↑黄色の花と同じタイプの花が咲きました。

時に、花びらが丸みを帯びたものがあります。

↑紫色を帯て、模様が賑やかな印象のビオラが咲きました。

↑上の写真のビオラと似ていますが、紫色の多いビオラも咲きました。

↑濃い茶色がくっきりとしたビオラ。

2苗だけ育ちました。

↑こちらは、1苗だけ咲いたビオラ。

フリル咲きのパンジーのようなビオラの苗を購入して、たまたま種を採取して育ているビオラですが、先祖帰りして様々な花を咲かせてくれています。

8種類の花に分かれています。

来年は、どうなるのかな?と思いつつ眺めています。

 

桜も開花を始めたようだし、本格的に春ですね。

気温のことばかり言う、ヒロクニさんも気持ちがほぐれつつあります。

気温が低いと文句言う夫。

「気温のことは、私にいってもどうにもできませんよ。」といつも言います。この言い回し、気に入っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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街の目(色鉛筆作品紹介595)と 私の座禅

2021-03-19 12:23:00 | Weblog

画像が荒いので、写りが良くないのですが、近年のドローイングになります。元の画像が小さいのでそのようになっています。

この絵は、2月の個展に出品していました。

画家の方が、購入されて手元から離れた作品です。

タイトルは「目の街」と付けられています。

私は、「何かが見ている。」

それも、「大きな何かが見ている。」

そんな目かもと漠然と思いました。

ヒロクニさんは、

「絵って、見つけないといけないものがある。

 溜め込んできたものがあるんよ。」と、言ってアトリエで制作中です。

 

 

私は、3月から、とにかく15分座れという座禅を始めています。

実行出来た日は、カレンダーに○印を付けています。

ヒロクニさんは、禅寺の壁画を描いたりしたことがあるくらいなので、始めの頃、「座禅をしよう。」と言われて、胡座を組んで一緒に座っていました。

「こんなことするのね!」と、驚きでした。

精神なんて修養することは、全く考えてなく、ただ座っているだけ。

そんなまねごとをした時があった。

ヒロクニさんは、もうそんな時間を送ったことは、忘れていて、絵画制作と肩こりの行ったり来たりの生活で、アトリエでの制作と食事と寝る生活になっていて、とてもシンプル。

急に、私が、禅のことを聞くと、「それはね・・・。」と簡単に答えてくれる。禅寺に出入りしていた頃に、ヒロクニさんが勉強したことについては、ヒロクニさんは割と的確な答えをしてくれます。

私も長い間、そういうことは忘れていました。

ところが、近年「唯識(ゆいしき)」に興味をもったり、その周辺のことを知りたい気持ちが出てきています。その関係の本とかは、正直言って読んでもまるで理解できないと思っている。特に仏教のものは、漢字が難しく、漢字の意味をすぐ忘れてしまうので、読んでも意味を正しく把握できない感じもするし、読んでもすぐ忘れる程度の知能しか、私にはないと思う。それに仏教を信仰するつもりでもないのです。どちらかというと、探求したいという気持ち。探求心の方が強い。

そこで、座禅とは何か?

「それは、ただひたすら座ることである。」という言葉があって、

それを「とりあえず15分毎日座る。」に置き換えてみた。

精神に付加をかける、15分の座禅。

これを持って、新しい時代にむけての精神修養としようと決めたのです。

(大げさですいません。)

ほんと、とにかく15分座るだけ・・・・。

始める前は、ヒロクニさんに「15分座禅するので、話しかけないでね。」と声をかけておく。ピピ(猫)にも「ピピもおりこうにしていてね。」と。

座布団を折りたたんで、それをお尻の部分を高くするのに使い、背筋を伸ばし、足を組み、一応、印も結んでおく。光をイメージするのに、よく分からないから、頭に蛍光灯をあて目をつぶって、これが光のイメージと記憶しておく。頭に蛍光灯あて、光をイメージする方法は、私があみだした新手の手っ取り早い方法で独自のもの。現実味があっていい感じである。

スタンバイOKで、15分です。

とりあえず、よくない頭でいろいろとりとめもないこと考えていて、いや、頭が悪いから考えがとりとめもなくなるのか?自分を空っぽには出来ない・・・・。その浮かぶ考えすらはっきりしていない。あっちこっちと思うことが飛ぶのです。しかし、頭は常に何か考えているようなのです。そういうことを感じでいると、背筋を伸ばしているつもりなのに、曲がってきていたりする。背筋だけでも伸ばしていようと思って、元通りにする。その瞬間、すこし気持ちがまとも。2秒ぐらいか・・・・。

「とりあえず、15分ぐらい出来るだろう?」と。座るだけなら・・・。

私の中の私に語りかけ、「頑張れよ!」と掛け声をかけますが、ヒロクニさんは、おいおいどうしたんだ?と怪訝な顔で見ています。

そんな事は無視して座っていますが、アトリエから「さほり、何してるの?」と何回も呼ぶ声が聞こえる。何回も言うから、「座っている。」と答えたが、“す”が聞こえないのか、「何が、わって入って来るんだ?」と、質問されたりして、イライラして来る。大きな声で、「座っているの!」と言うと、やっと伝わったようでした。(もう、この時点で座禅は台無しです。)

やっと集中出来ると思い、気持ちを持ち直していると、今度はピーちゃん(猫)が、私の前に来て、やたら鳴く。鳴いてもダメだと思ったのか、体当たりで、スリスリしてきます。とても気になる。

タイの僧侶が座禅をしている時にも、甘えて擦り寄って来る猫を無視しようとしているが、無視出来ない僧侶が、頭をさわってしまう動画を思い出した。もう、頭はいろんなことで、一杯になってしまっています。

こういう私から脱出するのだ!!

強い思いで、15分ぐらい日常からの脱出をもくろんでいます。

そんなことを思っていると、たまたま買った本に座禅の仕方が載っていました。

この本は、基本的には、哲学の本だと思い買いましたが、何故か座禅のやり方が簡単に書いてありました。思いというのは、引き寄せることがあると思っていますが、座禅に関心がる時に偶然、座禅の仕方がバッチリ書いてあるなんて・・・・と驚いています。書かれている内容の一部ですが、

「誰にも邪魔されないこと」と書かれていて、この部分だけで、私は、終わっていると思いました。

「場を清めること」とも。掃除を怠る私は、この部分だけで終わっているかもと。

また、座禅ではない箇所なのですが、気になる箇所として、

「男より女の方が力を持つ様になった。(中略)その結果として、嫁ぎ先の先祖を大切にしない嫁が急増し、この種の統合もうまくいかない傾向にある。(中略)日本人は幸せになることは出来なくなるだろう。男女の力の差が明らかに女が上の時代になっているからだ。男の暴力はすぐにニュースとなるが、女の暴力はすべて無視されているからだ。その小言悪口の類は、夫の何十倍も妻からが多い。これでは、破綻へ向かうしかない。」

とあり、小言をよく言う私は、気をつけないと!と、自身を省みた。

最近も、ヒロクニさんに説教をしてしまったが、説教も小言なのか?と思い悩みます。

その説教の内容なのですが、ヒロクニさんは、「この土地に俺は合わないのだ。こんな寒い所。」こういうことを、何度も言う。春になってきている今でも。

その姿を見たら、半袖のTシャツを着て言っているのだ。

私は、「もっと厚着をしないと。半袖を着て、ストーブを炊くなんて・・・。不経済な!」

「こんな寒い所・・・、俺のDNAには合わないんだ。もっと暖かい所へ住まないといかん!」と言う。

私は、「私に気温のことを言ってもどうにもできませんよ。何処に住むのですか?これ以上、私にはどうにもできませんよ。たまには、自分で解決してみつけたら?そんなに言うのだったら、たまには自分で行動して問題を解決してみては?私に言われてもどうにもできません。」

「あなたは、置かれている状況に感謝がないの!喉元すぎれば忘れるってやつ。後先考えない、つまり頭が悪いってこと。さすが熱い所生まれだけあるわ。DNAだよね。」と言い捨てる。

私も口が悪い。

だけど、ヒロクニさんて、こういう事を言われても「全く傷つく」ということがないのです。他の人からも暴言を浴びせられたりしている。「勝手に野垂れ死んで下さい。」とかも言われても、「あの人きついねぇ~。」と、飄々として、普通に接しています。ヒロクニさんて、「傷ついた。」と言ったことがない人なんです。

そこで、「ヒロクニさんって、あまり傷ついたりしないよね?」と聞いてみた。

答えは、「傷つかないと云うわけではないのだけど、傷ついて落ち込んで3日も過ごすとか、バカバカしいでしょ。そう思ってるの。」でした。

小言を言っている時、私は生きてるという実感が充実しているのです。

とてもまっとうな気持ちになります。

困ったことです。

またまた、話題が脱線しそうなのでこの辺で。

 

ひっつき虫のピピちゃんです。↓

↑台所がとても好きになったみたいで、すぐ来ます。

撫でて欲しいようで、近くで座ります。

↑いかなごのくぎ煮を作ってから、台所にはいい物がある!と思っているのか、

台所に私が行くとついてきます。そしてウロウロ。

冷蔵庫を開けると、すぐその下にやってきたりします。

↑玄関を見つめるピピちゃん。

この場所にいる時は、いつも目が丸い。

この場所にいる時のピピの顔、愛らしくって好きなのです。

↑庭ではヒヤシンスが。

これは、初めて買ったヒヤシンスで、“デフォルト・ブルー”という種類。

ガーデニングを始めるきっかけになった球根です。

30個の球根が安くなっていたので、まとめて同じ種類を購入したのです。

とても立派なヒヤシンスが30個咲いた時は、圧巻でした。

毎年、堀あげて、今でも育てていますが、球根が小さくなっていって、あまり花をつけません。

その中で、この2本だけがいつも花を咲かせてくれます。

ムスカリも少しづつ花を付けようとしています。

 

 

 

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ドローイング(作品紹介595)と いかなごのくぎ煮(レシピ付き)

2021-03-14 13:20:04 | Weblog

子供が描いたような雰囲気のある、ドローイング。

線がいい感じである。

空中に浮かんでいるようなニコッと笑っているような骸骨が可愛いい。

ひまわりのような太陽?も、星がチカチカと光っているような太陽?も

すべてあるべきところに描かれているような気がします。

鉛筆で描かれた線が気持ちいいと思い取り上げました。

紙の表面がシワシワしているので、なめされ、紙はしごかれています。

 

春の到来を感じていますが、まだまだ春の陽気とまではいかない。

そんな時、スーパーで“いかなご”が、半額になって売っていました。

半額が、大好きな私は、迷わず買った。

それに懐かしかったのです。

明石に住んでいたことがあったので、魚の棚に足繁く行っていました。

“いかなご”が大量に売っている光景をよく目にしていた私は、本当に懐かしくて、魚の棚を思いだし、魚屋さんの掛け声や、生きている蛸を売る様子や、魚の練り物を売る、かまぼこ美人さん(私が勝手に名付けた)や、バットに入って売っている雑魚の様子などが思い出されたのです。

私は、明石の駅前のショッピングモールにある、珈琲専門店にパートに行っていたので、よくコーヒーを飲みに来ていた方が、しっかり魚を売っていたりして、驚いたことがります。

その方は、別人になってコーヒー店には来ていたのです。つばの長い帽子を被って、マダム風になって、コーヒー店に来ていて、その方が別人のように、たくましく蛸を売っていた姿には、驚いたのですが、ハレの日を自分で演出しているのだなと思い好感を持ちました。

そんな事を思い出しながら“いかなごのくぎ煮”を作っていました。

↑こちらが、出来上がった“いかなごのくぎ煮”です。

市販のものを買ったこともありますが、自家製だと柔らかく仕上がるよう。

意外と簡単なので、レシピを。

■材用

いかなご 1kg

濃い口醤油 230cc

ザラメ 270g(私の場合は、さとうきびから出来ているザラメを使用)

酒 100cc

みりん 150cc

土しょうが 50g→よく洗って千切りにする

■作り方

1、鍋に、醤油、ザラメ、みりん、酒、土しょうがを合わせてよく煮立たせる。

2、よく煮立った所に、鍋の温度を下げないように、いかなごを少しづつ入れる。

↓それがこちら

少しづつ入れるのは、いかなごを早くさっと煮て、形がくずれないようにするためだと思います。

3、吹きこぼれないように注意しながら、強火で一気に煮立たせる。

  注意:はし、おたま等で絶対かき混ぜない。

↓それがこちら

強火で煮ていくと、泡が段々減ってきます。

4、鍋の中の泡がしずまり、いかなごの合間に小さな泡がブクブク出るくらいに煮汁が減ったら、中火~弱火にして煮詰めていきます。

  少し煮汁が残っている状態で火を止める。

↓それがこちら

5、煮上ったらひらざるに取って、残り汁を切り、ウチワや扇風機を使ってすばやく冷やす。

私には、この作業が一番大変でした。ひらざるを持っていないから、家にあるざるを総動員したりして・・・。その上、うちわで扇ぐのも根気がいった。

ピピちゃん(猫)は、魚の匂いがするから、ずっとまとわりついて鳴いていました。だけど、料理するところには、登ってこないので、お利口なんです。足にまとわりついて、シッポを上げ、やたらスリスリしています。

ヒロクニさんも懐かしいそうで、このいかなごを煮る匂いが部屋に充満している中、明石の海を思いだすそうです。

多量に出来たので、あちらこちらに配りました。おすそ分けします。たくさん作ると、こういう事も楽しいのです。

いかなごも春のものですが、お庭も春らしさが・・・。

↑花の数が増えつつあります。

ヒヤシンスやムスカリ、チューリップは生長中。

↑絹さやが大きくなってきています。

花も咲いてきていて、スイートピーと似ているのだなぁと。

↑こちらは、そら豆。

花もつけています。

↓植えたての頃は、こんな感じだったのが・・

 

↑この水仙は、先住の方が植えていたようなのですが、毎年咲いてくれます。

↑こちらは、成長中のチューリップ。

手前に植えてあるビオラはまだ咲いていませんが、昨年種を取った“食べれるスミレ”という種類。確か、イタリア種だった思いますが、同じものが咲いています。

この季節は、植物の芽が動く時期なので、そんな様子を観察したりしていると、当たり前のことなんですが、生命って不思議で力のようなものを感じたりします、やはり何かがこの世界を作りなられたと思い、この「何か」は、「何なの」でしょう?と思います。

 

 

 

 

 

 

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TOWN・鉛筆作品594 と 世話焼きと子泣き爺

2021-03-09 13:46:27 | Weblog

「TOWN」というタイトルの絵。

15cm×19cmの小さな作品。

固めの鉛筆で描いた、カリカリとした線が印象的です。

空間が多次元になっていて、左の部分に波が描かれている。

やはり、ヒロクニさんの愛する神戸の街なのかもしれません。

骸骨の部分は、煙草の箱をコラージュしています。

骸骨は、ヒロクニさんの絵によく出てきます。

骸骨柄のスカーフもしたりするぐらい。

好きなんだと思います。

 

ヒロクニさんは、幼少の思い出をよく話します。

夕方、大体4時ぐらいに話すことが多い。

防空壕の思い出は忘れられないようで、「防空壕も奥へ行くと土の匂いが凄くて、土の匂いというのを強烈に感じたねぇ。」とか、

「母親が子供を引率しているでしょ、母親は外に出て様子を見ているのだけど、俺もくっついて一緒に出てみると、空中戦をやっていてね、小さく見えるのだけど、やりあっている内に一方が落ちるんだよ。不思議な光景だったねぇ。」と。

頭の中でありありとその情景が浮かぶのでした。

また、「子守に、サヨちゃんていてね。サヨちゃんにいつもおんぶされていて、

さほりは、そのサヨちゃんの面影があるのだよ。」と。

「ケンちゃんという子守と、サヨちゃんにおんぶされている時に、アメリカ兵が空から狙い撃ちされて、その時に2人が俺をかばいながら逃げるのだけど、フッと空を見たら、笑っているアメリカ兵の顔が見えてねぇ。」と、その顔が浮かぶそうである。

その話を「しあわせ食堂」を出版してくださった光人社の社長さんにしたら、「それは、殺すつもりはなくて、弾を減らして重量を軽くするために遊びで撃ったのでしょう。」と、理由が分かったのでした。

私は、子守のサヨちゃんのイメージがあるそうです。

この話を聞いた時、私が思ったことは、

「何で私の過去の姿に類似しているの?」でした。

私は、幼い弟をおんぶして過ごした時期があるのです。

乳児の弟を保育園に自転車で迎えに行き、その後、弟の世話をするわけですが、私も子供なのでやりたい事がたくさんあるので、母のおぶい紐を使って弟を背中に。そして、洗濯物を取り込んでたたみ、ご飯をとぎ、勉強をしたり、絵を描いたりと。外へ行くのにも弟をおんぶして。

私は、ヒロクニさんから「サヨちゃんのイメージがある」と言われた時は、正直ギョッとしました。「何で知ってるの?」という感じです。鋭すぎるとも。

その頃の写真を見ると、弟をおんぶしていて子供なのに十分所帯やつれしている。笑顔なんですが、戦後みたいな感じで怖かった。時代は高度成長でほんわかしていた頃で、お友達の家に行くと、スチールの学習机に地球儀が置いてあってという時代なので、時代がおかしく感じるのです。

その写真は、見つけた時に破り捨てておいた。

しかし、一番下の弟の面倒はよく見たもので、参観日も行ったりして、さしずめ子供PTAのような私。制服の採寸も付き添ったりしていました。弟が乳児の頃は、おしめも取り替えたし、ミルクも時間とおりにあげたり、泣けば抱っこしたり、「もう、子供を育てられるよね。」と思ったくらい世話しました。そんな潜在的なことまで、イメージするヒロクニさんって何者なわけ?と、忘れていた過去がよみがえったのでした。

幼児の頃は、しつけまでうるさく言い、どぶ川に浸かっている弟を見たら、怒鳴って注意したり、怪我してくると消毒してヨウドチンキを塗ったり、中学生になったら、時々お弁当まで作ってあげていた。母は何をしていたのでしょうか?と大人になって疑問に思うことがあります。

その弟は、けっこう私の事を思ってくれているようで、引越しの手伝いをしてくれたり、「オネエの頼みやったら聞く。」とも言ってくれていて、私をからかいながら、40も過ぎている私に正月に「お年玉いる?」とか聞いてきたことがもありました。「えっ、お年玉くれるの?お年玉の年齢でもないのに?」というと、「じゃあ、いらないんだぁ~。」と言ったりして、「いや、やっぱりいります。」と私に言わせます。その上、恩着せがましくいうあたりがいいのです。弟だから・・・。その年は、上の弟もお年玉を用意してくれていました。貧窮していると思っていたのでしょうね。世話をしたことが潜在意識に組み込まれているのでしょうか?お世話の思い出と共に、お年玉を思い出します。

私は、元々、世話焼きな所があるようです。

典型的な長女のようです。

今は、ヒロクニさんのお世話をしている私がいる。

世の中うまく出来ているという事でしょうか?

ヒロクニさんの言う「サヨちゃんのイメージ」から、過去の私姿を暴露するになってしまいました。弟をおんぶして笑顔で写っている写真は、私に取っては「どこの貧民なわけ?」という写真でした。時代の雰囲気がおかしいのです。

破り捨てたからいいけどさ。

冗談が好きな、禅寺の和尚さんは、

「ヒロクニさんは、あんたにしがみついている“子泣き爺”みたいなっものやって。」と、冗談交じりに言います。

子泣き爺って、ゲゲゲの鬼太郎に出てくるよね。

民族学者・柳田國男は、『泣いている子泣き爺を見つけた通行人が憐れんで抱き上げると、体重が次第に重くなり、手放そうとしてもしがみついて離れず、遂には命を奪ってしまうとされている。書籍によっては、子泣き爺は石のように重くなることで抱き上げた人間を押し潰すなどと記述されている。』となっています。

和尚さんへ言います。

「恐怖を味わせないでね。」

 

久々に刺繍を。

↑個展が終わり、日常をを取り戻し、刺繍もしていました。

これは、イギリスの古典柄で絵巻物のようになった刺繍の作品があるのですが、部分を抜粋して、ブック・カバーに。ダイアリーのようなノートにカバーしてあるので、「D」の頭文字を何処かへ入れるつもり。まだ、書体を決めてないので、これから刺します。

糸の埋め方が、今はあまり使われないステッチでやってみました。

刺繍というもの不思議なもので、単調で延々と同じ刺し方のくり返しが続くのですが、この作業をしている時の瞬間に、祈りに近いしいものを思う時が時々あり、「あれ?」と思う時があります。やはり、中世、古典柄のものをしていると、そう思うことがよくあります。

「形がいい。」と思いながら刺していました。

 

↑こちらは、ピピちゃん。

人が何か食べていると点検しにきます。

おかきなのですが、食べるそうです。

上げなかったけど・・・・。

代わりにチュールをあげました。

しかし、最近性格が変わったように感じます。

積極的というか、かまって欲しい欲求の表現が強くなったというか、

私の後を付いてまわり、歩く足に絡みそうなんです。

声も大きくなって、ピ、ピ、ピという小鳥のような鳴き声もしなくなって、

「ニャーン、ニャーオン」と。

そして、抱いたら大人しくなる。

そして、じーと顔を見るのです。

自分の方を見て欲しいのが分かります。

何だか、ヒロクニさんと性格が似てきているような感じ。

2人とも、かまってちゃんのようです

 

 

 

 

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花のつぼみ(色鉛筆作品紹介593)と お菓子あれこれ手作り・文旦と

2021-03-03 11:55:42 | Weblog

寒い日が訪れても、春を感じる季節になりました。

変な花のつぼみが・・・と言いたくなるメモのような作品。

新手の宇宙人のような感じもして、違う惑星にでも行ったような気持ちになる。

ギャラリー島田の若いスタッフは、「これ、可愛い。」と声を上げて見てくれたけど、

私は、戸惑うばかりの作品です。

私は、もう感性が遅れているのかもしれないと・・・・・。

「可愛い」より、「何か怖い・・・。」の方が先にきます。

葉の形が「イェィ~。」と踊っているようで、身体を揺らしているようなところは、

形がポエジーを持って、共鳴しているようでヒロクニさんらしい。

ヒロクニさんの絵の特徴で、形・フォルムが美しいく感じることが度々あります。

動きを感じるところは、好きなのです。

 

春がだんだん近づいてくるのを感じながら、すごしています。

冬になると機嫌が悪いヒロクニさんも、少しづつ朗らかさが見られます。

それはいいのですが、「おばちゃん、ありがとう。」と、嬉しそうに言う。

「妻がぬか味噌臭いっていうよね。」と言ったり、こういう事を言うヒロクニさんは楽しそう。

ただ、いつも「サホリ」って読んでいるのが、

「おばちゃ~ん、ねぇ~。」と八百屋のおばちゃんに言うような感じで呼ぶ。

この世でこんな楽しいことはないという表情で言う。

別にいいのだけど、この人に言われたくないというのはある。

ギャラリーの持ち寄りのパーティーの会場でも、こういうことをする。

顔見知りの女性画家の方に、「あ~、おばちゃん元気~。」と手を振っていた。

その女性画家の方は、「おばちゃんなんて失礼ね!」と、笑いながら・・・しかし、ハッキリと言った。

ヒロクニさんは、それから、いろんな人に話しかけられたり、話たりしていたが、

少し話をする人の輪が出来た時に、また、その女性画家に

「ねぇ、おばちゃん、そう思わへん?」と、自然に皆の前で言う。

「おばちゃんって、失礼ね!」と憤慨されていた。

私は、やってる・・・と思って気が付いたが、その輪には入っていない。

「失礼ね!」と言われているのに、

話すたびに「ねぇ、おばちゃん。」「そうだよね。おばちゃん。」の連発。

フットワークが軽く、楽しそうなヒロクニさんである。

その女性画家の方は、笑顔なのですが、かなりムッと来ていた感じがする。

私は、そっとヒロクニさんに忍び寄り、背中の部分を抓りながら、

「嫌がっているからやめなさい。」と耳打ちをした。

ウン、ウン、とうなづいているので離れた。

しかし、その後すぐ「ねぇ、おばちゃん。」と言う声が・・・・。

ウン、ウンとうなずいていたが、全く聞いていない。

たぶん、その方も「あなたには、おばちゃんと言われたくない。」だと、思う。

ヒロクニさんより、ずっと若い方だから。

その会場で、その方のみに言うので、いっそう許せなかっただろうと。

こういう会場では、ヒロクニさんと私は大抵、バラバラになって別行動になります。

話す人が違うみたいなのです。

時折、「ご主人は、どんな人?」とか、「来られているの?」と聞かれたら、

「あそこにいるのが主人です。」とか言って、会ってもらったりします。

私は、ただの画家の奥さんなのに、けっこうベラベラと話していて、

こういう時、「でしゃばりのおばさんになった。」と自分のことを思います。

また、世話焼きになったのか、終わりかけになると残し物をしてはいけないと思い、

余ったお料理をその場で配る役割を積極的にしたりと忙しくするのです。

若いスタッフの方が、レバーペーストを見て、「これは、貧血ぎみの人にいいかもしれませんね。」と

言われたりすると、「あの方がぴったりじゃない?」と見た。

ひ弱そうな感じがする人を見て、驚いたスタッフは、「人を見かけで判断してはいけません。」と言われた。

ここからは、私は、ちょっとしたジョーダンとして、人柄と料理の内容を組み合わせて、

その上押し売りみたいに、「家へ帰ってからこれをしっかり食べて下さいね。」と言い、

わけの分からない講釈(教訓)を言いながら、ミスマッチな、あっていない講釈を押し付けて楽しんだりした。

スタッフの方も「そんなことしては、いけません。」と言いながら、笑っていたりします。

何だか、ヒロクニさんと内容は違うが、似たようなことをしているのでしょうか?

 

そんな会場を後にして、帰りがけに、「おばちゃんの作品は、けっこうイイんよ。ちゃんと見た?」と、聞かれる。

そう、ヒロクニさんと違って、海外でも個展をされていて、高く評価がされている方なのです。

抽象なのですが、明るく、色よしで、迫力もあり、思い切りもよく、愛らしい作品。

好感を持っていた証しとして、親しげに「おばちゃん。」とニコニコして呼んでいたのでしょうね。

とにかく嬉しそうなヒロクニさんでした。

おばちゃんの作品・・・この言い方。

この方の名前を忘れているのかもしれないと思いました。

 

私は、ヒロクニさんのことを「お爺ちゃん。」と呼んだことはない。

ヒロクニさんは、孫と電話で話している時、「お爺ちゃん。」と連発されていたらしく、

婿さんが電話に出たら、「お爺ちゃんと呼ばせるな!ヒロと呼ばせろ!」と抵抗していた。

それを聞いていたので、「お爺ちゃん。」と呼ばれるのは嫌なんだと思ったのです。

私は、人が嫌がることはしない主義。

「おっさん。」とも言ったことがない。

それは、よく世の奥様が、「おっさん。」と、夫のことを呼んでいるのを聞いた時、

う~む、この感じは、嫌だな・・・とよく思ったのです。

たぶん、仲の良い夫婦なんだろうけど、これは嫌かな?と。

そういうこともあって、「ヒロクニさん」とか、「ヒロクニセンセイ(尊敬しているわけではない)」と呼んでいます。

そのかわり、私は、ヒロクニさんに頭にきたら、「あなたは・・・・。」と説教し、

もっと短絡的になったら、「あーた!!!」と叫ぶ時に目がキッとなる。こんな感じ。

そういう時、私の口ぶりの真似をしたりするから、いっそう逆上しそうになります。

怒りの感情を高めてくれるのは、うまい。

火に油を注ぐのは、ほんとにうまい。

おばさん呼ばわりの話からそれそうなので、このへんで。

 

個展期間中もお菓子を作っていました。

↑こちらは、文旦のピールとオランジェット。

文旦を2つ頂いたので、皮を捨てるのはもったいないと思い作りました。

↑一晩水につけた文旦の皮を文旦の皮の重さと同量の砂糖で煮込んでいます。

隣は、おからを煮ています。

↑煮た文旦を乾かして、乾かしてから細切りにして、それにチョコレートを。

砂糖をかけたものより、チョコレートの方が好きでした。

 

↑デコレーションケーキ。

デコレーションに関しては、多くを望んではいけないが、私の場合鉄則だと。

缶詰の白桃と黄桃を並べました。

スポンジケーキは、糸を使って切ってみました。

客人が美味しいと言ってくれて満足というか、達成感を味わいました。

 

↑写真を撮る前に食べられてしまったアップルパイ。

りんごを頂いたので、ケーキに。

パイ皮は、今回は冷凍のものを使って簡単に。

ヒロクニさんは、今回のパイ皮が美味しいと。

(そうか・・・。と思い複雑な気分。いつもは、パイ皮も自作なので)

残し物をしてはいけない!といつも強く思っているので、つい作ってしまいます。

食べものを粗末にしてはいけないという思いが、私を料理に走らせます。

 

庭では、やはりひな祭りの時に合わせるかのように梅の花が咲いています。

↑まだ、花の少ない庭で、ぼんぼりのように明るく咲いています。

ヒロクニさんもアトリエ(仕事場)から見えるようで、

「桜と違った趣があるものなんやねぇ~。」と。

↑先祖帰りしたビオラ達。

少しづつ花数が増えている途中です。

いろんなタイプがあり、また同じものが咲かないという面白さがあり楽しんでいます。

チューリップも芽を出してきていて、春の息吹を感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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