「風との別れ、海の別れ
街角・さようなら
夜の別れ」
と、文字が書き込まれています。
日本語を絵に入れるのは、とても難しいのだけど、
文字を絵のように加えることが出きるのは、武内の技かもしれない。
書き込まれた文字が、こころなしか“洋風”に見える。
そのことを知っている人から、「文字を書いて」と言われて、
5種類ぐらいの文字をさっと書いて、お店に使われていたり。
上の絵は、アトリエで伏せられて置いてあった一枚のドローイング。
わたしの中では、今、“風”がテーマになっているようで、
“風”を感じたと思ったら、自分の中で、その瞬間を感じて集めている。
この作品にも、そういうものを感じた。
独特の枯れた境地も感じが、新しいと思った。
こういう感性は、「風狂」とでも表現してもいいのかもしれない。
「風狂」とは、調べてみると
1 気がくるうこと。狂気。
2 風雅に徹し他を顧みないこと。また、その人。
となっている。
(2番の方なのでは、と思うとホッとします。)
この絵は、確かにまわりを垣間見る要素がまるっきり落ちていて、
絵画のあるべき姿すら、意識されていない。
よくある世の中に対する怒りや、情念すらもなく、
もう、たくさんの事柄を通り過ぎていった精神のように思えた。
もしかした名作かもしれない。
大きさは、A2サイズ。
ちゃんとした住居で、この絵を飾って眺めている図を想像してみた。
とても、渋かったりして・・・。
この絵を見ながら、風を感じ、新しいものを感じています。
当人の武内は、あまり代わり映えしないくて、いつもと同じ。
そんなものなのか?
この絵については、「味わう」という感じで、見ると楽しく見れると思います。
それと、考えこまないことですね。
この絵のことを「風狂」な感じがすると書きましたが、
我が良人は、抜け落ちているところがあるというか、
スルリと物事をかわすときがあります。
中学校もするりとかわし、高校もかわし、
イデオロギーもするりとかわし、時にわたしの言うこともかわします。
画家であるので、画壇というものがありますが、
若い時に積極的に身を置き、身を置いたと思えば、さっと離れていく。
神戸なので、中西勝氏が活躍されていた「二紀会」に入りたいと思った時の話を。
取った行動は、かなり積極的。
いつも街を歩く中西先生の見つけては、跡をつけ、
「二紀会に入れて下さい。」と言い続けたそうで、
「入れて下さい。」から、
「入れろ!」
「入れなきゃ、殺すぞ。」まで言ったらしく、
聞きながらストーカーまがいと思ったくらい。
風月堂の喫茶店で、やっと一緒に入って、嘆願したところ、
「君、何を頼む。」と聞かれて、
「僕、ぜんざいをお願いします。」と言ったそう。
その頃のことを思い出すと、恥ずかしいそうで、
「俺、ぜんざい以外のものを思いつかなかったのは、今でも残念やねぇ」と。
わたしは、「殺すぞ」のセリフに脅威を感じていたので、
「ぜんざい」が出てきて良かったとホッとしましたが。
その頃の中西勝氏の絵に「日本アクロバット」という絵があり、
ジョアン・ミロに通じるようなシュールな油絵で、その絵を描く中西先生に惚れていたと言う。
そして、その憧れの二紀会に入ったとたん、退会する。
武内の色鉛筆画の個展に、中西先生が来たことがあり、
「武内じゃないか!お前、外国人みたいな絵描いて。」と大きな声で入ってきた。
ざっくばらんな感じで、いかにも親分肌な方でした。
ヒロク二さんは、小声で「外国人みたいって・・・・。俺、日本人なんだけど。」と、面食らっていた。
また、「武内、俺どんぶり勘定が好きや。」とも話しの中で言っておられ、
今度は、わたしが目を丸くして中西先生を見た。
さっと会員をやめたのに、けっこう深い交友関係なようで、
一度、3人で一緒に飲みに言ったことがありました。
その時、中西先生は、「おい!武内、今日は絵の話しをするなよ。」と、
しょっぱなに言われた。
画家同士が絵の話をすると、ネチネチ細かい話になり易いことも確かなことです。
こういう人だから、憧れたのかもしれないと思ったり。
でも、さっと離れる。だけど、友情はそのまま。
だけど、こういう事も、絵があって友情なのだと思います。
話が変わって、違う場合のことも。
わたしの話しで、ヒロク二さんに興味ないことを話している場合。
話していても全く聞いていないようすが、まるわかり。
「聞いてるの!」と言うと、“えっ“ていう顔になって、まったく知らなかったという態度。
私は、ただの空気らしい。
そういう時は、「ああ、そこにいたの?」気がつかなかったよ、という風情。
話しているのに、存在に気がつきませんでした態度が続くのです。
上の空という可愛い感じではなく、あるものが、無い状態にされてる。
それも自然な感じで。
それをされた時の感触は、なんとも不思議というか、妙な感じがつきまとう。
「あれは、何だったのだ?」って。
それに変な透明感が漂っている。
その同じような感触を、イデオロギーの書かれた紙が、ゴミ箱にすいこまれていくというか、
すべるように落ちていく様子を見た時にも感じました。
本を贈って下さるのは、有難いのですが、
必ず、イデオロギー満載の記事や、手紙を同封する方がいて、
本を取り出して、紙にちらっと目をやると、
興味がなさすぎると判断されると、本を持ちながら紙がいらない部分に勝手に分かれ、
それを持ってゴミ箱の上にかざすと、自然に落ちていく。
その落ち方を見てると、スローモーションを見ているようにゆっくり自然にゴミ箱に。
その時の表情は、不愉快だとか、嫌だ、許しがたい、とかの感情もなくて、
ただ切り離されてしまったという感じ。
ヒロク二さんが興味がないことは、近寄ろうにも近寄れないと言ったところか?
そうやって、興味のあることだけに、焦点をしぼっていくようです。
わたしも見習おうと思い、ヒロク二さんが興味のない話をしたら、
やってみようと思うのですが、
「それ、興味が無いのだけど。」と言ってしまい、無視が出来ません。
あの妙な感触を発揮するのは、難しいようです。
自分の中に、取り込みたくないものを排除する力は強力。
パワーで排除するというあり方ではないところに脅威を感じます。
何か一種の「悟り」みたいな感覚といえようか?
とにかく、そういう時、時間の流れ方がゆっくりとしているのも特徴なんです。
庭にも少し春。
↑菜の花が咲くように。(菊菜)
ビオラも色味に分けてやっと、鉢に移すことが出切るように。
↑ヒヤシンスがやっと。
真ん中には、目を出し始めたチューリップ。
↑こちらもチューリップの葉が大きくなってきています。
ムスカリも植えてありますが、まだ咲いていません。
ビオラを傍に植え付けました。
我家の庭は、他のところより、生育が遅いような気がしています。
もしかして、庭木のせいで日当りが悪くなっているのかもしれない。
↑鉢に植えてあったキャベツと花を合わせティーカップに入れました。
花が付き始めているので、収穫してみて、固い葉をちぎっていくと、
小さくなってしまいました。
食べれないので、花として飾りました。
ヒロク二さんには、「こういうことは、とてもめずらしいと思うよ。」と言うと、
「自分の世界を築いているようで、いいね。」と。
これが、自分の世界なのか・・・・、と思うと複雑。
今日は、かなり捉え難い絵。
老境なんでしょうか。
もう、人がどう思うかということからも、離れているように思います。
時々、ヒロク二さんの友人からお電話がありますが、
「元気にしていますか?おいくつになりました?
とにかく、絵を描いて下さい。」が決まり文句になってきました。
今日も、長い文章を読んで下さり、ありがとうございます。