今日は、雨。
そして、雨というタイトルの絵を見つけました。
ガッサとペーパーバックに入れられた、紙の束の中から。
この絵は、マジックとアクリル絵具を使用。
バラバラとした線に、太い黒の線がさらにバラバラと重ねられています。
いつもの色鉛筆や鉛筆で描く絵とは、
随分雰囲気が違う。
俳画のような趣の画風。
こういう面も持っていて、永田耕衣の俳句に親しみ、兵庫県加古川市を散策する時期があったそうです。
永田耕衣氏は、兵庫県の郷土作家で加古川の作家です。
武内流に言うと「風狂な精神」に親しんでいたということになる。
わたしは、「夢の世に 葱を作りて 寂しさよ」という句を教えてもらい、
夢と葱と寂しさの三つが頭の中で混ざり合い、
「白っぽい土の上に立ち、畑を耕し、土の表面から玉葱の白い部分と緑が眩しい。」という光景を想像して、
なんとも言えない寂莫感を感じたのでした。
実際に、加古川の地を一緒に散歩し、鄙びた風景を見ているうちに、
土地に「寂しさ」というものがあるのかもしれないと思ったものです。
この「風狂さ」のある作品は、顔彩を多く使用していて、
自然を抽象的に描く作品が残っています。
それから、急に「風狂」には見向きもしなくなり、色鉛筆画に励んでいます。
この絵は、マジックで描かれているので、最近に近い作品だ。
ということは、表現方法が違うけれど、「風狂」が自然に出てきた。
その作品を見つけたということかもしれません。
この永田耕衣氏は、たくさん俳画も残していますが、
武内は、俳画には興味が薄く「句」の精神が好きだと言っておりました。
野に出て歩いている内に、暗雲が垂れ込め、急に大粒の雨が降ってきて、
3人の人が慌てて走っているように見えますが、
皆様はいかがでしょうか?
今週は、初めて「献花」というものを見に行きました。
献花は、青蓮舎、花士・珠寶(しゅほう)さんによるものです。
活ける植物は、枝や葉、花がありますが、彼女の手にかかると残された枝や葉がスッとして美しくなり、
その過程を見ているのが、非常に楽しく目を奪われていました。
また、大きな枝ぶりのものは、枝が落とされていく度に、
気持ちに余分なものがなくなるようなものがあり、
こういうのも体験しないと(実際に見る・場を同じにする)分からないことなんだと思ったのです。
終わってから、雑談もあり、その内容も面白いものでした。
花を活ける時に、自分が出てもいけないというような事を言われていて、
花も今回は、コレというふうに、決めないで使う植物を選ぶと言われていました。
非常に謙虚な姿勢で、献花に望まれているのだな、と思い、
西洋が、自分の意志や主張を明確に表現するのに対し、
植物を中心に沿え、それを最大に生かす為に自分を主張しないという姿勢は日本独特。
どちらが、良い悪いではなく、物事によく合っていればどちらでもいいと思います。
花士というのは、室町時代からいたそうで、男性が担っていたと。
室町時代というのは、学校の教科書では、書かれていることが少なく、あまり知らないな、と思い、
日本の室町時代に興味が湧く。
このように、文化的な刺激を受け、家に帰りました。
写真は、うまく撮れなかったようで暗く写ってしまい残念。
↑梅の木の幹に白い苔が生えていて、その部分の白がとてもいいのですが、
この写真では分かりません。
小菊とよく合っていて、「侘び然び」の感覚があってじんわりきます。
↑もう少し明るくすれば・・・、と思いやってっみましたが、難しいよう。
またもや、残念だ。
献花の様子は、撮影できませんので、
花士・珠寶さんの動画を紹介します。↓
とても、美しい方。
一緒に写真を撮ってもらいましたが、
わたしの劣化が激しく、ここに載せれません。
(開き直れない・・・)
植物の声を聞き、美に添って生活している人は内なる美を備えているのだと思います。
珠寶さんからの、「ヒロクニさんにもまた会いたいな。」との言葉を伝えると、
「嬉しいねぇ。」と一言。
交流があった時間を思い出すと、懐かしい。
皆、若かった。
わたしも20代だったからねぇ~。
今日は、いつもの夫婦喧嘩ではなく、文化的な内容になりました。
「俳句」「華道」と日本的なことが中心で、ヒロクニさん流に言うと「和風」。
わたしも「献花」を拝見して、美しい気持ちをもっと持たないと!と思った次第。
いつも「うるさいわね~。」とか、「いい加減にしなさい。」と小言を言ったりして、
ムカつく日常を送っているとダメだ・・・、と危機感を感じだぐらい。
それでも、時間は流れていく。
思った時に、少し意識して流れを変えてみたい。
今日も、最後までお読みになった方、ありがとうございます。
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