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メモのような作品。小品です。
三ノ宮と書いてあり、神戸の街の絵。
このところ、ブログを書くのが遅くなってしまっています。
日々、思うことが、たくさんありすぎて、あっという間に一日が終わってしまいます。
そんな風に過ごしていると、
急にヒロクニさんは、「人間は風にそよぐ葦やからなぁ~」。と云って去って台所をさってアトリエへ。
また、詩人になったのか?と思う。
私も「ヒロクニさんの絵は、表現主義といったら可笑しいか?」とちょっと聞いてみた。
一日経って、ドイツの表現主義の文章が書かれた画集の中の文章を「読んどいてね」。と言われ、
読んでみた。やはり、時代の中の定義があるようで、キャバレー文化というか、ボヘミアン達があふれ、
そういう芽の発端が、表現主義から出だしていた。のちに、フランスでは、ロートレックや印象派達に、
エルンストなどのシュールレアリズム運動の芽へと繋がっていくことが書かれていて、
なかなか興味深く読み、その本の中の絵を眺めていた。
ヒロクニさんは、ドイツの表現主義の作品や、ドイツのバンドのCAN等を非常に高く評価している。
私自身は、ドイツ人の絵画は少し肌に合わないようなのだか、ヒロクニさんにはキラキラとした
宝箱のような感じである。
あれこれ思うのは、日本の古典を読み始めたことにはじまる。
現在は、「枕草子」に入っているが、「帝(天皇)」の微笑ましいエピソードが、非常に人間的に
語られ、それの文章を書いたのは女性であり、古来から女性が活躍する余地があった日本。
何度も「帝」は、登場し、心温まるやりとりがされる。
枕草子は、平安時代の一番安定していた時期に書かれたのが、よく分かる。
なによりも、明るく素直で晴れやかな随筆。不安の入り込む余地がないのです。
随分前の話になるけれど、NHKの大河ドラマで平将門をやっていた時、「日王」と天皇のことを
表現していて「違和感」を覚えたことを思いだしました。
やはり、「帝」とテレビでも表現しなければならなかったと強く思いました。
もしかして、そのドラマは基本的な古典などの素養もなく、わざと「日王」と表現したとしたら、
それは、日本人じゃないのでは?との思いを強く持ちました。
そんなことを考えていたのです。
古典・平家物語でも、高倉天皇のエピソードが出てきます。
高倉上皇は人徳に優れた賢王で幼少の頃から柔和でした。
十歳の頃、紅葉を大変愛され、庭に紅葉を植え、一日中眺め暮らしておられました。
ある時、風が激しく吹いて紅葉を吹き散らしたことがありましたが、 庭掃除の召使どもが、その紅葉を集めて、
酒を温める火種にしました。
気づいた係の役人は、真っ青になって高倉天皇に報告します。
しかし高倉天皇は「林間に酒を煖めて紅葉を焚く(注)という詩の心を、誰がお前たちに教えたのか」と
かえって感心され、何のお咎めもなさいませんでした。
こういう心温まるエピソードが、とても多いのです。
平家物語以外にも、特に徒然草にも、その時代の「天皇」のエピソードが数多く見られ、庶民からも慕われている
様子が、古典ではあたりまえであり、高貴な人も文人も庶民も心の支えにしている風がみられ、そんなことに
改めて気づかされ、驚いたりしています。
ニュースで、「生前退位」と乱暴に発言しているのを聞くと、古典の奥ゆかしさにふれたあとでは、
酷く乱暴に聞こえるのです。なにか、美しくないのです。
古典を読み出してから、何か内なるものに変化が起きそうな予感がしています。
こちらは、粋人の「着物の本」。
白洲正子氏は、白洲次郎氏の奥様でもあります。
また、瀬戸内の画家、「松田正平」が無名の頃から、目をつけ評価したという目利き。
![]() | 白洲正子のきもの (とんぼの本) |
クリエーター情報なし | |
新潮社 |
そんな人が、45歳から着物に寝覚め、自分で「こうげい」という店を経営してしまう。
目的としては、『職人的技術と工芸作家の創意を結びつけること』というコンセプトとやはり白洲正子氏の
美的感覚が生かされてこそ出来上がった着物が、語られています。
白洲正子氏の粋な着物と帯の組み合わせは、やはり特別な美という感じがして美しい。
かわいらしいという感覚ではなく、こざっぱりしていて、高価なものなのに奥ゆかしさを感じるのがいい。
着物を日常着る努力をしていて思うことは、ごろごろと寝たりできないので、働き者になります。
また、着物のままで、買い物などに行きますが、微笑んでくれる方がいます。古い汚れても気にならない
レトロな着物は、「あー、こういう着物、私も持っている」というようなものなので、懐かしいく思う人が
いるのかもしれません。
武内ヒロクニの絵。また、ドイツの絵画。古典。着物。白洲正子氏という目利きの粋人。
皆、芸術です。
東京での個展が、銀座にある「ギャラリー枝香庵」にて、9月に決まりました。
ヒロクニさんも、気持ちを9月に向けて焦点を定めているのが、伝わってきます。
私も気持ちを引き締めているところです。
すぷりんぐぶるんねんで、
ちぼがゆぬぶろっすあだんでくろを研いているからあこうだんすもとらずにすぷりんぐぶるんねんをばばすると拙いんじゃないってけんつくと、
まるきりむしを決めこんで、
くろろふぃるで汚れたすぷりんぐぶるんねんのまうぃを掬うとぶうしゅをくちゅくちゅさせるから、
呆れちゃうけど、
ゆぬきゃぷうしゅふうどををひっぱられてすぷりんぐぶるんねんにもんどりうつからぶいよんに浸したぱんどぅかんぱうにゅみたいにちるどれんはずぶ濡れなんだ。
だけど、
ちわろなにしょんやくるぴよんのもんろうかうぶがまるわかりなんだもの、
へぇありぃのぴょぅうびぃすすうふをちぼがさや咎めするもんだからくちくなっちゃうでしょって、
ちぼにべにょわうるでへぇありぃのぴょぅうびぃすすうふを剃られてぴゅぅうびぃすすうふがどれうんほうるに詰まっちゃうから、
息ができないよとどれうんほうるに棲むすりが這いだすんだけど、
哀れにおもんばかってるずぃずぃをちゅうちゅうべうぜしてあげると、
ちゅういんがむまだむがあやまつから、
いかさまちゅういんがむまだむはろけっとの父と呼ばれたこんすたんちんちんぐらうふのゆぬふぃうゅびやんねめなのだけど、
ゆぬふぃうゅびやんねめはろけっとのさどるが売りなだけに、
そうすると、
すりがべにょわうるのしゃわうのぶらんけっとを取っ払うやうり捌こうとするから、
すちゅうでんとがぴしゃりとやるんだけど、
すりは怯むこともなくぶらんけっとをこ脇に抱え込んでどれうんほうるに潜りこんぢゃうからちゅういんがむまだむも後に続くけど、
それでなくってもちゅういんがむまだむはちゅういんがむだったから、
どれうんほうるのあっちこっちにさどるのまむろんがへばりついちゃうから、
にっちもさっちもいかなくなって、
さぞかしまごついているだろうなとねめると、
けろっとしているからやっぱりろけっとのさどるなんだ。
箋註
すぷりんぐぶるんねん、噴水 ちぼ、山羊のこと悪魔の意 ゆぬぶろっすあだん、歯ぶらし くろ、歯牙 あこうだんす、許可 ばば、使う くろろふぃる、藻 まうぃ、水 ぶうしゅ、口 ゆぬきゃぷうしゅふうど、昔風の頭巾 ぶいよん、肉や骨の煮だし汁 ぱんどぅかんぱうにゅ、田舎のばん ちわろ、抽斗 にしょん、おっぱい くるぴよん、尻 もんろうかうぶ、女優のまりりんもんろうのぼでぃうのかうぶらいん へぇありぃ、毛むくじゃら ぴょぅうびぃすすうふ、陰毛 べにょわうる、浴槽 どれうんほうる、排水孔 すり、どぶ鼠 るずぃずぃ、おちんちん べうぜ、口吸い ゆぬふぃうゅびやんねめ、愛娘 あやまつ、物事をしそこなう こんすたんちんちんぐらうふ、人名 さどる、乳房 ぶらんけっと、しゃわうへっどの金具