システム・エラー
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小学生の低学年のときに、学校を数週間休んだことがあるんだ。なぜ、いままで覚えているかっていうと、その頃の算数のメーンイベントである掛け算九九を教えられる時期だったからなんだ。ある日、こじれた風邪が治って、それでもまだ完全に体力を取り戻していない状況で、先生に覚えたての九九を、一人ずつ順番に並んで、声に出して、生徒たちが唱えていた。びっくりだよ。一番、大切な期間を逸してしまったのか、と急に不安になったりして。
数字自体は、とても好きなんだ。だって、大体多いか、少ないかの問題でしょう。数字って。そろばんを習ってたこともあるしね。これも、遊んでいるときに突然、母親に呼ばれ、
「あんた、今日からそろばんに行くんでしょう」と言われたりした。行きたいとも言ってないし、本人は楽しく外で遊んでいたのに。
でも、習うと楽しいんだよ。頭の中に、そろばんが浮かび上がり、いつでも小銭のおつりなんかは自然と計算したりしてね。でも、これも廃れゆくものだよね。誰も、もう習いもしないかもね。なんか一攫千金と結びつかないお稽古ごとだし。
成績も良かったんだ。その生徒たちのなかでも計算が早くてね。自慢じゃないよ。だってきちんと級をもらうような試験を大会場で受けるときは、かならず失敗して帰ってくるんだから。その往き帰りの風景だけ、なつかしく覚えているよ。でも、数字って、最後に帳尻を合わせないと、恐いことが起こるような心配まで、数字にはある。ナンバーに信仰を置いているのかな。
こんなこともあるが、うちの両親は、勉強については一切、口を出さなかった。勉強をしろ、と一度も言われたことがないし、逆に、良い成績を残しても、一度も誉められたこともないけどね。どっかで、影で言ってたのかもしれないけど、当人に耳に入ってこなければ同じことだよね。最近は、教育の仕方も変わったのかもしれないが、ぼくらの子供のころは、まだこんなだったんだ。思い切り抱きしめるような場面が、アメリカ映画に出てくるが、実際は、もっと淡白な昭和の子供だよ。
その恐れていた掛け算九九も自然とすらすら言えるようになり、克服したよ。その時の先生が、いま考えると定年間近なんだろうね。生徒に厳しくしないで、優しく包み込むように労わってくれた。あれこそが、教育だと思うね。ある種、枠内に放し飼い。その次のヒステリー気味の女性の先生が来る前までの安楽だよ。どこかで、やはり帳尻が合うのかな。
でも、大勢の人間に向かって、教えられることなんてたかが知れているよ、個人的なレッスンか、自分で学んだことしか、最終的に残っていないのかもしれないしね。教育について、たくさん話しすぎたかな。多くの人は、若いときに、もっと勉強していたらよかったと後悔するように出来ているよ。学校の校門に刻印していたらよいのに。卒業生の言葉。「あの時、もっと勉強したら」とかね。老眼も迫っちゃうし、早く何とかしたいんだ。
それと、いつからか、テレビが深夜放送をはじめて、朝まで、どうにか時をやり過ごすことも出来るようになってしまった。あの時間、もっと本を読んでいたような気もするが、これも思い過ごしかな。知識を詰め込みすぎた人間も見苦しい感じもするので、この辺で、教育について語るのはやめようかな。静かな図書館に集まっている若人に、幸あれ、とか言って。
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小学生の低学年のときに、学校を数週間休んだことがあるんだ。なぜ、いままで覚えているかっていうと、その頃の算数のメーンイベントである掛け算九九を教えられる時期だったからなんだ。ある日、こじれた風邪が治って、それでもまだ完全に体力を取り戻していない状況で、先生に覚えたての九九を、一人ずつ順番に並んで、声に出して、生徒たちが唱えていた。びっくりだよ。一番、大切な期間を逸してしまったのか、と急に不安になったりして。
数字自体は、とても好きなんだ。だって、大体多いか、少ないかの問題でしょう。数字って。そろばんを習ってたこともあるしね。これも、遊んでいるときに突然、母親に呼ばれ、
「あんた、今日からそろばんに行くんでしょう」と言われたりした。行きたいとも言ってないし、本人は楽しく外で遊んでいたのに。
でも、習うと楽しいんだよ。頭の中に、そろばんが浮かび上がり、いつでも小銭のおつりなんかは自然と計算したりしてね。でも、これも廃れゆくものだよね。誰も、もう習いもしないかもね。なんか一攫千金と結びつかないお稽古ごとだし。
成績も良かったんだ。その生徒たちのなかでも計算が早くてね。自慢じゃないよ。だってきちんと級をもらうような試験を大会場で受けるときは、かならず失敗して帰ってくるんだから。その往き帰りの風景だけ、なつかしく覚えているよ。でも、数字って、最後に帳尻を合わせないと、恐いことが起こるような心配まで、数字にはある。ナンバーに信仰を置いているのかな。
こんなこともあるが、うちの両親は、勉強については一切、口を出さなかった。勉強をしろ、と一度も言われたことがないし、逆に、良い成績を残しても、一度も誉められたこともないけどね。どっかで、影で言ってたのかもしれないけど、当人に耳に入ってこなければ同じことだよね。最近は、教育の仕方も変わったのかもしれないが、ぼくらの子供のころは、まだこんなだったんだ。思い切り抱きしめるような場面が、アメリカ映画に出てくるが、実際は、もっと淡白な昭和の子供だよ。
その恐れていた掛け算九九も自然とすらすら言えるようになり、克服したよ。その時の先生が、いま考えると定年間近なんだろうね。生徒に厳しくしないで、優しく包み込むように労わってくれた。あれこそが、教育だと思うね。ある種、枠内に放し飼い。その次のヒステリー気味の女性の先生が来る前までの安楽だよ。どこかで、やはり帳尻が合うのかな。
でも、大勢の人間に向かって、教えられることなんてたかが知れているよ、個人的なレッスンか、自分で学んだことしか、最終的に残っていないのかもしれないしね。教育について、たくさん話しすぎたかな。多くの人は、若いときに、もっと勉強していたらよかったと後悔するように出来ているよ。学校の校門に刻印していたらよいのに。卒業生の言葉。「あの時、もっと勉強したら」とかね。老眼も迫っちゃうし、早く何とかしたいんだ。
それと、いつからか、テレビが深夜放送をはじめて、朝まで、どうにか時をやり過ごすことも出来るようになってしまった。あの時間、もっと本を読んでいたような気もするが、これも思い過ごしかな。知識を詰め込みすぎた人間も見苦しい感じもするので、この辺で、教育について語るのはやめようかな。静かな図書館に集まっている若人に、幸あれ、とか言って。