償いの書(25)
そして、妹にも子どもが生まれた。元気そうな男の子だった。顔は不思議とぼくに似ていた。もしかしたら不思議なことではないのかもしれないが、自分に似た存在が別の形となってベッドに寝ている姿に驚いただけなのだろう。驚いたとしても、その似ているということで、ぼくはその対象を直ぐに好きになり、簡単に新しい存在を受け入れた。
妹は、すこしやつれていたようだが、それでも達成感に満ち足りたのか、別の次元の美しさがあった。ぼくは、自分の両親や山下の両親ともいくらか話し、直ぐに帰ってしまった。それは、家族の重さというものを必要以上に感じてしまったからなのだろう。だが、その週末には裕紀も見てみたいというので、ぼくはふたたび妹を見舞った。
その小さな存在を裕紀は真剣なまなざしで見ていた。もともとが子どもが好きなひとだったのだ。彼女は恐れもせずにその子を抱き、なにか小さな声で話しかけていた。その母性の表れをぼくは客観的に眺め、また妹の表情をみた。誰からも愛される存在を期待し望んでいるならば、彼のスタートは良好なものだった。ぼくらは居過ぎても悪いので、すごすごとそこを出た。だが、裕紀は名残惜しそうにしていた。そして、病院をでてからも、いかに赤ちゃんが愛らしかったかを述べつづけた。
ぼくらは土手を歩き、高校生が部活動でジョギングして横を通り過ぎるのを感じるともなく感じていた。そのような暖かな気分がいたるところに漂い、ぼくらを解放的な気分にしてくれた。
河川敷では野球やサッカーが行われ、小さな子たちも運動に励んでいた。さっきの子どもがそこまで成長するためには、どれほどの愛情が注がれる必要があるのかを考えた。
「ひろし君も、ああいう子がほしい?」
「それは、いつかね」
「近いいつか? 遠いいつか?」
「近いいつかの部類に入るんじゃないのかな」
「そう」
「ぼくが、もしそうなるなら、その子のお母さんになるのは裕紀だけだよ」ぼくは、川の向こう岸を見ながら大切な言葉でもないふりをして、そう言った。
「ほんと?」
「ほんとうだよ。いつか結婚しよう」
「え?」
「いや、聞こえていたはずだよ」
「ううん、聞こえなかった」
「いつか結婚しよう」
「とても大切なことを、ひろし君はいま言ったんだよ」
「知ってるよ。でも、こんな天気のもとで心配もない気持ちのときに聞いてもらいたかった」
「高級なレストランを予約するわけでもなく?」
「そう」
「寒い空のなかで夜景がきれいに見える場所でもなく」
「そう。暖かな太陽を浴び、少年たちは無心にボールを追いかけるのを見守りながらね」
「ひろし君て、やっぱり、そういうひとなんだね」
「残念?」
「ただ、自分に正直でありつづけようと思っているみたい。ときには間違った道を歩みそうになるけど」
「それでも、着いてきてくれる?」
「うん」と小さく彼女は頷いて、ぼくの肩にもたれてきた。
ぼくは、いまの瞬間までそのようなことを口にするつもりもなかったのかもしれない。だが、別の面から見れば、どこかで言うべきタイミングをずっと探していたのかもしれなかった。再会してから、いい加減な気持ちで付き合いを始められなかった以上、この言葉が出る必然性はあったのだ。それが、いまの瞬間を待っていただけなのかもしれない。ぼくは、まだ10代の半ばで裕紀をはじめて見たときの印象を思い出している。それから、数年のことも思い出せた。しかし、ぼくは彼女を失い、また別の大切なもうひとりの存在の胸に飛び込んだ。東京に出て来ても、忘れられなかったその女性のことを、再会した裕紀が胸の焦がれを消してくれた。このようなぼくの大切なストーリーがあった。その帰結として、この土手に座っているふたりがいたのだ。
ぼくらは漠然とした未来のことを、それぞれの頭のなかで組み立てていたらしく、口数が前よりも減った。だが、気持ちの方は、以前より強く結び付けあっていたはずだ。
彼女は、ぼくの家に寄り、ふたりで簡単な料理を作り、その夜の時間を過ごした。ぼくらは大切な言葉を語り合ったからなのか、いつもより視線をぶつけ合うことが少なくなってしまった。もう別れることも可能なのだというぐらついていた他人ではなくなるという予兆があった。
彼女は、電車の時間を計算し、また服装を直して洗面所の鏡に自分をうつしてからバッグを持ち直しそとに出た。ぼくも、いつものスニーカーを履き、後を追うように駅まで見送った。
「さっきの言葉、全部うそじゃないよね?」別れ際に彼女は、念を押すように確認した。
「もちろん、ほんとの気持ちだよ」
「そう、よかった」彼女の背中は段々と小さくなったが、その言葉はぼくの耳の中でより大きくなり響いていた。
ぼくは、裕紀を選ぶことにした。そして、なぜか帰る道すがら、もうひとりの女性のことも考え、彼女を選ばなかった理由をたくさん見つけようとしたが、どれひとつとして正解の○を与えてくれそうなものはなかった。
そして、妹にも子どもが生まれた。元気そうな男の子だった。顔は不思議とぼくに似ていた。もしかしたら不思議なことではないのかもしれないが、自分に似た存在が別の形となってベッドに寝ている姿に驚いただけなのだろう。驚いたとしても、その似ているということで、ぼくはその対象を直ぐに好きになり、簡単に新しい存在を受け入れた。
妹は、すこしやつれていたようだが、それでも達成感に満ち足りたのか、別の次元の美しさがあった。ぼくは、自分の両親や山下の両親ともいくらか話し、直ぐに帰ってしまった。それは、家族の重さというものを必要以上に感じてしまったからなのだろう。だが、その週末には裕紀も見てみたいというので、ぼくはふたたび妹を見舞った。
その小さな存在を裕紀は真剣なまなざしで見ていた。もともとが子どもが好きなひとだったのだ。彼女は恐れもせずにその子を抱き、なにか小さな声で話しかけていた。その母性の表れをぼくは客観的に眺め、また妹の表情をみた。誰からも愛される存在を期待し望んでいるならば、彼のスタートは良好なものだった。ぼくらは居過ぎても悪いので、すごすごとそこを出た。だが、裕紀は名残惜しそうにしていた。そして、病院をでてからも、いかに赤ちゃんが愛らしかったかを述べつづけた。
ぼくらは土手を歩き、高校生が部活動でジョギングして横を通り過ぎるのを感じるともなく感じていた。そのような暖かな気分がいたるところに漂い、ぼくらを解放的な気分にしてくれた。
河川敷では野球やサッカーが行われ、小さな子たちも運動に励んでいた。さっきの子どもがそこまで成長するためには、どれほどの愛情が注がれる必要があるのかを考えた。
「ひろし君も、ああいう子がほしい?」
「それは、いつかね」
「近いいつか? 遠いいつか?」
「近いいつかの部類に入るんじゃないのかな」
「そう」
「ぼくが、もしそうなるなら、その子のお母さんになるのは裕紀だけだよ」ぼくは、川の向こう岸を見ながら大切な言葉でもないふりをして、そう言った。
「ほんと?」
「ほんとうだよ。いつか結婚しよう」
「え?」
「いや、聞こえていたはずだよ」
「ううん、聞こえなかった」
「いつか結婚しよう」
「とても大切なことを、ひろし君はいま言ったんだよ」
「知ってるよ。でも、こんな天気のもとで心配もない気持ちのときに聞いてもらいたかった」
「高級なレストランを予約するわけでもなく?」
「そう」
「寒い空のなかで夜景がきれいに見える場所でもなく」
「そう。暖かな太陽を浴び、少年たちは無心にボールを追いかけるのを見守りながらね」
「ひろし君て、やっぱり、そういうひとなんだね」
「残念?」
「ただ、自分に正直でありつづけようと思っているみたい。ときには間違った道を歩みそうになるけど」
「それでも、着いてきてくれる?」
「うん」と小さく彼女は頷いて、ぼくの肩にもたれてきた。
ぼくは、いまの瞬間までそのようなことを口にするつもりもなかったのかもしれない。だが、別の面から見れば、どこかで言うべきタイミングをずっと探していたのかもしれなかった。再会してから、いい加減な気持ちで付き合いを始められなかった以上、この言葉が出る必然性はあったのだ。それが、いまの瞬間を待っていただけなのかもしれない。ぼくは、まだ10代の半ばで裕紀をはじめて見たときの印象を思い出している。それから、数年のことも思い出せた。しかし、ぼくは彼女を失い、また別の大切なもうひとりの存在の胸に飛び込んだ。東京に出て来ても、忘れられなかったその女性のことを、再会した裕紀が胸の焦がれを消してくれた。このようなぼくの大切なストーリーがあった。その帰結として、この土手に座っているふたりがいたのだ。
ぼくらは漠然とした未来のことを、それぞれの頭のなかで組み立てていたらしく、口数が前よりも減った。だが、気持ちの方は、以前より強く結び付けあっていたはずだ。
彼女は、ぼくの家に寄り、ふたりで簡単な料理を作り、その夜の時間を過ごした。ぼくらは大切な言葉を語り合ったからなのか、いつもより視線をぶつけ合うことが少なくなってしまった。もう別れることも可能なのだというぐらついていた他人ではなくなるという予兆があった。
彼女は、電車の時間を計算し、また服装を直して洗面所の鏡に自分をうつしてからバッグを持ち直しそとに出た。ぼくも、いつものスニーカーを履き、後を追うように駅まで見送った。
「さっきの言葉、全部うそじゃないよね?」別れ際に彼女は、念を押すように確認した。
「もちろん、ほんとの気持ちだよ」
「そう、よかった」彼女の背中は段々と小さくなったが、その言葉はぼくの耳の中でより大きくなり響いていた。
ぼくは、裕紀を選ぶことにした。そして、なぜか帰る道すがら、もうひとりの女性のことも考え、彼女を選ばなかった理由をたくさん見つけようとしたが、どれひとつとして正解の○を与えてくれそうなものはなかった。