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償いの書(27)

2011年02月19日 | 償いの書
償いの書(27)

「今度、東京にゆり江ちゃんが遊びに来ることになった」と、裕紀は嬉しそうに言う。
「そう」
「なんだ、関心ないみたいだね」
「そんなことないけど、どうなったのかね」
「なにが?」
「いや、いろいろな様子がね、変わったのかな、とか、そのままなのかなとか想像した」
「会ってみれば、分かるんじゃないの」
「ぼくも、会うの?」
「え、なんで、会わないの?」

 ぼくは、結婚することになる裕紀に対して、これからずっと秘密は作らないようにと決意していたが、過去の問題はまた別であることを知った。ぼくとゆり江という女性は、数年前、誰にも見つからないような関係を持っていた。妹と同じ年で、また、ゆり江と裕紀は子どものころに同じ習い事をして仲が良かったのだ。だからといって、ゆり江という子がすべてを話してしまうほど、子どもだとも思えなかったが、どうなることやらそれ以降は成り行きに任せ、自分はすこし心配が増えた。その晩は、若気の至りが、自分を追っかける夢を見た。いやな汗をかき、秘密を秘密のまま維持しようとしている自分にもゆううつな気持ちを感じた。

「こんにちは、お久し振りです」
 ぼくは、その日になって、裕紀とゆり江ちゃんが待っている場所に向かい、そして、対面した。彼女は、すっかり大人の、それも魅力的な女性になっていた。どういう形であれ、ふたりの愛した女性がそこにいるということに、当然ながら、ぼくは違和感がその主張や存在を自分の内部で示していたことを知る。

「あ、すっかりきれいになっちゃって」
「裕紀さん、いつも、ひろしさんはこんなこと言うんですか?」
「さあ、どうだろう、言うかな」
「わたしの彼は、あまり言わない」
 その後、ふたりは楽しげに話し、尽きることのない会話はいつまでも無尽蔵につづくようだった。ぼくは、いくらか安堵して空腹をいやそうと、そこらに出ているものをたいらげた。

「なにかわたしが知らないふたりのエピソードを話して?」と、裕紀は無邪気にそう言った。そのイノセントな気持ちが彼女の未来の命取りにならないことを願った。それから、空をみつめたゆり江はあれこれと考えているようだった。
 しかし、それは、とても美しい話で終わった。

「わたしが最初にひとりで住んだ家は、ひろしさんが車で何軒もいっしょにまわってくれて探してくれた部屋だった。景色を選ぶか、生活のし易い方を選ぶかで迷ったような気持ちもあったけど、仕事から、そこへ帰るのが楽しみになるような部屋にいつの間にかなった。生活の必要なものもいっしょに探してくれたよね? こんなひとがお兄ちゃんや彼氏であったら楽しいだろうな、とかたまに思ったけど、わたしはそう告白もできないほど、裕紀さんにも悪いけど、ひろしさんにはきれいな彼女がいて、あのひとに勝てるひとなど、そう見当たらないといつも思っていた。何回か部屋の様子なんかもきいてくれて、アフターサービスもしっかりしてくれた」

「好きだったみたいだね?」
「どうだろう? 親切と好意がわたしに勘違いをさせたのかも。だが、それ以降なにも発展しなかった」と、その話に結論をくだした。彼女もうそをついたのだ。誰も、裕紀の無邪気な気持ちを壊そうとは考えられなかった。そして、ずっと彼女は真実を知らないままで終わるのだ。しかし、ぼくもいつの間にかそのうそを信じるような気持ちに移行している自分を感じている。だが、それも、ゆり江が時折り見せる表情で簡単に覆された。

「ごめん、ありがとう」
 裕紀がトイレに立ったときに、ぼくは本当に小さな声でゆり江に向かって言った。
「わたし、ふたりのことがとっても好きだから。だけど、貸しは貸し。うそだよ」と、魅力一杯に彼女は笑った。ぼくは、胸の奥がいたくなるほど、それを美しく感じた。彼女の今日の、それも25歳の女性の一瞬の笑顔を見られたことに感謝したい気持ちになった。

「裕紀にも、雪代にも会わなかったら・・・」
「なんか、ひろし君は正直だけど、ひどいね。いいよ、わたしにも素敵な彼氏がいるんだから。そう、美紀ちゃんの赤ちゃんを見ることになった」
「なに、話してるの?」戻ってきた、裕紀がたずねる。
「妹の子どもを見ることになったんだって」と、ぼくは会話の方向がずれたことを喜んでもいる。

「ほんとに可愛い子なんだよ。わたしもいっしょに行こうかな」
 話は、その計画に移っていった。ぼくも、トイレに立ち、自分の選択の結果を考えている。間違いでないのは知っていたが、それでいくつかの可能性を消滅させることになるのだということも感じていた。欲張りな自分を恥じ、自分のいまの幸運を失わないことも願っている。鏡にうつった自分の顔は、そう魅力的でもなかったが、何人かの女性は本気で愛してくれたということもそれは語っており、ただ、不思議な気持ちに包まれている。

 それから、店をでて裕紀の家に泊まるということで彼女らは一緒の地下鉄に乗った。ぼくは、いくらかの小さな玉のような心配もすこし残し、さらにそれ以上の大きな喪失感も酔いが頭の重みを増していくように、そこに確かにあった。
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